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Aジェンダー・マニフェスト(2020)

 私たちはAジェンダーです。私たちは世のなかの殆どすべての人が持っているジェンダー・アイデンティティ(gender identity)を持っていません。このような私たちの生の在りかたを指す言葉が「Aジェンダー」です。
 いま、日本語圏でAジェンダーを自認する人はほとんどいません。英語圏にはそれなりの数の当事者を見つけることができますが、それでも、「Aジェンダーであること」をきちんと当事者が言葉にしてまとめる試みは、これまでのところほぼありません。
 このマニフェストは、そうした不足を補うための試みです。このマニフェストでは、Aジェンダーであるとはどのようなことかを言葉にして、Aジェンダーとして採るべき思想的スタンスを示すことを目指しました。このマニフェストは、現在を生きる全てのAジェンダーのためのものであると同時に、日本語を使って自らの存在を探求する(あるいは探求しなければならない状況にある)将来のAジェンダーたちのためのものです。それに加えて、このマニフェストが「ジェンダー」について問うことを目指す全ての勇敢な人たちにとって有益なものとなれば、それほど嬉しいことはありません。

このマニフェストの執筆責任は筆者(夜のそら)にあります。しかし、このマニフェストは一人の特別な協力者とのあいだの長いやり取りから生まれたものであり、完成までにはトランス女性、ジェンダークィア、Aジェンダーである何人もの方たちから貴重な助言をいただくことができました。関わってくださった全ての皆さんに感謝します。

1.ジェンダーとジェンダー・アイデンティティ

 ジェンダーは、第一義的には、人々を男・女いずれかの性別に割り振りつつ、あるべき人間関係やとるべき行動、また社会での扱われ方を性差に応じて決める、そういった1つの巨大なシステムのことです。それがシステムであるというのは、特定の個々人の行動によってそうした「性別の分割」が起きているわけではなく、社会のなかの無数のルールや、人々の無数の行動が、全体として1つの大きな役目を果たすように機能してしまっている、ということです。学校や会社、病院、家族関係、友人関係など、ありとあらゆるところにある、ありとあらゆる決まり事や、人々の行動が、その「性別の分割」という1つの事態をトータルで支えています。誰かに責任があるわけではありませんが、ある意味では全ての人・もの・ことがそれを担っています。これが、ジェンダーが性別割り振りのシステムであるということです。
 このシステムが覆う領域はあまりに広く、私たちの日常の殆どすべての実践にあたって、私たちは「女性として」あるいは「男性として」その実践に参加することを求められています。このシステムによる支配は、割り当てられた性別の通りに生きない人たちに対する懲罰、そしてまた、その割り当てられた性別に課せられるルール通りにジェンダーの実践をこなせない人たちに対する懲罰を通じて、ますます自分を強化し、その覇権を再生産しています。さらに悪いことに、そのシステムは自分に自然=物理的な前提があるかのように見せかけることで、その支配を確かなものとしています。男女二元論と厳格なジェンダー規範には、人間たちの身体構造(オス・メスの差異)という名の「自然=本性」的な基礎があるのだ、という風に偽装しているのです。もちろんその「偽装」のなかには、異性間の性愛や恋愛、また対人セックスをめぐる一連の神話も含まれます。
 ジェンダーというシステムは、こうした偽装も含めて、性差にかかわる人々の知識や言説を生み出し続けています。そうした知識の総体の中には、男性はこうあるべき、女性はこうあるべき、といったものが含まれるだけでなく、「性差は自然である」、「生物学的な差異が女性の立場を弱くしている」といったような、セックスにかかわるものも含まれます。「性差にかかわる社会的な事象があり、それは生物学的な性差とは違う」という考え方すらもまた、ジェンダーが生み出した性差にかかわる知の一部なのです。
 このような強力な支配のために、ジェンダーは人々のアイデンティティを形作ってすらいます。私たちは、ジェンダーというシステムへと後から参加させられているのではありません。私たちは、そのシステムの中で特定の性別を生きるものとして、初めて自分たち自身になっていくのです。ですから、そのシステムが存在しなければ自分はいったい誰だったのか、と空想することすらとても難しく、実際それはしばしば矛盾した試みになります。というのも、ジェンダーというシステム以前に「私たち」が存在したことは一度もなく、「私たち」が私たち自身であるということが、まさにそのシステムによる割り当てとともに可能となっている側面があるからです。「おめでとうございます。元気な女の/男の赤ちゃんですよ」。私たちは誕生と共に特定の性別を生きることとなり、その出発点から長い時間をかけて、特定の性別を生きる存在として自分たち自身になっていきます。これが、ジェンダーがアイデンティティであるということです。このマニフェストでは、これを「ジェンダー・アイデンティティ」と呼びます。

