青く小さい、まばゆい君を
「ボクのおかげで、晴れました!!」
小柄な彼女は両手を広げて、潮風の香りをいっぱいに吸い込んでいた。
「うーん! どこまでも青いね、サナちゃん!」
空の青と、一面に咲き誇るネモフィラがつながっているように見えた。
その中で彼女の派手なオレンジ色の、短い髪はとても目立った。
「ボクらは今、海浜公園に来ていまーす! どう? すごいね? すごいでしょー!」
セナは、アマチュアとはいえ演劇畑の人間だったから、いちいち声が通ってうるさい。
しかしその経験からか滑舌がいい。
その上、ボーイッシュな声色でありながら可愛い。
ちゃんと、めちゃくちゃ可愛いのだ。
「ねぇ、セナはそれ以上の語彙力はないの?」
「語彙力とか言わない。感じろ!」
「はいはい」
あたしは苦笑しながら、相方の強引な口調に折れた。
「何か別世界って感じがするね?」
「あ、わかるぅ」
セナはノリがいちいち軽い……のだが、その……遠回しな言い方で「おつむの足りなさそうな感じが可愛い」とのたまう男性は多い。
「どうですか? 花は小さくて可憐で……でも集まるとこんなに壮大になるんだって思います」
「ね? いいでしょ? だって、サナちゃんの大好きなブルーだよ? サナちゃんの好きなものはボクも大好き! だから視聴者の皆さんも遊びにおいで!」
でもピンクは苦手なの、どうしようと、やや小声でセナは言った。
「そりゃあね。ピンク……ピンクの服は、仕事でしか着ないっていうのはあるけど」
「そーいうわけだ。今度衣装さんにこの色の衣装作ってもらおうじゃない。ネモフィラのデザインどこかに入れてもらおうよ」
別に番組で使われるわけでもないのに、少年のようなキラキラした笑みを浮かべて話しかけてくる。
そういうセナが嫌いだ。
嫌いだがこれはビジネスだ。
『エスプリ』はいまどき珍しく、女の子二人組のアイドルであるのだから。
あたしは頭の中が沸騰しそうになるのを耐えた。
最近になってやっと、昼間のテレビ番組なんかに出させてもらえるようになった。
でも、エスプリとかいう割にはコメントにキレがないし、なんてことはない。
大人数で群れるのを好まないとか、セナもサナもバッサリショートカットにしてしまったとかはあるけど……そこら辺の女の子より若干変わってるかなぁ、ぐらいにしか見られない。
だから地方ロケだって、なんてことないように見える。
でも、あたしは知っている。
天野セナは悪魔だと。
「あ、でも……ねぇサナちゃん」
「何よ」
「何だっけ? オオイヌノフグリ? アレとどこが違うんだ?」
「ばっ……!?」
いつもこうやって、あたしを困らせるのが得意なのだ。
「あんたそれさ、それ多分カットされるだろうけどさ、その花の名前の意味知ってんの!?」
セナは首を傾げて、澄んだ瞳をこちらに向けた。
「いやぁー、前から気になってたから、誰か知らないかなぁって聞いただけなの」
「おいワザとか? その下ネタはアイドルとしてあるまじき行為だぞ」
「あ、そーなんだ。何か分かんないけどそうなんだ」
「これ生放送じゃなくてマジ助かったし……」
あのね、知ってるよ。
思春期の子供みたいな顔をしときながら、本当はあたしより年上だってこと。
こんなジョーク、知っておきながらあたしに吹っかけているのを。
あのな、似てたって別物なんだよ。
セナの……あんたの存在そのものと同じように、ということを、こういう時はいつも考える。
とても寒気がする。
昨日の晩は少し嬉しかったから、余計に。
昨日の晩……うちらはたまたま、同じ時間に同じ部屋で寝た。
芸能事務所の寮で寝食を共にしているエスプリだけど、寝る時間が一緒になる機会はなかなかないのだ。
「明日、朝早いから頑張って起きようね」
「夜型のサナちゃんに言われても説得力ねぇなぁ」
窓の外では雨が勢いよく降っていた。
この時期ってそんなに空が荒れるものだっただろうか……去年のことすら覚えていない。
「雨だね……寒いね、今日は。サナちゃん手が冷たいよ」
女の子同士とはいえ、ダブルベッドで一緒に寝るというのはスキンシップが過剰な気もした。
「……じゃああっためてよ。あんたが」
うん、と返す代わりに、セナはあたしの手を握った。
そういうセナが好きだった。
でもあたしは知っている。
青いカレーは罰ゲームじゃなかろうか、などと騒ぐ少年などここにはいないことを。
あの日、あのホテルで手足を縛られ、床のカーペットの上で全裸で正座させられて、思い知らされたのだ。
天野セナは、男の臭くて汚い欲望を直にしゃぶり尽くすのだと。
体が震えてるね、などと言う言葉はやや湿っぽかったから、あぁ彼女はやっぱり「彼女」だわ、と思った。
あたしは、メガネをかけたままの状態にしてくれてありがとう、エロいです、ごちそうさまです、なんていう意味で震えていたわけじゃない。
ただ足がしびれたのだ。
ただただ、寒かったから震えていたのだ。
セナ……やだ、やめてよ、と言いたいのに、喉の奥で引っかかって涙になるばかりだった。
セナがいちいち恥じらいを見せないせいか、白いシーツがくちゃくちゃになっていた。
やめろよセナ!
