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THE FEMINISTS(1)アトキンスンが吹き込んだ命

 こんばんは。夜のそらです。この記事から再び、1967~1973年ごろのUSのラディカルフェミニズム運動の紹介を再開したいと思います。昨年の6月ごろまで、生活のかなりのエネルギーを割いて勉強していたのですが、その後、ラディカルフェミニストたちの強力な言葉を自分なりに咀嚼する精神的・身体的な体力がなくなってしまい、しばらく放置していました。
 ちなみに、このシリーズは「マガジン」としてまとめています。

わたしは、「Aセクシュアル・マニフェスト」という、NYのラディカルフェミニスト(含レズビアンフェミニスト)によって1972年に策定された宣言文の源流を求めているのです。ちなみに、同時代のラディカルフェミニズム運動全体について知りたい方は以下の記事をどうぞ。(自分的にもかなり勉強して書きました。)

今から紹介するのは、ラディカルフェミニズム運動の一翼を担っていた運動体、「The Feminists」(ザ・フェミニスツ)です。このシリーズではすでに、Redstockingsの紹介をしましたので、これで2つ目の運動体になります。この記事で運動体の誕生と消滅まで、また全体的な思想について説明をし、次の記事でThe Feministsのマニフェストなどを全訳します。最後に、そのマニフェストの解説を書きます。ですので、この(1)は、3つの記事でなる1つの記事の冒頭部分です。
 この記事を書くために使った資料は次の3つです。
・Alice Echols著 Daring to be bad(1989) p.167~185。
・Ti-Grace Atkinson著 Amazon Odyssey(1974)
・Breanne Fahs著 Firebad Feminism: The Radical Lives of Ti-Grace Atkinson, Kathie Sarachild, Roxanne Dunbar-Ortiz, and Dana Densmore. (2018)
  ちなみに、この記事で重要人物として言及されるTi-Grace Atkinsonは、現在ではTERF(トランス差別的フェミニスト)になっており、上の伝記を書いたFahsもTERFです。いずれも許せないことですが、アトキンスンの過去の運動を参照することには意味があると考えているので紹介します。Fahsの著作も、必要な範囲に限って参考にしましたが、トランスの人は読むことはお勧めしません。FahsはAsexualityについても雑な論文を書いてAceコミュニティから非難されており、本当に有害な「フェミニスト」研究者です。

この記事をTERF/SWERF(トランスジェンダー/セックスワーカーを差別・排斥するフェミニスト自認者)やアンチフェミ男性が読むことを禁止します。記事のリンクを共有することも禁止します。あなたのような愚かな人間には、わたしの文章は理解できません。すぐに立ち去りなさい。恥を知れ。

1.アトキンスンとNOW

 運動体The Feminists は、Ti-Grace アトキンスンという女性の存在抜きには語ることができません。アトキンスンと共にThe Feministsは始まり、アトキンスンが追放されたとき、The Feministsはもはや元の姿を保つことができなくなり、消えていきました。
 Ti-Grace アトキンスンは、上流階級の共和党系の家庭に生まれました。1939年に生まれたアトキンスンは、17歳で結婚します。しかし、5年後の1961年には22歳で離婚することになり、同時期にNYの大学院に進学しました。政治哲学を学ぶためです。
 離婚後のアトキンスンは、当時フランスで大ベストセラーとなっていたボーヴォワールの『第二の性』に心酔していました。アトキンスンは著者であるボーヴォワールに手紙を書き、ボーヴォワールから「アメリカにはベティ・フリーダンというフェミニストがいるから、会いに行くと良い」という勧めを受けます。アトキンスンは言われたとおりにフリーダンに会いに行きますが、このフリーダンこそ、現在まで続く全米で最も巨大なリベラル・フェミニスト組織NOWの代表でした。アトキンスンはフリーダンを慕ってNOWに加入し、当時の女性解放運動に本格的に参加することになりました。
 フリーダンがアトキンスンをどのように評価していたのかについては、諸説あるようです。一説によれば、一時フリーダンはアトキンスンをNOWの「美人広告」にしようとした、という証言もあるようですが、ともかくフリーダンはアトキンスンを自分の思想をよく理解する存在として位置づけていたようです。
 しかし、そのフリーダンの思いが誤りであることは、すぐに明らかになりました。アトキンスンがNOWのNY支部に初めて加入した1967年、そのNY支部は他の地域のNOWの支部よりも明らかにラディカル色の強い雰囲気をもっていました。なんと、当時NOWのNY支部には(のちに)ラディカルフェミニズム思想の重鎮(という評価を受ける)ケイト・ミレットもまだ在籍していたのですから。フェミニストとしての強い自覚をもち、かつ政治的にラディカルなNYの人々に出会い、アトキンスンは次第にフェミニストイシュー以外の政治的問題にも積極的に関心を寄せるようになりました。しかし、そうして社会全体にわたる政治問題についてフェミニストとしての意見を磨いていくにつれ、アトキンスンはNOWに幻滅していくことになりました。
 中絶や家族、結婚のことなど、アトキンスンが重要だと考えるトピックについて、NOWはことごとく曖昧な立場をとっている。そのようにアトキンスンは考え始めました。それに、そのころにはもう、アトキンスンにとって最も重要な「師匠」はフリーダンではなくヴァレリー・ソラナスになっていました。あの、有名な『SCUMマニフェスト』を書いた、ソラナスです。文字通り、アトキンスンはソラナスの思想にほれ込んでいたのです。しかし、ソラナスのような過激な思想は、穏健派であるNOWの方針とは明らかに相いれないものでした。そうして、NOWの組織内部で次第にアトキンスンの思想についての懸念が出るようになっていきました。この当時のことについて、フリーダンは後年次のように言っています。「NOWは男の金玉を拳銃でぶち抜くことを支持したことなんて一度もない!」。フリーダンは、アトキンスンが自分から離れてソラナスに近づいていったことを後年まで恨めしく思っていたようです。