2.シスジェンダーとトランスジェンダー

 このとき、シスジェンダーであるとは、ジェンダーというシステムによる支配と割り当てを受容し、そのシステムのなかで自分に割り当てられた当初の性別を生きる存在として、相対的に無理なく自分自身の存在を理解・構想することができていることを指します。あるいは同じことですが、当初からの自分の割り当てとは異なる性別を生きる者としては自分の存在を理解・構想することができないことを指します。たとえそのシステムによって課される性役割規範(ジェンダー規範)に不具合を覚えることはあっても、それでも自分自身の存在を(出生時以来)割り当てられてきた女性・男性いずれかの性別において無理なく構想できているのであれば、その人はシスジェンダーです。そうしたシスジェンダーの発話には、例えば「女性だからと言ってハイヒールを強制させられるのはおかしい」といったものがあります。なお、ここで「構想」とは、自分自身の未来をリアルにイメージすることを指します。単に頭の中で思い描くのではなく、具体的にどのように生きていくのか/生きていきたいのかを真摯に考える、ということです。
 それに対してトランスジェンダーは、そうした割り振りのシステムによって結果的に誤った割り振りを被った人々のことを指します。ジェンダーのシステムはその発端において簡単な外性器の確認だけに基づいて人々を男/女に割り振り、その後も主には身体の形状についての大雑把で窮屈なイメージに沿って性別の割り振りを続けようとしますから、そうした割り振りのミスが起きたり、割り振った通りにはアイデンティティを形成されない人たちがいたりするのは当然のことです。
 トランスジェンダーは、生まれて以来自分に割り当てられた性別において自らの存在を理解・構想することをせず、多くの場合はシステムによる当初の割り当てとは異なる性別(ジェンダー)において自己をアイデンティファイしています。トランスジェンダーは、そうした出生時と異なる性別において自分の現在を理解し、未来を構想する存在として定義されますが、別の言い方をすればそれは、当初の割り当ての通りには自分の未来を構想できない、ということでもあります。例えば「トランス女性」と聞くと、(出生時に割り振られた性別とは異なる)女性として生きている/生きていこうとする人、という風に理解されるかもしれませんが、しかし同時に、多くのトランス女性が「男性としては生きていけない」という風に自分たちを言い表していることも、無視できません。
 ここでも重要なのは、トランスジェンダーのそうしたジェンダー・アイデンティティは、シスジェンダーと同様に、ある一人の人間がある時点で選び取るようなものではなく、その人が一人の人間となっていく過程で、自分のアイデンティティの中核において形成されていくもの、その意味ではその人にとって所与のものであるということです。先に述べたように、私たちはジェンダーというシステムの外に生まれるのではありません。私たちはその内側に生まれ、その内側で特定の位置をもつ存在として自分たち自身になり、またその地点から自分自身を理解するようになります。トランスジェンダーもまた、自らに割り振られた性別とアイデンティティのあいだの差異を経験することにはなりますが、あくまでもそのシステムのなかで自らのアイデンティティを形成されています。事情がこのようになっている以上、ジェンダーというシステムの変革や破壊を目指すときですら、私たちは自分たちが存在するそのシステムの内側からそれに挑むほかないのです。
 トランスジェンダーのなかには、自らに当初割り振られた性別とはちょうど反対の性別を、確固とした自らのアイデンティティとする人たち(バイナリートランス)がいます。そうしたバイナリートランスの有するジェンダー・アイデンティティは、とはいえ、シスジェンダーのそれと実質的には何も変わりません。ジェンダーというシステムが支配する社会の中で、シスジェンダーが特定の性別を生きる存在として自分の現在を理解し、過去を整理し、将来を構想するように、バイナリートランスもまた、当初の割り当てと異なる性別とはいえ、そのように自分自身の存在を特定の性別のもとではっきりと理解・整理・構想しながら生きています。

