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「Aセクシュアル・マニフェスト」(1972)全訳

 こんばんは。夜のそらです。この記事は、「Aセクシュアル・マニフェスト」の全訳を紹介するものです。「Aセクシュアル・マニフェスト」については、以下のnote記事をまずはお読みください。

 なお、この「マニフェスト」の翻訳権に問題が発生することも考えましたが、以下の理由から、全訳を公開してもよいと判断しました。
・コミュニティの歴史にとって極めて重要である。
・公刊から50年近くが経っている。
・当初の「マニフェスト」は、収益を上げるために書かれていない。
・わたし(夜のそら)のブログも、収益を上げるためのものではない。

 以下が、「マニフェスト」の全訳です。目次は、もともと「マニフェスト」に入っている見出しに対応しています。「注記」は、1ページ目の下段にありますが、分かりやすくするために冒頭に置きました。ただし、誤訳も多く含まれているかと思いますので、内容については自己責任でお願いします。また、誤訳を見つけたときは、教えていただけると幸いです。

注記

 1972年、ニューヨーク・ラディカルフェミニスト共同会議は、性的指向の類似性に基づいた分科会を設けた。それぞれの分科会は、それぞれのセクシュアリティに関する、それぞれのメンバーの個人的ないし政治的な態度を探究するためのものであり、またそこで出された考え方をより大きなグループに伝えて共有するためのものだった。Barbie Hunter Getzと私(Lisa Orlando)は、提示されたどの委員会にあっても(――つまりヘテロセクシュアル、レズビアン、バイセクシャルのどれも)居心地が悪いと感じ、自分たち自身の分科会を作った。この分科会から生み出された文書を改訂したのが、この「Aセクシュアルマニフェスト」である。その文書の複数の版が残っているということは、この最終バージョンにおいて示されている考え方の全てが、必然的にこの文書のもともとの二人の共同著者たちの見解を反映したものだということを含意しない。 1972年Lisa Orlando

Ⅰ.由来と定義

 セクシュアリティに関わる私たちの経験は、私たちのフェミニスト的な価値とうまく調和してこなかった。この問題についての私たちの意識が高まるにつれて、私たちは、セックスが私たちの生活と他者たちの生活にどれほど浸透しているのかを見て取るようになった。私たちは、自分が取り結ぶ関係性をセックスによってカテゴライズしている――それが友人であるとしても、恋人であるとしても。私たちは、どれほど微かで無意識であるとしても、新しい誰かと会うたびに、その彼女/彼が性的なパートナーになりうるかどうかという点から、その人を受け入れたり拒絶したりする「評価」のプロセスに参与している。性的な関係を持つ気が全くないときでも、そうだ。私たちは、ある人々のグループを、親密な関係性にはそぐわないものとして勝手に拒絶してきた。なぜなら、そうした親密な関係性には必然的にセックスが含まれると考えていたからだ。私たちはしばしば、その人たちに性的な利用可能性があるということ(「バーの舞台」)だけに基づいて、ある人々との時間を過ごすことを選ぶ。私たちが自分たち自身の内にあるこういったことに自覚的になるにつれて、私たちは、私たちがどれほど他者たちによって客体化されてきたか、ということを痛々しいまでに自覚することになった。
 Aセクシュアリティは、こうした意識から生まれた当然の産物である。これ(Asexuality)は、私たちの個々人の生活のなかに潜むセクシズムを私たちから取り除くための私たちの闘いについてコミュニケーションするため――単にそのように存在することによってでなく、また言語を通じてコミュニケーションするため――に、私たちが採用するに至った概念である。
 この文書(paper)で私たちが「セックス(sex:性)」とか「性的(sexual)」とかの言葉を使うのは、その活動の目的の一つが生殖器にかかわる興奮やオーガズムであるような、そういったあらゆる活動を記述するためである。身体的な感受性や、感覚に関わること(キスを含む)は、その定義からすると、それらが生殖器の興奮という目的に向かっていない限りでは、性的ではない。
 私たちが「Aセクシュアル(asexual)」という言葉を私たち自身を記述するために使うのは、「禁欲」と「反セクシュアル(anti-sexual)」のどちらの言葉も、私たちが避けたいと思っている含意を含んでしまうからである。まず「禁欲」の方には、私たちが何らかのより高い善のためにセクシュアリティを犠牲にしてきたという含意がある。次に「反セクシュアル」の方には、セクシュアリティというものは価値の低いもので、何らかそれ自体で悪いものだ、という含意がある。私たちが用いる「Aセクシュアル」という語は、「性がない(without sex)」ということを意味しているのではなく、「誰に対しても性的には関わらない(relating sexually to no one)」ということを意味している。このことはもちろん、マスターベーションを排除するものではない。そうではなくむしろこれは、その人が性的な感じ(sexual feelings)を得たときに、そうした性の感じを表現する(expression:外に出す)ためにもう一人別の人を必要としない、ということを含意している。簡単に言えば、Aセクシュアリティとは、自給自足したセクシュアリティ(self-contained sexuality)なのだ。