2.NOW脱退:10月17日という記念日

 NOWの組織の中で、アトキンソンは「平等」への強い関心を表しました。女性たちの平等を目指すはずの組織の役職は、平等に「クジ」で決めるべきだ、と主張したのです。しかし、アトキンスンによるこの提案は、賛成に対する2倍の反対票によって否決されます。この提案が棄却された日、ついにアトキンスンはNOWを見限って脱退します。それは、1968年10月17日のことでした。アトキンスン自身は、この日の脱退を「分裂」という風に表現しているのですが、実体としては、アトキンスンがただ一人孤立したという状況に近かったと思います。
 とはいえ、アトキンスンに言わせれば、この日顕わになった「分裂」は、大きな意味をもっていました。「この分裂は、女性に抑圧者となる機会を与えたいと考える人と、抑圧そのものを破壊したいと願う人との、フェミニスト運動内での分裂を露わにしていた。」これがアトキンスンの認識でした。(Daring to be bad: p.168-169)。男性と同じような権力を女性たちにも手に入れようとする、そうしたNOWのリベラルな方針は、アトキンスンに言わせれば「女性に抑圧者にする機会を与えようとすること」でした。アトキンスンは、そんなものにはコミットしたくありませんでした。アトキンスンは、「抑圧そのものを破壊したい」と考えていたのです。だからこそ、フェミニスト運動の組織の中でも、徹底的にヒエラルキーを破壊して、平等を目指そうとしたのです。それが、「クジ」で役職を決めよう、という提案には込められていました。アトキンスンは真剣だったと思います。
 先にも書いた通り、1968年10月17日のこの出来事は、「分裂」といよりも「孤立」でした。アトキンスンは自分に多くの賛同者が続いて、多くの脱退者が出ると考えていたようでしたが、アトキンスンと共にNOWを去ったのはたったの2人だけだった。それも、その2人もあっという間にアトキンスンのもとを去りました。
 しかし、その後まもなくして、NYRW(New York Radical Women)の分裂・発展にともなって独立していたAnne Koedt(コート)がアトキンスンと行動を共にするようになりました。さらに、年をまたいで1969年の初夏のころには、アトキンスンは少しずつ賛同者を集めはじめていました。10~20人ほどのコアメンバーを中心とした、フェミニスト運動体が確かに作られ始めてたのです。こうして、1969年の6月13日、「The Feminists」という運動体の結成が宣言されることなりました。当時のメンバーは、アトキンスン、Koedt(コート)、Karp、Rainone、Kalderman、Cronan、Kaeron(カエロン)、Winslow、Feldmanなどでした。さらに、同じ年の秋ごろには、NYのもう1つの運動体であるRedstockings(レッドストッキングス)に不満を持って抜けてきたBarabara Mehrhof(メアホフ)などのメンバーも、次々にThe Feminists に合流していきました。
 こうして、多くのパワフルなメンバーを迎え入れたことで The Feminists は確かな組織となりましたが、アトキンスン自身はThe Feministsの誕生をあくまで1968年10月17日に求めていたようです。ほとんどたった1人でNOWから脱退し、アトキンスンが孤立を極めたその10月17日こそが、この運動体の端緒であると、アトキンスンは考えていました。実際、1969年6月のThe Feministsの設立宣言まで、アトキンスンは自分の運動体を「10月17日(運動)」と呼んでいたそうです。多くのメンバーに支えられて発足したThe Feministsでしたが、アトキンスン自身は、あくまで自分が1人で始めた運動が大きくなった、という認識だったようです。
 ここには、アトキンスンという女性についての2つの事実を知る手掛かりがあります。1つは、アトキンスンは目立ちたがり屋だったということです。少し悪い言い方にはなりますが、アトキンスンはとにかく大勢の中に埋没するということができない人でした。NYでのラディカルフェミニズム運動が衰退したのちも、アトキンスンは色々なフェミニスト運動に顔を出しては、誰よりも過激な発言をして注目を集め続けました。アトキンスンは、良くも悪くもラディカルフェミニズム運動の「台風の目」だったと言えるでしょう。アトキンスン自身について重要な事実の2つ目は、アトキンスンに特別なカリスマ性があったということです。おそらく当時から誰もが認めていたように、The Feminists はアトキンスンのもつ精神的カリスマ性がなければありえない運動体でした。実際、全世界からおびただしいメッセージを受け取っていただろうボーヴォワールから手紙の返信をもらい、NOWの代表であるフリーダンの寵愛を受けたことからも明らかなように、アトキンスンには人を振り向かせる言葉の力があり、人を巻き込むカリスマ性があったものと思われます。このカリスマ性がのちにThe Feministsにとっての「仇」となるのですが、それについては後述します。