3.Aジェンダーとジェンダー規範

 ジェンダーというシステムは、ジェンダー実践へのたえざる呼びかけを通じて、人々のジェンダー・アイデンティティを繰り返し確証し続けています。例えば「女性は肌の毛を剃るものだ」といった広告メッセージが世間にはあふれていますが、これは女性に対する社会的なルールを内包する呼びかけであり、この呼びかけにポジティブに応じて肌の毛を剃ることによって、その女性はこの社会の中で女性として生きているという自らの実存の一側面(すなわちジェンダー・アイデンティティ)を改めて認識し、肯定します。他方で、この呼びかけにネガティブに応じることもまた、ある点では自らのジェンダー・アイデンティティを再認識・再肯定するプロセスを含んでいます。「どうして女性だからといって肌の毛を剃らなければならないのか」と問い返すとき、その女性は「女性として」その呼びかけの聞き手となり、「女性として」その呼びかけに応えています。たとえその応答の仕方がネガティブなものであり、それが「女性であること」の所与の社会的意味を変革・改良・拒絶するような試みだったとしても、そこには「女性を生きている女性」という自己のジェンダー・アイデンティティを再認識・再肯定するプロセスが少なからず含まれています。
 そうしたジェンダーの呼びかけに対して、Aジェンダーはいかなる意味での適切な応答手段も持っていませんし、より正確に言えばそのような呼びかけによってアイデンティティを構成されなかった存在が、Aジェンダーです。その呼びかけにポジティブに応じる(応じざるを得ない)ときも、ネガティブに応じる(応じざるを得ない)ときも、Aジェンダーにはそこで再認識・肯定すべきジェンダー・アイデンティティが存在せず、ある重要な点でその応答はまっとうな応答となりえないのです。諸般の社会的理由によって、やむを得ず何らかの性別に付随する呼びかけ・ルールに従うときでも、Aジェンダーは「自分が男性だからといってどうして…」とか、「自分が女性だからといってどうして…」といった違和感を持ちません。Aジェンダーがもつことがあるのは、「どうして自分には性別が割り振られており、そのような不合理な割り振りに沿って行動を命じられなければならないのか」という違和です。
 そのような意味で、Aジェンダーがジェンダーのシステムから疎外される経験は、シスジェンダーやバイナリートランスが不本意なジェンダー規範を課せられる経験からは区別されます。シスジェンダーやバイナリートランスが経験するのは、自らが女性として/男性として占めるべき場所が、ジェンダー規範によって居心地が悪いものとなっているという不具合・不都合・不利益です。たとえそれがネガティブな経験となるとしても、そこには依然として、その社会の中で女性として/男性として生きていく自分自身の存在が前提となっています。それに対して、Aジェンダーが実感をもって経験できないのは、まさにその前提です。Aジェンダーのこうした経験の欠落は、ジェンダー規範に対するシスジェンダーの反発や違和感とは、ひとまず切り離して理解されるべきなのです。