あんたのペチャパイだの、あばらの見えそうな脇腹だのっていうのは見たくない!
……言えなかった。
じゅるじゅるとしゃぶる音が聞こえるたび、セナのオレンジの前髪が揺れていた。
「ちょっとかわいそうよね」
ベッドから降りたセナは意地悪な微笑を浮かべ、あたしのメガネを外した。
「うーん、やっぱ度がつよぉい。これボクはかけてらんないなぁ」
ふざけて自分でかけてみて、目をしぱしぱさせるセナは可愛かった。
可愛いからこそ、とても憎らしかった。
それからしばらくの間、男と寝るセナを散々見せつけられた。
頬を赤らめ、ケダモノみたいな格好でアンアンと喘ぐ彼女は、淫らというよりもグロテスクだとすら思えた。
男はまさしくこういうのが好きだろ、というのを体現している。
天野セナは幼く、従順で、ふしだらなメスだった。
「バカ! あんた、どうして枕なんかするのよ!」
寮に戻ってからのあたしは靴を脱ごうともせず、玄関で怒りながら泣いていた。
いや、怒りというよりも絶望感の方が強いか。
そんなあたしを見たのは、この日が初めてだったのだろう。
少し困ったような顔をして、セナは冷ややかな声で言った。
「正しい人間はね、消えちゃうんだよ」
漫画やアニメに出てくる、汚い大人みたいな発言だった。
「だからってね、バッカじゃないの!? 妊娠したらどうすんのよ。ちっとも愛してなんかいないオッサンの子だよ!?」
「へーきへーき」
セナは平然とした顔をしていた。
「あいつの耳の裏とアレが臭いことくらい、我慢できなきゃ大人じゃないもん」
どこが平気なんだ。
それのどこが、大人だっていうんだ。
それともあたしは本当に、バカを見た正直者で、大人じゃないっていうのか。
考えると辛いから、目の前のノリにとりあえず乗ってみることだけを心がけるようにした。
いや……心がけたところで、あんまり上手じゃないけど。
だってこの関係はカネのつながりだ。
その点、あの男どもと同じなのだ。
こちらがいくら相方の心配をしたって、好意を寄せていたって、この付き合いはビジネスでしかなく……それ以上には、きっとなれない。
天野セナのことが、大好きだからこそ大嫌いだ。
さて、地方ロケはどうなったかというと、前日の雨の影響をものともせず、終始晴天に恵まれながらの収録だった。
本当にセナのおかげのような気がしてきた。
「お疲れ様でした!」
車であちこち移動して、長時間に及んだというのにとても元気そうだ。
仕事終わりの元気なセナ、というのはあたしを不安にさせた。
「ねぇ、セナ」
「なぁに?」
「この後、誰かとご飯を食べに行くとかないよね……?」
ご飯を食べに行く、とは、芸能関係者である男性とセックスする、の意味である。
「その心配してるの? 本当にサナちゃんは可愛いね」
その笑みが愛想笑いに見えて、あたしは背中が震えた。
帰る方向が同じ、つまり一緒に寮に帰れるというのが分かったのなら安堵してもいいはずなのに。
「茶化さないでよ。あたしをハラハラさせないでよ」
「あぁ、それは……ごめんなさい」
「ごめんじゃ済まない!」
セナは表情を曇らせた。
「だって『サナちゃんの好きなものは、ボクも大好き』って言ってたじゃない!」
「は……」
駅のホームで電車を待つまで、セナはだんまりだった。
何でもかんでも元気な声で「へーき」と返してたのに、やっと口を開いたセナはいつもと違っていた。
「どうしてあんな奴と寝るか、知ってる?」
こちらから視線をそらして、小さな声で言った。
「知ってる……だって、セナにとってのアイドルの仕事って……」
男になるためだ。
