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理解者と自分

知音

 そのまた昔、中国春秋時代に伯牙(はくが)という琴の名手がいました。彼は卓越した才を持っていましたが中々理解者がいませんでした。しかし鍾子期(しょうしき)という者に出会い即時に彼らはお互いの琴の才を理解し合い、仲を深めます。(この運命的な出会い、共鳴は後に『琴線に触れる』と表現されます。)鍾子期は伯牙にとっての友人でもあり貴重な聞き手であったのです。お互いの『音』を知る、つまり彼らの一番知ってほしい自分を彼らは理解しあっていたのです。これが故事でもある『知音』の由来です。その後、鍾子期は亡くなってしまい伯牙は「もうこれ以上私の音を理解できる者はいない」と琴の弦を切り、もう二度と弾くことはなかったそうです。またこれを『知音』と似た意味を持つ『断琴の交わり』とも言います。それほどまでに伯牙にとって自身の音の理解者は大事だったのですね。また鍾子期の伯牙への理解は音だけではないことも明白です。
 
 音楽の表現において、自分の表現スタイルへのこだわりや努力への理解は多少なりとも音楽へのモチベーションであったりまた自信であったりと精神面にも関わってきます。自信の個性、音楽性への理解者を失くすということは、伯牙の行動から引用すると『琴を亡くした琴奏者』と同義なのかもしれません。ですが考え方を少し変えると、無意識だとしても今現在何か続けていること、頑張っていること、また個性の表現ができているのは(今でも過去でも)理解してくれる人がいるからこそなのかもしれません。伯牙の様に個性を表現し、鍾子期の様に他者の個性を理解することができる友達は絶対に大切にしてください。

友達という存在

 近年ではインターネットの登場によって新しいコミュニティが形成される様になりました。「顔の知らない友達」とも表現される存在です。またインターネットの便利さの恩恵で24時間絶え間なく繋がっていられることもできる様になったわけです。そのようなコミュニティに批判的な意見は様々ありますが僕は顔は知らずとも人は変わらずに着飾ることもできるし本を、または自分を押し出すこともできると思っています。確かにインターネットとは相手の情報が曖昧なため、確実性や信憑性が不透明な部分もありますがそれ故の利点もあると私は思います。(今回それらについては割愛します)
 上記のような『友達』やリアリティーのある友達も含め、友達という存在において個人的には「取り繕った様な振る舞いでいる友達」よりも「何もかもありのままでいられる、そんな友達」が隣にいてくれると安心します。無意識的にも知音でいられる人。それだからこそ現代では恋人であったり奥さんにも『知音』と使われるのかもしれません。また友達同士理解をするだけに留まらず、時には互いの意見をぶつけ合ったり様々な音を交わし合える様な存在がいてくれるとより人生が豊かになるかもしれません。

自分を思うように相手を思いやること、助け合うこと。


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