3.The Feministsの運動

 この運動体の最初のアクションは、1969年の1月であったとされています。このときThe Feministsは、NYの刑法裁判所でデモを展開し、中絶を行っていた罪で裁判にかけられていた医師(Dr.Rappaport)の無実を訴えました。もちろんそれは、中絶を禁止したり条件付きにしたりする全ての法律の撤廃を訴えるという運動方針に由来するものですが、当時Rappaportの支援に動いた運動体はThe Feministsだけであったとされています。
 それに続く運動として広くThe Feministsの名を知らしめたのは、1969年の9月23日に展開された「反結婚」キャンペーンでした。この日、The Feministsの5名のメンバーがNYの役場に押しかけ、婚姻届けを受理する業務を行っていた窓口の前で「お前たちは詐欺師だ」という風に役人たちを糾弾しました。さらにそのメンバーたちは、結婚制度がいかに女性にとってマイナスであるかを訴えるリーフレットをその場で配布し始めた。婚姻届けを提出しに来ているカップルや、女性に対して、リーフレットを配ったのです。そのリーフレットには、次のようにありました。

婚姻生活ではレイプが合法であること、あなたは知っていますか?恋愛や愛情は結婚に必要ないこと、知っていましたか?結婚すれば自分が夫の奴隷になるということ、知っていますか?国連が結婚のことを「奴隷のような実践」だと言っていること、知っていますか?それなのに、どうしてあなたには、びた一文賃金が払われないのでしょう?こんな詐欺みたいなこと、腹が立ちませんか?(Daring to be bad p.170 より直訳)

市役所に押しかけた彼女たちには、メディアからの取材が向けられました。当時の記者たちの関心は、彼女たち自身が結婚しているかどうかでした。そうして「あなたは結婚しているのか」という質問が向けられることになりましたが、アトキンスンたちはこの質問に決して答えませんでした。このThe Feministsの戦略は功を奏し、報道では「Miss. or Mrs. Atkinsonがストッキングで(市役所に)乱入」という記事が書かれました。MissとMrsで呼び方を変えるなんて、なんて馬鹿馬鹿しいことなのでしょう。
 The Feministsの行動として、この結婚反対リーフレットの配布は今でもとても有名です。そしてこの行動には、The Feministsらしさがよく表れています。一つ目は、婚姻・恋愛・性愛に対する徹底的拒絶です。それらはどれも、女性たちを抑圧し、奴隷のように扱う、そういう男性優位体制から生み出されたもの。こうした思想こそが、アトキンスンをNOWから離反させたのでした。二つ目。この運動はよく考えられたデモンストレーションでした。市役所に押しかける。リーフレットを配る。それは、婚姻届けを出しに来た実際のカップルや女性、また市役所の役人を説得するためではありません。自分たちの主張をメディアに取り上げさせて、広く問題関心と政治的主張を世の中にアピールするためです。当時のラディカルフェミニズム運動の勃興(と衰退)はメディアの力を抜きに語ることができませんが、メディアの取材を呼び込み、「Miss or Mrsアトキンスン」という表記を書かせた点で、アトキンスンのメディア戦略がここにはあったと言えると思います。

4.ライバルとしてのRedstockings

 The Feministsの思想を語る上で、同時期にNYで活動していたRedstockings(レッドストッキングス)との緊張関係があったことは言及に値します。これは、実際にアトキンスンがRedstockingsに対抗意識を持っていたということでもありますが、両者の間には結果として異なる思想の展開があったということでもあります。なお、対抗意識という点では、アトキンスンはとても子どもじみた側面がありました。当時のNYで活動していたフェミニスト運動体の中で最もラディカルであるということを、アトキンスンはしばしば運動のアイデンティティにしていたようですが、そこには明らかに、Redstockingsよりも自分たちがラディカルだ、という自負がありました。
 その二つの運動体の違いを具体的に見ていきましょう。まず、ファイアーストーンらによって思想的支柱を与えられたRedstockingsは、マルクス主義の概念やカテゴリーを好んで使っていましたが、The Feministsはどちらかと言えば伝統的なマルクス主義よりも新左翼系の言葉を好んでいました。また、Redstockingsはエリーティズムを嫌い、女性解放運動に参加している女性たちと、そうでない女性たちを分断して考えることを嫌いましたが、The Feministsはまったく逆で、運動に参加しない女性たちに対して公然と見下した態度をとり、ためらいなく批判しました。
 先ほど、婚姻届けを提出する役場でのThe Feministsの行動を紹介しましたが、この行動は、Redstockingsとの差異を明確に示すものです。以前の記事で書いたように、Redstockingsはプロウーマンラインを採用し、既存の異性愛・結婚・出産・子育てのようなライフコースを生きる女性たちは「合理的に」それを選んでいるのであり、結婚生活のなかで相手の男たちを変えていく、ということにRedstockingsは運動としての力点を置いていました。

