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久々に「恫喝」されました。

 タイトルの通り、久々に「恫喝」をされました。
 
 「テメェ、コラ!、態度が悪いんだよ。○すぞ」と言われ、最近は本当に穏やかな日が多かったので、ここまで言われたのは本当に久々ですし、過去にも似たようなことがあったことを思い出しました。

 事の詳細については、最近の出来事なので詳しく書けませんが、仕事や普段の発信を通して得られた知識や学習が役に立ちました。言われている時は正直イラっとしたものの、それほど動揺せずに恫喝されながらもできないことを伝えつつ、冷静に立ち回れた方かと思います。
 無理なものは無理なので、そこはルールを提示しながら境界線を引き、ダメなら決裂しても致し方ないと瞬時に判断しました。自分ができないことを無理してまでやらないという方針も功を奏したと思います。
 恫喝してきた相手は、自分と対峙して思い通りの結果にならなかったためか、「お前はもういい。他の奴はいないのか、ボケ!」といった感じで半ば捨て台詞?のような形で終わりました。

 今回の事案に関しては、「投影同一視」や「転移」というキーワードが思い当たります。
 「投影」とは、自分が怒っている時に、自分の怒りに気づかずに相手が怒っていると感じることです。自分の感情には気づかずに、相手がそういう感情を持ってると思います。
 「転移」とは、過去の記憶、過去の嫌なことに気づかないうちに相手に重ねていることです。例えば父親に嫌なことをされた場合、年上の男性である上司になぜかイライラしてしまうことなどです。
 そして「投影同一視」についてです。自分が怒っている時に、相手を怒りの象徴だと考えます。自分の怒りに気がつかずに、「あいつは悪い奴なんだ」と思うことを「投影同一視」と言います。
 自分の中にある無意識を相手に重ねている点では投影や転移と同じですが、投影同一視の方がより原始的です。

 病的な投影の顕著な例を挙げてみましょう。ある男性が紹介されて分析的治療を求めて私のもとにやってきました。…私との面接でも「某先生はこれこれと言ったのだけど…」とか「某書物にはこれこれとこの点を書いている」など織り交ぜ、疑い深く私を値踏みしていました。私は、私自身ではなく、彼の求める治療者像になりきるよう強いられている大きなプレッシャーを内側で感じていました。これは相手のコントールを目指した投影の例です。その人の内的世界の内的対象を外界の人物に投げ入れ、その内的対象そのものであるかのように取り扱うことで、自分の思いのままにコンロトールするのです。この支配する投影は、母親が自分の子どもに母親自身の理想化対象を押し付ける場合にも見られます。子どもが幼ければ、この投影に抵抗できません。そして、おとなびた優等生のようにふるまうでしょう。(中略)
 次のような経験をした方も多いと思います。気が付かずにうっかり立ち入り禁止の所に足を踏み入れてしまったのですが、このことを会場係や警備員からこっぴどく叱られました。私たちの心は、ものすごく嫌なみじめさややり場のない怒りやらで一杯になってしまいます。こうしたときその状況をゆっくり見直してみると、注意してきたその人こそがいらだった余裕のない不幸そうな人であることを見出しますどうやら私たちのちょっとしたミスをそのきっかけとして、その人のみじめさや怒りが私たちの中に投げ込まれたことのようです。これも排泄としての投影のもう一つの例です。
 このように健康な投影は、相互コミュニケーションとして機能していきますが、病的な投影は、コントロールや排出/排泄を目的とした一方的な交流なのです。 
 

※「対象関係論を学ぶ〜クライン派精神分析入門 松本邦裕 著」 引用 

 今回の事案は、対象者がものすごく嫌な惨めさややり場のない怒りをすでに抱えており、それを僕に投げ込んできたのかと推察しました。これは対象者自身の怒りや惨めさの排出/排泄といった行為なのでしょう。それを僕が不快に感じたことで自分自身の中にぼんやりとモヤっとした「怒り」が沸いた気がします。
 そして「態度の悪い」という発言には、自分の意向に従えという命令、いわば僕のコントロールを目論んだと思われます。しかし、僕が要望を「お答えできない」と枠組みを全く変えずに対応したので、思うようにコントロールできなかったという不全感から怒りが生じたのかもしれません。その怒りの中には対象者に存在するだろう傷つき体験からくる未解決の感情も背景にあるのかもしれません。

「怒り」の仮面
  • 投影には3つの機能があります。

  • ①排出/排泄 

  • ②コントロール/支配 

  • ③相互的コミュニケシーション 

 今回の事例は対象者が、僕を思い通りにコントロールして支配することや排出/排泄を目的とした病的な投影だろうと推察しました。そのことに考えが至ったのは、これまでの学習と読書を通してなどの知識のインプットが功を奏したと感じています。

 そして自分が感じたモヤっとした不快な怒りに気がつけたのも大きいです。
 著書名は忘れましたが、怒りを感じることと、それを用いて他者を攻撃することは全く別なことだと書かれていました。ですので怒りを感じることは、自分の状態をモニタリングする上でも必要な感情だと感じています。

 ここに私たちが治療者として投影同一化に対応するヒントがあります。それは私たちがその投影同一化に相互交流性コミュニケーションの側面をいかに見出すかが大事なのです。そしてそれは不快さゆえに泣き喚いている赤ん坊のお母さんたちはまったく自然にやっていることなのです。赤ん坊の排出やコントロールから投影物をお母さんのもの想いでコンテインしながら、共感しています。

※「対象関係論を学ぶ〜クライン派精神分析入門 松本邦裕 著」 引用

 この投影同一化から相互的なコミュニケーションの側面を見出すのは技量と経験が必要だと感じます。もし支援する必要がなければ「距離」を置き、関わりを避けて身を守ることを第一の選択にしてよいと個人的に思います。

 今回の状況では自分の力量、属性では相互的なコミュニケーションに持ち込むことは無理だったと感じます。自分ができることできないことを見定めておくのは、とても大切でそこを見誤ると双方がボロボロになる傾向を感じます。今回はその判断を見誤らなかったと思うので良しとしています。

 改めて普段から地道に準備してしておくこと、自分ができることとできないことを見定めておき、「何でもかんでも成果を出さないといけない、役に立たなければならない」という強迫観念に飲み込まれないことの重要さを改めて感じた出来事でした。
 今回、「恫喝」をされて気分は決して良いものではありませんが、学びに昇華できたので、その点は良かったです。

 ここまでお読みいただきありがとうございます。

【参考HP・文献】


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