Ⅱ.哲学

 Aセクシュアリティに関する私たちの哲学は、私たちのフェミニストとしての意識によって形作られてきた、私たち一人一人の倫理から生まれた。多くの他の女性たちにとってそうであるのと同様に、私たちにとって、フェミニズムはセクシズムと闘うこと以上のことを意味している。フェミニズムは「シスターフット」を――つまりは新しい関係の仕方、ひょっとすると新しい生き方を――意味しているのだ。フェミニスト的な道徳は、歴史のこの段階にあっては、私たちの社会が持つ抑圧的な価値(――例えばコンテストとか客体化とか)に対するアンチテーゼとしてのみ定義されうる。一人一人のレベルで言えば、フェミニスト的な道徳は、次のような私たちの信念の内に反映される。……私たちは可能な限り、他の人々の全体の姿において、他の人たちと関係するように試みるべきである。そして私たちは、私たちのニーズを満足させてくれるために存在している客体として他者たちを見るべきではない。私たちは他者たちを搾取してはならない――つまり「不正に、あるいは不適当に」他者たちを利用してはならない――し、また私たち自身がそのように搾取されることを許してはならない。私たちは、私たち自身に対して、そして私たちが尊敬する他者たちに対して、不誠実であってはならない。加えて私たちは、私たちがそれぞれ、私たちの振る舞いを吟味し、私たちの振る舞いがどのように性差別的な条件によって影響を受けてきたかをはっきりさせ、さらには、私たちの振る舞いが私たちの求める基準を満たさないときにはそうした振る舞いを変える責任を負っていると、信じる。
 私たちはフェミニストとして、男性による女性たちの性的な搾取を非難してきたが、そのとき私たちは、自分たちもまた他者たちを「不正に、また不適当に」利用してきたということを見てこなかった。人と人のあいだのセックスは、本能的な振る舞い方のパターンなどではない。それは、私たちが(オーガズムのための)ニーズを満たすために利用することを学んできただけの振る舞いであり、しかしそのニーズは、私たちが自分自身だけで簡単に満たすことのできるはずのニーズであった。私たちは、こうした仕方で他者を利用することを搾取的なものとして見なすようになった。そして私たちは、他者たちが私たちをこのように利用することを許すとき、私たちは自分が搾取されることに同意しているのだということに、気づいた。
 私たちが自分たち自身に誠実であろうとする試みにあって、私たちは私たちの本当のニーズとは何なのかをはっきりさせようと試みた。私たちに分かったのは、私たちが愛情や、温かみ、肌の触れ合いなどへのニーズを有しているということだが、そうしたニーズについて、それは人と人のあいだのセックスによって満足させられるべきだと私たちは教えられてきた。私たちがそうしたニーズを私たちの「友情」のなかで満たすようになるにつれて、セックスへの私たちのニーズと、セックスについての私たちの関心は、消え去った。私たちがまた気づいたのは、私たちが親密さへのニーズを有しているということだが、その親密さの状態はセックスによって「完成する」と、私たちはつねに考えてきた。思い返してみるなら、私たちと他者たちは、セックスを自己欺瞞の手段として用いてきた。本当の親しさを達成するよりも、それを避けるためのやり方として、セックスを用いてきた。そのことに私たちは気づいた。
 私たちは自分たちの置かれている環境に対して、多くの仕方で、とりわけ[性別]役割の点で格闘してきたが、しかし私たちは、私たちのセクシュアリティを形づくってきた基本的な環境(conditioning)を吟味することから逃げてきた。「(セクシズムに影響を受けていない)理想的なセクシュアリティ」の本性については、それについて思弁することすら難しい。とはいえ確かなことは、「理想的なセクシュアリティ」というものがあるなら、それは、現在の社会でセクシュアリティが占めているような大きな位置を私たちの生活において占めることはないだろう、ということだ。私たちは「フェティシュ的な崇拝」の文化のなかを生きている。その文化は、極端に大きな、とても合理的とは言えないような注目の度合いをもって、セックスに視線を注いでいる。女性としての私たちの生活の満たされなさに直面することを避けようとする単純なニーズから生まれるフェティッシュ(執着)を生み出しつつ、私たちの多くは、立派な食事の準備に私たちのエネルギーを使うよう条件づけられていた。それと全く同様に、私たちは、入り組んでおり循環してもいるような仕方で、性的な満足を求めるよう条件づけられてきた。私たちがフェミニズムに関わるようになってから、私たちの生活はますます意味あるものとなり、私たちはもはやフェティッシュへのニーズを感じなくなった。
 私たちの価値に関わる私たちの経験を吟味する中で、私たちは、同時に一つの立場であり、また状態でもあるものとしての、Aセクシュアリティにたどり着いた。人と人のあいだのセックスは、もはや私たちにとって重要ではない。それはもう、関係性の中でそれが果たしてきた捻じれた役割、そしてしばしば破壊的でもあるような役割を担うには値しない。人と人のあいだのセックスは、もう私たちの関係性を決めるものではなくなったし、私たちのアイデンティティを形づくるものでは決してない。Aセクシュアルの女性として、私たちは(1)人と人のあいだのセックスを経験するための親密な関係、あるいはそのための持続的な関係を求めない。私たちは(2)私たちの性的なニーズを満たすために他者たちを利用しないし、私たちがそのように利用されることを許さない。私たちは(3)他者たちの(愛情、温かみ、親密さへの)ニーズを人と人のあいだのセックスによって満たそうとしない。私たちは(4)他者たちがセックスのパートナーになりうるか/あるいはなり得ないか、といった点から他者たちを見ることをしない。そのとき本質的には、私たちのAセクシュアリティは、人と人のあいだのセックスを拒絶することを反映しているが、それは、人と人のあいだのセックスが私たちの置かれている諸状況に相応しくないものとなっているからである。その状況とは、そうしたセックスが私たちの諸価値に適合するものである[=矛盾しない]と同時に、私たちの関係性にとっては偶然的で、また重要ではないというものである。