これに対して、The Feminists は最初っから結婚制度に批判的であり、結婚している女性や、結婚しようとしている女性に対して「お前たちは奴隷なんだ」と指差すことにためらいがありませんでした。
 こうした差異は、CRの評価にも関係しています。Redstockingsでは、サラチャイルドの強い影響力のもとで、ある時期以降CR(意識高揚)の実践が非常に重んじられていたのですが、The FeministsではCRは無価値なものとされていました。そもそもCRには、個人的な経験の背後にある女性差別=男性優位体制の存在にひとりひとりが気づくことで、個人の経験をベースにして女性解放運動へと女性たちが参加していく、そういうリクルートとしての機能があったのですが、CRでは感情や反応を細かく列挙することだけが求められ、そのときの感情や、過去の行動について「それは誤っている」といったようなはっきりとした判断を下すことは嫌われました。アトキンスンに言わせれば、そんなのはただのおしゃべり会でした。むしろきちんとフェミニスト的に正しい/間違いを判断できない状態をよしとする点で、CRは運動の成長にとっての妨げであるとすらアトキンスンは考えていました。
 さらに、Redstockingsにおいては、男性たちとも協力しながら、男性たちに偏っている権力を公私どちらの領域においても取り戻すことが目指されていましたが、The Feministsにとってはとにかく性役割こそが全ての元凶であり、男性による支配を終わらせるためには、男性と女性が等しく権力や責任を負うだけでは不十分だと考えられました。既存のシステムがもっている不都合・不均衡を修正するのではなく、システムそのものを根絶する必要があると、アトキンスンたちは考えたのです。それはつまり、「男性であること」と「女性であること」の双方に求められる、性別にひもづいた役割(role)を根絶やしにする、ということです。
 また、そもそも社会に「男性優位体制」があるとはどういうことか、という点でも、RedstockingsとThe Feministsにはすこし思想的な差異がありました。Redstockingsがマルクス主義の系譜にあり、どちらかといえば物質的な利害の偏りを問題視していたのに対し、The Feministsは心理学的・精神分析的な考え方を好み、「男性の女性に対する優位」はかなりのていど心理的な側面から考えられるべきだ、という立場に立ちました。男が女を抑圧するのは男の心理的なニーズによるものだ、と考えたのです。
 加えて、先ほど見たように、Redstockingsにおいてはプロウーマンラインのイデオロギーが優勢であり、女性の振る舞いは自分が生きていくための物質的なニーズを満たすための合理的選択なのだとされましたが、The Feministsはプロウーマンラインを全面否定しました。男性と結婚したり、子どもを産んだり、家庭にとどまったり、男とセックスしたりしている、そういう女性たちの行動は「合理的選択」ではない、女性たちは、家父長的な社会から強制された結果として間違った価値観を信じ込まされており、抑圧を内面化しているのだ。これがThe Feministsの主張でした。

5.問題なのは”女性”だ

 アトキンスンが下す結論は次のようなものです。女性たちは、ある意味で「自殺」して、女性であることを否定しなければならない。女性が今のように「女性であること」を完全にやめる日が来るまで、女性の抑圧はなくならない。これがアトキンスンの考えでした。そうです、The Feminists にとって最大の「問題」は、女性そのものでした。女性そのものが問題であり、「女性であること」自体が破壊されるべきだったのです。
 こうした思想があったからこそ、The Feminists の運動はその多くの時間を(活動をしない)女性たちを口酷くののしることに費やしました。自分たちの女たちの役割を捨てろ、そうするまでお前たちは抑圧から逃れられないのだ。これがThe Feministsのスタイルでした。Redstockingsが家庭の中で「男の方を向き」、その男を変えることで自分たちの地位を引き上げようとしたのとは対照的に、The Feministsはいつも女性の方を向いていました。
 例えば、1969年にNYの中絶法改訂の公聴会が大荒れになったことはRedstockingsの記事でも紹介しましたが、この公聴会にはThe Feministsのメンバーも参加していました。しかし、このときのアトキンスンたちの言動は、他のグループとは少し異なるものでした。アトキンスンたちは、裁判所に勤めていた女性の長官や女性の事務員に向かって「お前たちは裏切り者だ、今すぐその仕事をやめて私たちの列に加われ」と糾弾したのです。(Ellen Willis談)。男性たちを変えることで女性たちの状況を変えようとしたRedstockingsと、女性たちを変えることで女性であることの意味を破壊しようとしたThe Feministsは、かくも異なる思想を持っていたのです。
 The Feministsにとって、ラディカルフェミニストとしての最大の目標は、女性たちが自分たちについてもつ観念そのものを変えることでした。女性として生きるとはどのようなことか、という「女性であること」の意味を、男たちによって押し付けられた定義から解放しなければなりませんでした。このとき、そうした「女性であること」の定義のもっとも主要なものは、女性が妊娠し、出産する性であること、そして女性が「母であること」にあるとされました。女性がそうした男性にとっての性的対象となり、子どもを産まされてその世話を押し付けられること、そのような構造が維持されていることが、女性の抑圧の起源にあるとThe Feministsは考えました。
 ですから、The Feministsに言わせれば、異性愛などというものは女性を「産む性」に押し込めるさいのスタイルにすぎず、PVセックスはことごとく女性支配を男性が絶えず確認するための作業でした。もちろん、結婚だって同じです。これについては、これに続く記事(2)と(3)でマニフェストを紹介しますので、そちらで詳しく扱います。

