ことばをあつかう

生まれてからずっと、絵が死ぬほど下手くそである。

小学校に入って最初の夏休み、おそらく皆が経験しているあさがおの観察日記が例にもれず私にもあった。
ビビッドな赤いクレヨンでグルグルっと丸を描き、その下に緑の太い棒をニョキッと生やしただけで完成させた(つもりの)あさがおの絵日記を見た母の衝撃といったらなかったと、未だに笑い話として語られる。

学生時代は劣等感の塊だった。多才な友人達は、歌やピアノ、絵、書道、スポーツなど、自分らしい生き方を見つけて進んでいく。どれをとっても人並みかそれ以下、お勉強ができるわけでも、美人なわけでもない私は、自信を持てないまま、しかも若干拗らせて、大人になってしまった。

だから私にとって言葉は、唯一自分を相手に伝える手段なのだ。生まれてこのかた苦手なものに囲まれて、何一つ才能という才能を見出だせない人生である。たとえ人見知りでも、口下手でも、言葉を紡ぐことでしか、表現する術がなかった。

言葉はもちろんすべてを表現できるわけではない。
コミュニケーション論を少しかじったとき、非言語的な部分がコミュニケーションにおいて占める割合の多さに驚いた。文字は文字として、声は声として、内容とはべつに相手に伝わるものがあるのだ。伝えたいことを、伝えたいように、相手に伝えることとは思っているよりも多角的なものだというのが正直な感想であった。

人間相手の仕事をしていると、伝えることの難しさを日々感じる。伝えたいことが伝わらない、誤解されて伝わった、といったところだろうか。相手が患者にしても、職員にしても、情報は理解したいように解釈されるのだと思う。伝えたいことが伝わるのはもはや奇跡なのではないかとすら思うが、それでは業務が滞る。コミュニケーションスキルとは、奥深く、神秘的である。


私は体調を崩すと、言葉が出なくなる。
心の中で散らばった雑多な感情を、ラベリングして、並べ替えて、まとめるという面倒な作業で、輪ゴムとなり付箋となり活躍するソレがなくなってしまう。唯一自分を表現する手段が使えないとなると、出ない言葉がより不自由になり、もう悪い流れに乗りだしたサインである。

心の動きに翻弄されることは多い。つくづくこの仕事は感情労働だとも思う。無理なことはやっぱり無理だ。自分を見失わないために、言葉というスキルは大切にしていきたい。

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