Ⅲ.政治

 女性の解放にとっての基本は、セクシズムの破壊だが、そのセクシズムの一つの現れが、男性による女性の性的な搾取である。Aセクシュアリティは、男性たちが私たちを抑圧するための手段の一つを消去するものであるから、セクシズムの破壊というこの目的に到達するための個人レベルにおける一つのステップとなる。私たちのAセクシュアリティを通して、私たちはセックスを目標としては排除してきたし、これは本質的なことだが、私たちが男性たちと形成することになるかもしれないいかなる関係性のうちにも存する可能性としてすら、セックスを排除してきた。
 制度に組み込まれたセクシズムに由来する家父長的な文化のせいで、搾取的な振る舞いがそうした文化のなかではスタンダートとなっており、そうした搾取的な振る舞いは、女性たちがみずから自身の自立した関係の様態、そしてより人間的な関係の様態に気づくことを極めて困難にしてきた。ほとんどの女性たちが、お互いの関係性において結果として反省するようになったことは、いくらかの搾取的な振る舞いのパターンが、私たちに対する男性からの抑圧のもつ特徴的なものだということだ。女性たちによってなされる女性たちの抑圧が生じる領域の一つは、これもまた、性的な領域である。この抑圧もまた、私たちが真に自由になることができるなら、それ以前には終わりを迎えていなければならない。Aセクシュアリティを通して、私たちは、女性たちと私たちが結ぶ関係性における目標としても、セックスを拒絶してきた。それゆえ、性的な客体化、搾取、そして私たちの姉妹たち(sisters)の抑圧を避けることに、それは繋がっていた。ここでもまた、私たちは私たちの諸条件が満たされない限りは、いかなるセックスの可能性をも拒否する。そうして私たちは、私たちが性的に搾取されたり抑圧されたりしないようにする。
 特定の文化が持つ基本的な神話を破壊することは、その文化を支えているまさにその土台を掘り崩すことだ。家父長的な文化は、それ自体で性を差異化すること(sex defferentiation)に基づいているが、そうした文化こそが、セクシュアリティにまつわる極めて強力な神話のいくつかを作り出してきた。私たちは、現在の家父長的な神話を暴き立て、また破壊することにフェミニズムが注力することには極めて大きな重要性があると信じている。その神話は、自己欺瞞によって、まさに私たちの抑圧を最強化しているのだから。そうした神話群のなかで、女性たちの生活におけるセックスの歪んだ役割に最も責任があるのは、次のような神話である。