これを知った時は心底驚いた。
しかしどうやら「あどけないボクっ子キャラ」をやるのは、男の体をもらうための治療代が欲しいかららしいのだ。
「あんたの望みを叶えるにはお金がかかるの。ネットでも調べた。ホルモン剤はまだ保険使えないって」
だから店員に裾上げを頼んでまで、セナはプライベートではメンズ服を着る。
ポップなアイドル衣装を用意されることの多い彼女だが、私服はモノトーンが多い。
オレンジの髪を隠すような、黒い帽子もよくかぶっている。
……なんていう風になればいいのだが。
現実は、ショートパンツのせいで白い太ももがあらわになっているだけだ。
それだけで、大きいパーカーもスニーカーも、頭にかぶったキャップも全部「女のもの」になってゆく。
その矛盾をどうにかしないのか?
それとも本当はどうにかしたいのか?
「あぁ……」
セナは明らかに戸惑った。
「いやぁ。男って、そういう意味で言いたかったわけでもないんだ。勘違いさせたみたいでごめんね」
あたしは何も言い返せなかった。
「ただ、サナちゃんを守りたかっただけなの」
ギュウギュウ詰めにされそうになりながら電車に乗り込むと、激しい雨が窓を叩き始めた。
予報だと、雨が降るのはもっと遅い時間だったはずだ。
傘を忘れたうちらはビショビショになりながら帰ってきた。
あたしは急いでお風呂にお湯をためて入りたいと思ったが、それすら待てなくてシャワーを浴びた。
「サナちゃん、あのね」
薄いドア越しに、セナはおずおずと喋りだした。
「中高生ぐらいの頃まで、確かに君の言う意味での『男になりたい』みたいなことも思った。スカートもリボンも、ピンクも嫌で。サッカーが好きで、男子とよく遊んでたから」
それ、あたしもまるっきり同じことを思っていたものだ。
スカートやリボンは大人になってから好きになったが、ピンク色は今でも、どうしても無理だ。
「だからね……この仕事でサナちゃんと出会えたのは幸せだったと思うの。女の子らしいものが苦手なサナちゃんで、でも……」
そんなサナちゃんでもアイドルで、女の子だったからとセナは言った。
胸の奥がきゅうっと苦しくなった。
「サナちゃんが大切だから、身代わりくらいやれるって思ってたの。でも……それで嫌な思いさせてたのならごめんなさい」
あたしはシャワーの勢いを強くした。
彼女の声を聞いているのが辛いのだ。
それなのに、耳元で「サナちゃん」と呼ぶ声が何度もする。
外ではまだザァザァと雨が降っていて、その雨音もしているというのに。
「やめてよ。許さない、あたしを守るためでも許さないんだから」
水の流れを止められ、あたしはいよいよ耐えがたくなった。
「君の……さっきの、あの言葉……」
服は廊下で脱ぎ捨てたのだろう。
狭い浴室で、セナの肌の……濡れて冷え切った感触を、背中から感じるのだった。
「サナ……ちゃん……」
名前を呼ぶその声が震えていた。
「ボクだって……自分が男じゃないの、分かってるから。本当はそんな、強くなんてないの、分かってるから……」
まさか泣いてるのか? 泣くとこなんて想像もつかないが。
「サナちゃんが、ボクを許さないのも分かってるから……それでも、あと少しだけ……このままでいていい?」
嘘でも何でもなく本当に涙をこぼしているのか、それともやっぱりあざといだけなのか、未だに分からない。
でも、そんなことはどうでもよくなってしまった。
振り返り、セナが涙を拭うその手をどかして、目をつぶるよう言った。
「え? えっ? サナちゃん?」
「そのままでいてよ」
あたしのことは許さないで。