私になるまで9

高3になり、みんな何となく、進路について話す事が、多くなった。小さい頃から母から「あんたは障害あるし、大学行って出来る仕事見つけるしかないよ。」と言われて育った。学歴が全てではないがその時は、何になりたいかも何をしたいかもわかってなかった。ただみんなと同じ事がしたい。上手く話せないもどかしさは、当時私のコンプレックス…頑張り屋さんの愛ちゃんは実は内気な人見知りさんだった。だから何?友達という存在に依存してたという訳では無い。今の居場所が無くなるのが怖かった。もう一度中学時代の闇の世界に戻りたくない。笑顔を絶やさない明るい性格を常に演じた。

はずかしながら、私の成績は中の下くらい。好きな科目は、点数はいいが苦手科目は赤点ギリギリだった。評定平均3.1.この時はまだ何とかなるさ。という妙な自信があった。一学期末の三者面談。担任に短大の社会福祉学科を進められた。障害者を受け入れてくれやすい学校といえば福祉。そういう固定観念があったのかもしれない。そこなら、推薦入試で筆記試験のみ面接なし。勉強すれば受かるかもしれないということだった

夏休みしっかり勉強したら合格圏内だろう。ということで。簡単に決めた。

浅はかな考えのまま、夏休みに突入。少しは勉強していたが、必死ではなかった。高校最後の夏休みだったから。男子女子合わせて10人くらいで、川に遊びに行った。当時ガキ大将の風格の男子に自転車の後ろに乗せてもらって凄いスピード出され泣きそうだったけど、今も地元にいて、会うと声をかけてくれる。さて、あっという間に推薦入試の始まる秋になり。うちの両親と半分旅行気で行く。そんなにテスト内容は難しいものではなかった。だから合格するだろうと思っていたが…

不合格!受験はそんなに甘くなかった。クラスの友達は推薦入試で合格する中、私は取り残された。

担任は、そんな私に「大学にこだわる必要ない…」と言った。「ここは田舎の高校でいい子ばかりだけど、都会はそうは甘くない。」と、じゃ、どうすればいい?って聞いても何も答えてくれない。それならば障害者の職業訓練校が大阪にあると親が調べてきた。そこなら通いながら月10万の補助費が出る。それに釣られて、見学しに行っては見たものの、勧められた学科は、タイプライターと縫製。そんなのやりたいことではなかったし、縫製に至っては手の震える私には無理に決まってる。

帰りの電車の中疲れと落胆しか無かった。しばらく考えたがやっぱり大学に行きたい。そう思った。何をしたいか分からない。だから大学に行ってから考えよう。

私には兄弟姉妹なかった。だから。家を出て、予備校に通うことになった。もしも1人娘でなかっらこんな事許されなかっただろう。予備校は特急列車で2時間。とても家から通える距離ではなく、寮に入った。女子5人の

風呂トイレ共同。最初は障害のある私を見て、何にも出来ないと思ったらしい。風呂は交代で掃除することになっていたが私に「浅野さんはいいから。」って素っ気なく言われた。他の4人はとても仲良くなる中で、取り残れた。そんな時、近くの看護学校に進学した小学校からの同級生が訪ねて来た。他の寮生達を呼んでお茶会。楽しく話す私と同級生を見て、なんだ普通に話せるやん。誤解が溶けた瞬間だった。その後徐々に心が通じるようになる。今その同級生は看護師の偉いさんになっているらしい。彼女には感謝してもし切れない。というわけで、今度は必死で勉強に励んだ。その結果、寮生の中で一番早く合格決め、年内には退寮した。

その裏には予備校の先生の力添えは大きく影響した。受験の際に時間延長を頼んでくれた。お陰で余裕を持って試験に挑めた。面接も集団面接が個別にして貰えた。恩師と呼べる先生。今も元気にしているだろうか?というわけで、まだ新たな世界に飛び込むことになった。







今はまだ修行中の身ですが、いつの日か本にしたいという夢を持っています。まだまだ未熟な文章ですがサポートして頂けたら嬉しいです。