4.Aジェンダーとシスジェンダー

 ときどき、「自分は自分の性別を意識したことがない」「自分にははっきりした性自認(ジェンダー・アイデンティティ)なんて存在しない」といった発言がシスジェンダーの人々から聞かれることがあります。そうした発言がシスジェンダーから生まれるのは、ある意味で当たり前のことです。というのも、人々を女性・男性のいずれかに割り振り、性別に応じたルールを規定するジェンダーというシステムは、そのように人々が何らの違和感も覚えることなく自然にジェンダーを巡る実践・社会関係に参加できるようになることを目的としているからです。そのように透明化されるほどまでに心の奥深くで人々のアイデンティティを形成し、自動化された仕方でジェンダー規範の呼びかけに応じることのできる主体を生産することこそが、そのシステムの目指すものだからです。
 ですから、「自分は自分の性別を意識したことがない」というタイプの発言は、Aジェンダーとしての経験から生まれるものからはたいていは区別されます。それは、ジェンダーというシステムのなかで最も優等生的に自らの生を理解・整理・構想することのできるシスジェンダーから生まれる発話であり、システムそのものから疎外され続けるという、Aジェンダーがこのラベルを自認するまでに経験することになるプロセスとは違っています。
 Aジェンダーであることの自己認識は、システムからの疎外の経験の蓄積から生まれます。これは、「あなたの性別は?といきなり聞かれても言われてみれば意識したことがなかった」というような、瞬間的・一時的な自己認識とは違います。そもそも、ジェンダー・アイデンティティが「ある時点で自分をどの性別と主張するか」という瞬間的な問いの答えとなるようなものであるという発想こそが、シスジェンダーによる誤解と言えるでしょう。

5.Aジェンダーとトランスジェンダー

 Aジェンダーは、トランスジェンダーの一種です。しかしAジェンダーは、(出生時の)割り当てと異なるジェンダーのアイデンティティを有しているという意味でトランスジェンダーであるわけではありません。Aジェンダーは、ジェンダーというシステムからアイデンティティの次元で疎外されているという先の意味で、シスジェンダーではない、つまりトランスジェンダーなのです。
 Aジェンダーは、ジェンダー・アイデンティティを持ちません。それは、ジェンダーというシステムが強固な支配権をもち、あらゆる社会関係や実践にとってジェンダー(性別)の差異が意味を持ってしまう、そうした現在の社会において、自分自身をいかなる場所においても理解することができないということです。
 Aジェンダーが自らをAジェンダーとして自認するプロセスは、そのような疎外の経験をほとんど必ずと言ってよいほど含んでいます。性別を巡るありとあらゆる実践やルール・懲罰が、Aジェンダーにとっては不可解なもので、ジェンダーというシステムによって無理なくアイデンティティを形成し、システムからの呼びかけに対して(ポジティブにせよネガティブにせよ)自然に応答するシスジェンダーの様子は、Aジェンダーにとっては決して自分の経験となりえないものです。Aジェンダーは、そのような疎外の経験を積み重ねていくことでこのラベルにたどり着き、Aジェンダーを自認します。(もちろん、それには長い時間がかかることもあります。)
 Aジェンダーにこのような特殊な経験があるとしても、Aジェンダーが他のトランスジェンダーたちと多くの経験を共有していることは、覚えておくべきでしょう。バイナリートランス含めて、トランスジェンダーたちはシステムの中の異物として絶えず懲罰の危機にさらされている/きたからです。システムの中できちんと割り当てられた性別を生きることができないという意味で、Aジェンダーとしての経験の中核が、そこで共有されているのです。
 このことは、ある大切な教訓をAジェンダーたちに与えます。自分たちを疎外するジェンダーというシステムが弱体化してほしい、ひいてはそれを破壊したいという願いが、たとえAジェンダーとして生きることの経験から(ほとんど必然的に)帰結することだとしても、その願いがバイナリートランスに対する攻撃につながるようなことはあってはならないのです。私たちは同じトランスジェンダーです。同じシステムの中に生まれた「想定外」の存在であり、自分たちにとって生存可能な生のあり方を自然に歩むことを許されず、ジェンダーのシステムから厳しい罰を受け、困難な道のりを歩むことを強いられた仲間です。そして、ジェンダーの支配がこれほど強力でなければどれほど良かっただろうという願いは、おそらくほとんど全てのトランスジェンダーにとって共通の願いでもあります。
 ですから、ジェンダーというシステムの弱体化や破壊を願うAジェンダーの言葉や実践が、特にバイナリーのトランスジェンダーに向かうことは決してあってはなりません。批判の矛先を向けるべきはいつも、ジェンダーのシステムそのものであり、また、透明化されたまま強力に機能するジェンダーの仕組みに気づかずシスセントリックな社会を再生産し続ける社会の優等生(シスジェンダー)たち、そしてのちに見るように、そのシステムから特権を得続けているシス男性たちです。
 ただし、Aジェンダーが「トランスジェンダー」の一種であるということが1つの概念的な整理として正しいとしても、Aジェンダーのなかには「トランス」という言葉にどこか馴染めない感覚を有している人もいます。私たちAジェンダーには、トランスしていく先がありませんし、多くの場合Aジェンダーへとトランスしてきた訳でもないからです。そのためAジェンダーが「トランジション」についての悩みを経験する仕方は(その悩みを経験しない可能性も含めて)、他の多くのトランスたちとは違っているかもしれません。トランスのコミュニティの方々には、どうかこのようなAジェンダーが存在しているということを覚えておいていただきたいと思います。