6.問題なのは”女性身体”だ

 The Feministsは「女性であること」という社会の中の性役割の根絶こそが女性の解放に必要だという立場に立ちました。その点で、重要なのは女性・男性のジェンダー役割・性役割システムを破壊することでした。その一方で、The Feministsにおいてはそうした悪しき性役割の最たるものとして、女性が「産む性」であるということが重視されていました。女性が子宮を持ち、妊娠する可能性があるという、こう言ってよければ物質的な土台があるからこそ、「産む性」という社会的な役割の押しつけがなされてしまう、という風に考えられたのです。この点について、Daring to be badを書いたEcholsさんは、「ジェンダー差についての社会構成主義と、本質主義的土台とがThe Feministsには共存していた」と評価しています。女性の抑圧は、「女性であること」の定義に関わる社会的な意味に由来する(=社会構成主義)と同時に、女性の抑圧には物質的な土台がある(=本質主義)とされたのです。こうした両義的な思想は、もしかすると次のような結論に繋がっていました。「問題なのは女性である」。つまり、女性が(カッコつき)”女性身体”をもっていることこそが、女性の抑圧の起源なのだ、と。
 これは、難しい否定主義を帰結しました。問題なのは、性役割です。社会の中で男性にとって都合よく捏造された「女性らしさ/母親らしさ」こそが、抑圧の起源でした。しかしその抑圧的なシステムは、女性の身体の性と生殖を搾取することによって、男性に利益を与えていました。ここから、The Feministsはひとつの結論を導きました。―――自分たちの「性」と「生殖」から自分たちが徹底的に距離をとれば、自分たちの「性」と「生殖」を徹底的に否定すれば、女性たちは抑圧から逃れることができるのではないか。つまり、女性たちの”女性身体”に結び付いている「性」と「生殖」を否定することが、ラディカルフェミニズムの論理から帰結するのだ、と考えられたのです。
 これは、結論としては少し倒錯しているようにも見えます。たとえ女性たちの”女性身体”がシステマティックに搾取されている事実があるとしても、”女性身体”の機能を否定する否定主義を採用することなく、たんに搾取を許さないようなシステムを作り出せばよいとも思われるからです。女性の「性」と「生殖」否定するのではなく、女性だけに「性」と「生殖」を押し付け、性役割を通じてそれを固定する、そうしたジェンダー(性差にかかわる知の総体および制度)破壊すればよいとも思われるからです。
 しかし、アトキンスンたちはそのような発想を採用しませんでした。問題なのは、女性でした。女性たちが自分たちの「性」と「生殖」についての搾取を許していることが問題であり、個人レベルでの否定主義こそが、フェミニストにとって必要な行動でした。

7.反セックス・反レズビアニズム

 こうした否定主義は、「性」と「生殖」にかかわることを徹底的に悪しきものと見なすというThe Feministsの立場につながっていました。これについては、アトキンスンとコート(Koedt)のあいだでも微妙な違いがあるのですが、とにもかくにも、女性が他者とセックスをすることはそれだけで女性の抑圧を生み出すこと、女性の抑圧を再強化することだと考えられました。The Feministsでは、女性が性的なニーズ(性欲)を抱くことは否定されませんでしたが、それをセックスという行為によって解消されるべきだという発想は否定されました。性的なニーズは、すべて自慰行為で充足されるとしたのです。なかには、女性の性的快楽を最大化させる技術が探究されるべきだ、ということを主張するコート(Koedt)のような人物もいたようですが、「セックスの主要な仕事は、女性の支配と抑圧を再強化することだ」というのがThe Feministsの基本的立場でした(Daring to be bad p.173)
 このときの「対人セックス」は、男性との間のセックスに限られませんでした。アトキンスンは、レズビアンという存在にも激しく敵対しました。アトキンスンは、「レズビアンは男性の抑圧というまさにその前提にのったイデオロギーだ」とか「レズビアンは定義からして、人間存在が第一に性的存在であることを受け入れている。もしその前提が正しいのなら、それはある意味で女性が劣った存在であることを受け入れざるを得なくなる」とか、そういったことを言いました。先ほどから見ているように、「問題なのは女性」でした。女性という存在に結び付けられた「性」と「生殖」は、ことごとく男性優位体制による女性の搾取に関係していました。女性が「性」的であるということ自体が、女性を劣った存在に貶めるという、男性優位体制の帰結だとされたのです。
 だからアトキンスンに言わせれば、「セックス(性行為)はつねに、両性のあいだの差異に基づいている」ものでした。そして、女性同士のあいだのセックスは、そうした男性ー女性のあいだの性差に基づくセックスが女性の間に持ちこまれただけのものでした。女性がセックスをするとき、その相手が男性であろうと女性であろうと、そこでは女性の「性」が肯定されることになりますが、それはそれ自体で否定すべきものでした。女性の「性」を否定する、こうしたThe Feministsの否定主義は、レズビアニズムへのぞっとするような敵対心につながっていました。アトキンスンによれば、「フェミニズムとレズビアニズムは真っ向から対立する」ものであり、「レズビアニズムは反動的、フェミニズムは革命的」なのでした。
 ここには、間違いなくレズボフォビアがあったと思います。アトキンスンは、「女のために男を諦めるのではなく、たんにそれを放り捨てよ!」という風にしてレズビアニズムを否定していましたが、「男を諦めたから女と一緒にいるのだろう」というのは、レズビアンに向けられる最も不適切な誤解の1つだと思います。