・人と人のあいだのセックスは、本質的なものである。性的な衝動は、人間の生活における強力な力だからであり、(人と人のあいだのセックスによって)その衝動が満たされないのなら、それは不幸を生み出し、場合によっては病的な状態を生み出すからである。

・性的な興奮は、つねに、かつ/またはすぐさま、満たされることが大切である。

・セックスは関係性における親しさにとって本質的であり、セックスなしではいかなる関係性も完成しない。

・関係性における究極の親しさは、セックスのなかに生まれる、かつ/またはオーガズムのなかに生じる。

・身体的な感受性(=触れ合い)へのニーズと、セックスへのニーズは、基本的に同一である。

・愛情を十分な仕方で身体的に表現するにあたって、性的な興奮が同時に生まれないような仕方でそれをするのは、殆ど不可能なことである。

・人と人のあいだのセックスに殆ど関心を持たなかった女性たち、もしくはオーガズムに至るとしてもめったにそれに関心を持たなかった女性たちは、どこか欠点を抱えている。

 これら全ての神話は、全ての女性たちにとって当てはまるものではなかったが、当時の女性たちのなかには、それを信じているものもいた。
 最後に。一方ではフェミニストとしての私たちの闘いに捧げるために必要となる時間とエネルギーがあり、他方にはセックスをゴールとするような関係性を維持し、発展するために必要となる時間とエネルギーがあり、その両者のあいだに葛藤があることを私たちは知っている。ある問題に背を向けることはその問題を解決することではないと、そのように言われるかもしれないが、私たちはこのステートメントに含まれた真理が、その問題に置かれる重要性にとって関連があると考えている。もし私たちが人と人のあいだのセックスを重要なものとして見なしていたとすると、Aセクシュアリティは責任からの逃避(a cop-out)となってしまっていたであろう。私たちはそのようにセックスを重要だと見なすことはしないため、Aセクシュアリティはその代わりに、無駄にされていると感じられる領域から私たちのエネルギーを引き上げるための手段となる。
 私たちはAセクシュアリティを、革命を志向する女性にとっての、効果的な「代替となるライフスタイル」として理解している。けれども私たちは、「Aセクシュアリティは革命である」とは主張しない。私たちは私たち自身を「自己にアイデンティファイした女性」と呼ぶが、けれども私たちは、全てのフェミニストたちがこの名辞を受け入れるべきだとは主張しない。私たちのステートメントは、ただ次のようなものだけである。私たちのセクシュアリティの本性を吟味し、また私たちのセクシュアリティをとりまく性差別的な誤解からセクシュアルを元の姿に戻せば、その結果として私たちは、私たちの価値を反省すると同時に、私たちの解放の闘いのなかでも有効であるような仕方で、諸関係を形成したり維持したりすることができるようになる。私たちにとって、Aセクシュアルであることは、家父長制を支え、また永らえさせているような、セックスや関係性をめぐる根拠のない考え方に挑戦し、また究極的にはそれを破壊することへの一つのコミットメントなのである。

(この紙面(paper)の更なるコピーは、$.25 でNew York Radical Feminists, Box 621, Old Chelsea Station, N.Y., N.Y., 10011から手に入れることができる。この「マニフェスト」(Manifesto)は、Aセクシュアリティについての結論ではない。それは始まりにすぎない。皆さんからのコメントや批判を歓迎する。) 

                       ――(全訳終わり)