私になるまで10

その時の私は、漠然と私みたいな障害者の役に立てたらなぁ…と思い始める。しかし、コンプレックスである喋る事が出来なければ、どうしようもない

時代は昭和から平成へ移り変わり…障害者が大学に行くということもさほど珍しいことでは無くなった。大学の中では、何もかも平等だった。勉強しなければ単位は落としす。私はそんなに真面目な学生ではなかった。タバコは吸うわ、酒は呑むわ…親が知ったら、殺到してきそうな不健全さ。

しかし沢山の友達が、先輩が、後輩が、支えてくれた。人は1人では生きていけない。けれど、自立した人になりたい。そんな事をよく話していた。普通の人なら、まぁそれが当然なので、そっかで終わる。

その当時私はみんなからどのように思われていたのか知らない。けれど、川に山に誘われれば行く。

地域のボランティア活動にも参加した。そこで出会った仲間は愉快な仲間たちだった。

ボランティアと言いながら私自信楽しんだ。まぁ言えば障害者の余暇活動のお手伝いって感じだろうか?週一で障害者とボランティアとが話し合い、やりたい事、行きたい所を出し合い、決めて実行する。グループ名は「ふらっと。この意味は平らな所を意味している。」障害者も健常者も関係なく、楽しい時間を過ごす。ボランティアの中に片麻痺の女性がいた。昼は公務員で働くワーキングウーマン…障害枠で府庁に入ったが、凄く輝いて見えた。

彼女とはすぐ仲良くなって、家にもよく遊びに来た。彼女は高卒で働くようになったらしく、大学に行きたかったぁってよく話していた。私からすれば、高校を卒業して、公務員になる方が羨ましく思えたが。

大学3年生になり、そこはかとなく不安な気持ちになることが多くなる。そんな中3年生になると、福祉実習が大学の必修科目にあり4週間泊まり込みでの施設実習が、義務付けられる。私は知的障害児の更生施設を選んだ。当時は、知的障害ではなく、精神薄弱と呼ばれていたが…どちらにしろ、なんて差別的な言葉だろう。ただ少し普通の人と違うだけで、偏見の眼差しが何時もどんな時代でもある。私にしてもちょっと動きがおかしいだけなのに。じーっと見てくる人が今でさえいる。


当時は、ノーマライゼーションが多くうたわれた時期。障害があっても社会の中で普通に生きる。けれど、それは、健常者に近づく為にリハビリを頑張り、自助努力を惜しまない。当時は、そういう固定観念が根強くあった。その固定観念を打ち破って、前に進むという考えは邪道だった。話は逸れてしまったが、とにかく当時精神薄弱更生施設と呼ばれる場所に実習に行った。

今はまだ修行中の身ですが、いつの日か本にしたいという夢を持っています。まだまだ未熟な文章ですがサポートして頂けたら嬉しいです。