8.家父長制イデオロギー?

 The Feministsのこうした「反セックス」思想は、ホモフォビア以外の問題も含んでいた、そのようにWillisは回顧します。ウィリスは次のように問うています。「生殖器による性愛は、ただ男性優位の関数(function)にすぎないとするThe Feministsの理論は、一周まわって伝統的な家父長制の前提を受け入れているのではないか。つまり、快楽を得るのは男、という前提を無意識に受け入れてしまっているのではないか。」
 家父長制のひとつの出現のしかたは、女性の「性」を男性が徹底的に管理し、一方的に搾取することにあります。「女性の保護」を名目として、自分たちがタダ(無料)で女性の性を搾取することを正当化しようとするのです(――だからこそ、セックスを女性が「有料で」売る行為(売春)が徹底的におとしめられるのです。売春は、女性の性をタダ(無料)で手に入れることの不当性を顕わにしてしまうからです。)。こうした家父長制的イデオロギーは、女性が「性」の主体であることを否定し、そのことによって管理を容易にするというモチベーションと手を取り合っています。男性は「性」の主体であることを許され、婚姻外でのセックスをしても「男らしい」という風に称賛されるのに対し、女性が婚姻外でセックスをしようものなら、激しい非難が加えられます。女性は「性」の主体になってはいけないのです。これを性の二重基準といいます。
 先ほど引用した箇所でウィリスが言っていたのは、The Feministsによる否定主義は、女性が「性」の主体であることを否定するこうした家父長制イデオロギーとそっくりではないか、ということです。女性同士のセックスにすら「男による女の支配」を見てしまうThe Feministsの論理は、女性から「性」をはく奪し、管理しようとする家父長制イデオロギーとそっくりではないか、というのです。ウィリスのこのような批判は、確かに説得力をもっています。そして、少し話がそれてしまいますが、現代のAsexualityの思想が一周回って性道徳についての保守思想と重なりかねないという危険とも、この指摘は関係しているように思います。
 しかし、表面上よく似ているとしても、The Feministsの思想が既存の家父長制イデオロギーとは全く異なる起源をもつことは明白です。The Feministsは言います。「女性の性的快楽も大切だよね、という女性たちは、男性たちがそのように信じさせていることに気づいていないのだ。それは女性の側の意識の問題なのだ」と。女性たちこそが、自らの意識を目覚めさせ、自分たちが男性たちによって何を信じさせられているのか気づくべきだ、というのです。「性」と「生殖」の管理を通じて、女性たちを自分たちの手元に置いておこうとする家父長制イデオロギーに気づくべきだ。男性とセックスし、生殖と子育てを自分の「幸福な生活」だと考えるような、そんな幻想をすぐに捨てるべきだ、と言うのです。
 こうしたThe Feministsの思想の起源は、アトキンスンがValerie Solanas(ヴァレリー・ソラナス)から受け継いだものです。対人的な性的欲求をことごとく男性性(maleness)と同一視するこの考え方は、ソラナスに由来するのです。アトキンスンによれば、ソラナスの『SCUMマニフェスト』は「かつて英語で書かれたフェミニストの宣言文のなかで最も重要なもの」でした。そして、以前わたしが紹介したアトキンスンの1968年の論文「制度としての性交渉」でも、エピグラフで『SCUMマニフェスト』が引用されています。※以下の記事の冒頭の写真でも、ご確認いただけます。