6.Aジェンダーと身体・医療

 Aジェンダーはどのような身体を持つこともあり得ます。そして、それぞれのAジェンダーが自分の身体をどのように経験するのかは、人それぞれです。
 Aジェンダーの中には、自身の身体を違和感を持って経験している人がおり、そのことも含めて、外科的・内科的な医学的処置へのニーズを持っていたり、精神療法へのアクセスを必要としていたり人も多くいます。まもなく世界的に「GID」は病理概念として消滅しますが、DSM-5における「性別違和(Gender Dysphoria)も、ICD-11における「性別不合(Gender Incongruence)」も、どちらも男/女の二元論的なジェンダー・アイデンティティを前提としない診断名です。診断がつくこと自体が重要なわけではありませんが、トランスジェンダーに見識のある精神医学・心理学の専門家、そして内科医・外科医らによる適切なサポートにAジェンダーたちがあずかれる環境が求められています。
 他方で、そうした精神医学の「専門家」による診断や、「正規の」医療ルートに則った治療を受けることが、Aジェンダーという生のあり方をオーソライズする権威となるようなことは決してあってはなりません。医学的な「診断」や「正規の治療」を受けていることが、その人がAジェンダーであることの証明になるわけではなく、「診断」や「治療」を必要としないAジェンダーがそのことで「劣ったAジェンダー」になったり「偽物のAジェンダー」になったりすることは絶対にありません。そうした医学の権威を使って当事者たちのあいだにヒエラルキーを作ろうとする試みは、精神医学・性科学が性のマイノリティたちに行ってきたおぞましい加害の歴史や、社会による「逸脱者」の医学的管理の現状と歴史を顧みない極めて愚かな試みであり、到底許されません。私たちは自分たちを「病気」として訴えることなく、自分たちの健康に必要なサポートを医療者から得ることができるべきです。トランスジェンダーの脱病理化があるていど達成された現代において、このゴールを動かすことはできません。(なかには精神・身体の病理化と医療的サポートが不可分であるかのように語る人もいるようですが、妊娠や出産などの例を挙げるまでもなく、そうした病理化についての前提は正しくありません。)
 ところで、日本の「GID診療ガイドライン」は初版以来一貫して、明確な男女二元論を前提とした内容であり続けてきました(このマニフェスト執筆時点では、ガイドラインは上記のDSM-5・ICD-11を反映していません)。もちろん医療者によっては二元論を前提としない人々(Aジェンダー含む)の利益にかなうようガイドラインを拡張して運用する者もすでにいますが、このような日本のGID医療に関しては書かなければならないことがあります。それは、上記のようにガイドラインが厳格な男女二元論を前提とし、反対の性へと強固にアイデンティファイする「患者」だけを規範的に想定してきたことで、ジェンダーのシステムに馴染めなかった人々のためのものであるはずのGID医療が、皮肉なことに性別二元論に基づく性別の割り振りシステム(すなわちジェンダー)の支配を支える役目を果たしてきた側面があるということです。ここで想起したいのは、そうした医療のありかたによって自らの生を規定されてしまった、もしかするとAジェンダーだったかもしれない仲間のことです。医療者たちは、私たちの健康を守るための味方になるはずの存在です。しかし医療者たちのもつ知識と地位とが、既存のジェンダーというシステムをどのようにアシストし、どのようにマイノリティたちに権力を振るい、どのような存在を抹消してきたのかについては、私たちAジェンダーは常に敏感でなければなりません。