ソラナスにとっても、アトキンスンにとっても、セックスはそこから女性が解放されなければならないものでした。
 とはいえ、性についてのこうした立場は、当時のラディカルフェミニズム運動において決して主流の立場ではありませんでした。確かに、ラディカルフェミニズム運動に参加した女性たちのあいだでは、1960年代の「性革命」は女性の搾取を悪化させただけだという批判が共有されていました。「自由にセックスすることがまるで良いことのように、あるいは義務のようになったとして、そこで女性にNoを言う権利は与えられているのか?」というのが懸念され続けていました。男性優位体制=女性の抑圧が無くならない限り、「自由なセックス」は男性が好きな時にセックスする自由でしかないのではないか、というのです。
 しかし、当時の多くのラディカルフェミニストたちは、女性の欲望が抑圧されていることと女性の抑圧のあいだには関係がある、とも考えていました。家父長制による女性の「性」の抑圧を取り除くこと、その意味で女性の「性」を解放することは、女性の解放にとって本質的なことだと考えていたのです。例えば、当時ボストンで活躍したKaren Lindseyは「性革命というセクシズムにいらついているからといって、カジュアルセックスをフェミニストが拒否すべきではない」と語っており、有名なKate Milletも「女性の解放は性的抑圧の終わりを告げる」と語っていました。
 だからこそ、と言うべきでしょうか。The Feministsのもっていた「反セックス」の思想は特筆に値します。ラディカルフェミニズム運動について書かれた現代の書物のなかで、The Feministsのこうした「反セックス」思想はほとんど無視されています。日本語でも、ほとんど全く紹介されていません。ラディカルフェミニズム運動体について例外的に(やや)詳しく扱っている栗原涼子さん著『アメリカのフェミニズム運動史』でも、The Feministsに割かれた6ページの紙幅のなかで、このことは一切触れられていません。それが家父長制イデオロギーと表面上よく似ているというのは、確かにそうかもしれません。しかし、それは家父長制イデオロギーと最も激しく敵対したからこそ生まれた思想なのです。なんと興味深いことでしょうか。
 わたしは、1972年の「Aセクシュアル・マニフェスト」(1972)の源流を探っています。このマニフェストには、「性」についてThe Feministsが理論化したこととよく似た発想が書き留められています。ただし、アトキンスンのようなレズボフォビアは、そこにはありません。「Aセクシュアル・マニフェスト」の誕生を遡るためには、ラディカルフェミニズム運動において展開されたこうした「反セクシュアル」思想を見ることが欠かせません。そして、たとえそれが多くの問題を抱えているとしても、これが歴史の闇に忘れ去られているのは勿体ないと思うのです。
 最後に、これは有名なエピソードですが、ここまでレズビアニズムに対して敵対的だったアトキンスンは、その後「レズビアン」になります。レズビアンを自分のアイデンティティとするのです。こうして彼女は、時代を代表する「政治的レズビアン」の1人となるわけですが、これがアトキンスンの「転向」なのかどうか、そしてその「転向」がどのような内実を持つのかは、とても興味深い問題です。アトキンスンが政治的帰結として選び取った「レズビアニズム」は、なにを含意していたのでしょうか。ここには、女性同性愛が「友愛」の延長線上で理解され、「性愛」の側面が過少に考えられてきた歴史も、もしかすると関係しているかもしれません。

9.規則主義ファシズム

 再び、The Feministsの活動に戻ります。これまで見てきたとおり、The Feministsにおいては「女性たちこそが変わるべきだ」とされました。まさに、個人的なこと政治的なことであり、個人的なことこそ政治的なことでした。一人一人の女性が、フェミニストとして正しい行為をすべきだ、行動に移して、自分たちを解き放つのだ、ということが重視されました。
 こうした発想を強くもっていたために、The Feministsのメンバーたちは互いの行動に強い関心を寄せました。運動体の活動にきちんと参加することこそが厳しく求められ、きちんと活動していない女性は、非難の対象となっていきました。その結果、The Feministsはグループとしての内規をどんどん厳しくしていき、個人的な事情よりもグループの活動を優先できる人間こそが正しいフェミニストなのだ、という雰囲気を強めていきました。
 その結果、1969年の夏の会合では、半数の成員が何らかの理由で不在だったにもかかわらず、「出席こそが重要である」という綱領が採択されることになりました。会の活動に参加することと、フェミニストとしての正しい生き方が、イコールで結びつけられていったのです。なお、こうした綱領や内規については(2)で部分的に翻訳を紹介します。
 さらに、The Feministsはあるときから結婚しているメンバーの割り当て制度(quota制)を導入しました。婚姻制度を徹底的に批判する運動体として、結婚している女性がたくさん混じっているのは見栄えが悪い、とアトキンスンは考えたのです。こうして1969年8月には、結婚している女性の割合はメンバーの3分の1を超えてはならない、というルールができました。このルールは、当時のNYの他の運動にかなりの衝撃を与えたようです。それは、NYで最もラディカルな運動体を目指しているアトキンスンの狙い通りでしたが、このルールを巡って、The Feministsはその内部から分裂していくことにもなりました。多くの既婚者女性をも巻き込みながら展開されたラディカルフェミニズム運動のなかで、The Feministsにも多くの既婚者がいました。そのなかには、色々な事情からやむをえず婚姻している女性もたくさんいたはずですが、そうした女性たちの現実を顧みないアトキンスンの姿勢は反発を浴びました。結果として、この「既婚者1/3ルール」がもとで、The Feministsはコート(Koedt)やKarp、Rainoneという重要なメンバーを失うことになりました。
 このルールを後押しした女性たちに言わせれば、「フェミニズムは分離主義と同義であり、結婚は融和主義と同義」でした。The Feministsのなかのカエロン(Kaeron)という女性が、このルールをアトキンスンと共に強く推しました。アトキンスンの方はと言えば、結婚や、男性との関係性はすべて、女性にとって危険を招くものであると考えていました。
 その一方で、Daring to be badを書いたEcholsさんに言わせれば、このルールはThe Feministsが自分たちの先鋭さ、前衛さを示し、自ら確認するためのものでした。アトキンスンは、運動内の女性が男性によって危険にさらされることよりも、運動が外からどう見えるかの方を気にしていたようだ、というのがEcholsさんの評価です。実際アトキンスンは、男が敵だと言っている人がボーイフレンドの隣に座っているのは滑稽だ、そんなことがあったら自分たちの運動が馬鹿らしいものだという風に見えてしまう、と言っていたようです。個人的なこと政治的なこと。自分たちは真剣にやってるんだ、ということを自分たちで確認し、また対外的にアピールするために、結婚ルールは作られたのでした。なお、アトキンスンその人はさらに徹底しており、人前では絶対に男性と一緒の場所にいないようにしていたそうです。その男性とカップルであると間違われる、それどころか友人と間違われることすら、アトキンスンは嫌っていたようです。
 しかし、The Feministsにおけるこうしたルール至上主義は、しだいにもはやファシズムに近づいていきました。これは、この運動体に参加していたコート(Koedt)の回顧です。次の記事でも翻訳を紹介しますが、The Feministsは次のような内規を作ったりしていました。