7.Aジェンダーとセクシュアリティ

 Aジェンダーはどのようなセクシュアリティをもつこともあり得ます。ですから、ここで取り立てて論じるようなことはないのですが、しかし次の2つのことには簡単に触れておかざるを得ないでしょう。
 まず、AジェンダーにはAセクシュアル and/or Aロマンティックである人がとても多いということです。これは、反対側からも言えることです。Aセクシュアル and/or Aロマンティックの当事者には、Aジェンダーの人が多くいます。これが意味しているのは、ジェンダーとセクシュアリティは決して簡単に分けられるものではない、ということです。現在の社会では依然として、特定の性別(女性/男性)として生きるにあたって課せられる性別の規範が異性愛的な前提に立っています。男性とは女性を欲望する存在であり、だから男性はそのように欲望すべきなのであり、逆もまたしかり、ということです。ジェンダーはセクシュアリティによって構造化されています。
 逆もまたそうです。セクシュアリティを巡る実践はジェンダーによって構造化されています。そして少なくないAジェンダー(そしてAジェンダーをその内側に含むアンブレラタームとしてのノンバイナリー)の語りから見えてくるのは、恋愛や性愛の文脈では性別(ジェンダー)に応じてどのような振る舞いをすべきかが厳密に決まっているため、その文脈のなかでうまく自分が振舞うことができない、という経験を多くのAジェンダー(ノンバイナリー)が共有しているということです。そうした経験がAジェンダーたちのセクシュアリティ(の自認)に影響している可能性は、決して低くないでしょう。Aジェンダーとセクシュアリティのこうした関わり合いについては、これから理論化が必要です。
 注目すべきことの第2点目は、そのようにセクシュアリティがジェンダーによって構造化されていることで、Aセクシュアル and/or Aロマンティックではないようなセクシュアリティを生きるAジェンダーのセクシュアリティ/ロマンティシズムを適切に表現する言葉が存在しないということです。もちろん、出生時に割り振られた性別や、あるいはその割り振りのきっかけとなるようなセックスに典型的な身体構造をもっていることによって、nonbinary lesbian (ノンバイナリーのレズビアン)や agender gay(Aジェンダーのゲイ) といった呼称を使うことも可能ですし、実際に使っている人もいます。しかし「異性愛者」も「同性愛者」も、基本的には男女の性別二元論を前提としつつ、性的欲求が向く傾向のあるジェンダーと自身のジェンダーとのあいだの異同を言うものですから、Aジェンダーの状態を言い表すのにはもともと向いていません。
 こうしたAジェンダーの置かれた状況から、ここでは次の教訓を得ることで満足したいと思います。それは、「性的指向(sexual orientation)」や「セクシュアリティ(sexuality)」という概念自体に、ほんとうはかなりの無理があるのではないか、ということです。それらの概念は、性のマイノリティの状況を説明し、権利を訴えるために大きな役割を果たしてきました。しかし、どんな人たちとどんなセックスをしたいのか、どんな人たちとどんな身体的(だが性的ではない)コンタクトをとりたいのか、どんな人たちと恋愛的な関係を結びたいのか、どんな人たちと家族になりたいのか、どんな人たちと子どもを育てたいのか、どんな人たちと一緒に住みたいのか、etc. ..といったあまりに多くのことがら(欲望)を「性的指向」の1語で言い表すのは、そもそも無理でしょう。そしてまた、これがAジェンダーにとって重要なことなのですが、それらの問いの答え(欲望の傾向)がすべて自他のジェンダー(性別)によって構造化されていると考える必然性も、本来はないはずです。
 Aジェンダーの”セクシュアリティ”を言い表す適切なラベルが欠けているという現在の状況は、「セクシュアリティ」や「性的指向」といった概念がもともと持っているこうした無理が表面化したものに過ぎません。Aジェンダーたちがその無理を訴えていく必要は必ずしもありません。それは大きな反発を受けることでもあるでしょう。しかしAジェンダーの存在が、この無理について考えることのきっかけになることは間違いないはずです。

8.Aジェンダーとフェミニズム

 半世紀前に誕生したラディカルフェミニズムの運動と理論が明らかにしたことは、性差によって構造化された社会のあり方、つまりは性別二元論に依拠した性別の割り振りを行う「ジェンダー」というシステムそのものが、女性の抑圧を生みだし、男性に不当な特権を与えているということでした。「自然な」根拠をもつかのように偽装するこのシステムは、無謬のものではない、それを変革することなしに女性の解放はあり得ないということを、ラディカルフェミニズムは唱えてきました。
 そうしたラディカルフェミニズム的な観点からすれば、ジェンダー・アイデンティティを持たない私たちAジェンダーという存在は、まさに理想の生のあり方に見えるかもしれませんし、Aジェンダーという存在が標準化した社会があるとすれば、それはラディカルフェミニズム的な視点から見て理想郷なのかもしれません。
 しかし注意しなければならないこともあります。それは、私たちが生きているのはそのような理想郷ではなく、これまで見てきたようなジェンダーの力学がすみずみまで社会関係を支配する、そのような世界であるということです。ですから、あたかもジェンダーなど存在しないかのように行動したり考えたりすることは、私たちにはできません。私たちにできるのは、ジェンダーによる支配と呼びかけ(の反復)のなかで生み出された、現在の私たちのそれぞれの場所から、つまりはジェンダーというシステムの内側から、そのシステムを変革・改良・破壊していく試みだけです。一部の分離主義フェミニストですら、ジェンダーのシステムが全く存在しないかのように振舞うことはしないでしょう。
 近年、一部のトランス排除的なフェミニスト(自認者)たちが「ジェンダークリティカル・フェミニズム(GCF)」を自称し、トランス女性(やトランス男性)について、まるでそれが女性差別的なジェンダーの支配を温存・強化させる悪者であるかのように攻撃しています。こうしたGCF的な論理は、次の3つの点で誤っています。
 第一に、私たちにできるのはジェンダーのシステムの内側からの変革であり、その外に一足飛びに飛び出して、あたかも完全にその外部にあるかのような視点からシステムの内部を生きる人々のジェンダー実践を断罪することなどできないはずです。第二に、そのような断罪が仮に可能だとしても、そこでシステムのなかを生きるシスジェンダーを無視して、わずかな人口でしかないトランスジェンダー(特にトランス女性)だけを殊更にやり玉に挙げて批判することには根拠がありません。第三に、GCFは「ジェンダー」に批判的である一方「セックス」の厳然とした差異を主張する傾向にありますが、そうした「オス・メスの身体の差異は確固としたものである」というテーゼは、もともと女性を抑圧する家父長的な社会が作り出し、都合よく援用してきた「自然主義的―生物学的」な偽装だったはずです。(※「セックス」と呼びうるような差異が存在しないということではありません。ジェンダーというシステムによる女性の抑圧を正当化するために用いられてきた「セックスの差異」に無批判に手を伸ばすことは、自分たちが批判したいはずの「ジェンダー」の温存に手を貸す、ということです。そして実際、既存の家父長的な社会のあり方を固守しようとする右派たちと、世界のGCFは手を繋ぎ始めています。)以上の3つの理由から、GCFは決して支持されません。Aジェンダーの存在がそうしたGCF的な論理に利用されるようなことは決してあってはならないのです。
 ラディカルフェミニズムは、ジェンダーがそれ自身で女性を抑圧するシステムに他ならないことを教えてくれました。しかし、そのことはジェンダーが私たちのアイデンティティを構成しているということと何ら矛盾しません。私たちは、自分たちがいまいるシステムの内部の、そのそれぞれの場所から、そのシステムと向き合うほかないのです。
 このことはまた、次のことを教えてくれます。フェミニズムというものが、「女性」という旗印(sign)のもとに集う人々による、女性の生存のための闘いなのだとしたら(Sara Ahmed 2017, Living a Feminist Life, p.14)、トランス女性もまた、当然その旗印のもとに集うフェミニストになることができる、ということです(もちろんこの「旗印」をジェンダー・アイデンティティに限定して理解する必要はありません)。トランス女性がジェンダー規範を強化している、といった批判はトランスジェンダーに対する不当な攻撃です。ジェンダー規範を問題視することは重要です。しかし私たちは、自分たちが今いる場所を正しく見定め、それぞれの場所からともに女性差別と闘っていく以外にありません。そして私たちが今いるのは、ジェンダーというシステムが外部を持たないほど広い範囲を覆い、そのなかでトランスジェンダーの存在が周縁化され抑圧され続けている、そういった社会です。
Aジェンダーである私たちは、「女性」の旗印の下には集えないかもしれません。しかし私たちは、(完全な疎外という形であれ)同じシステムの内部に生み出された存在として、性別二元論的な社会のあり方を批判することを通してフェミニズムの闘いに貢献できると信じています。

9.おわりに

 以上が、2020年の日本で私たちAジェンダーが掲げるマニフェストです。このマニフェストでは、「Aジェンダー」だけでなく「ジェンダー・アイデンティティ」や「トランスジェンダー」の定義も試みましたが、もちろんこれはただ1つの正解を決めるものではありません。
 このマニフェストにはまだまだ不足する点があります。特に、インターセクショナリティの視点を交えることがほとんどできませんでした。加えてフェミニズムとの関係はもっと複雑で、とくに日本においては書くべきことが沢山あります。
 先に見たように、フェミニズムには二元論的な思考一般に対する批判、そしてまた性差の二元論を自明の前提とする社会のありかたへの批判の多大な蓄積がありますが、2000年代初頭のバックラッシュ/ジェンダーフリー・バッシングの際には、「フェミニズムが中性人間を作ろうとしている」といった保守陣営からのトランス(andホモandバイ)フォビックな言説に対して、フェミニストの側から「フェミニズムは男性・女性の区別を否定しない」、「中性人間なんて作ろうとしていない」といった応答(だけ)が積極的に提示されてしまいました。こうして、保守陣営が引き合いに出した強固な性差の二元論、そしてトランスフォビックな考え方をそれ自体できちんと問題視しないまま、「自分たちはそんなものを作ろうとはしていない」と応答したことによって、当時のフェミニストたちは「中性人間」に対する否定的なまなざしを右派たちと共有し、強化しました。(※参考↓

私たちAジェンダーは「中性人間」として、こうした日本のフェミニズムの過去を批判しなければなりません。そして、現在の日本においてフェミニストたちから噴き出しているトランスフォビアが、そのような過ちを犯してきた日本のフェミニズムのもつ一貫した特徴の現れであるなら(※参考↓)、私たち「中性人間」の側からのそうした批判的応答は、すぐにでもなされるべきなのかもしれません。

私たちは、そのことでフェミニズムと敵対するつもりはありませんし、敵対する結果につながるとも思っていません。むしろ、私たちはトランスジェンダーを含む非・規範的な性/生を生きている人々への差別や排除を問題視する、現在の日本のフェミニストたちと協力できるはずだと信じています。

 最後に、「Aセクシュアル・マニフェスト」(1972)の末尾の一文を模して、次のパッセージでこのマニフェストを終わりたいと思います。

この「マニフェスト」はAジェンダーについての結論ではない。それは始まりにすぎない。皆さんからのコメントや批判を歓迎する。(※参考↓

2020年11月 TransAwarenessWeek