任意の一カ月以内に開かれた会合の内、4分の1以上の会合を欠席したメンバーは誰でも、投票権を失う。それは、その人が新たに3回連続で会合に参加し直すまで続く。こうしたことが3カ月の区切りのなかで、正当な理由(例:雇用や病気など)なしに3回起きたときには、問題のその人はもはやTHE FEMINISTSのメンバーではないものとする。ただし、彼女が望めば、彼女はもう一度メンバーシップを申し出ることができる。

わたしは、こんなルールのある団体には参加したくありませんが、とにかく個々の女性の行動こそが政治的に重要だと考えられていましたので、The Feministsでは運動のために身を捧げることが政治的に重要でした。とはいえ、こうした規則主義は、当然当時の女性たちの体力を削る結果にもつながっていたはずです。互いを監視する雰囲気の中で、疲弊していく女性も多かったと思います。

10.平等の理念とアトキンスンの追放

 この記事の最初の方で見たように、The FeministsはアトキンスンがNOWから脱退して発足させたものでした。その脱退の理由は、NOWの「平等」にかかわっていました。アトキンスンは、役職をくじ引きで決めようと提案して、否決されて脱退したのです。
 ですから、The Feministsは「平等」をとても重んじる運動体でした。服装によって不平等が可視化されないよう、みんなが着るためのユニフォームを作ろう、という提案がメアホフ(Mehrhof)とカエロン(Kaeron)から出されたりもしましたし、運動体内の役職はもちろんくじ引きで決めました。もちろん、女性たちがいろいろな役職を担当できる能力・スキルはバラバラでしたが、一人一人の女性が自分のスキルを高めていって、役職をきちんと担当できるようになることが求められました。女性たちの「平等」を目指すという理念は、一人一人の女性が自分の能力を高めていく、という自己発展(selfdevelopment)と密接に結びついていました。
 しかし、いくらThe Feministsが「平等」を目指していたとしても、それがアトキンスンによって創始されたグループであるという事実は揺るがぬものでした。アトキンスンは常にリーダー然としてふるまい、話し合いの中でも常に全体をリードしようとしていたようです。
 こうしたアトキンスンのリーダーシップは、「平等」を重んじる運動にコミットしていたいくらかの女性たちを苛立たせました。アトキンスンばかりが目立っていて、アトキンスンには誰も意見できなくて、これでは平等ではない、と考えたのです。
 こうして、1969年の秋~冬ごろには、会合での発言の機会を「平等」にするためのディスク制度が設けられました。これは、自分が発言するときは番号の書かれたディスクを掲げる、というものです。会議の最初に配られたチップが尽きたら、その人はもう発言ができない、というルールでした。このディスク制度は、メアホフ(Mehrhof)とカエロン(Kaeron)が提案したものだったが、その目的は明らかに、アトキンスンのおしゃべりを辞めさせることでした。アトキンスンばかりが発言して、会合でアトキンスンの意見ばかりが通ってしまうことを防ぐためのルールでした。しかし、この制度ができたあとも、アトキンスンは一回の発言を長大にすることでシステムの目的を阻害していたようです。笑ってしまいますね。
 アトキンスンの覇権をやめさせようとする動きは、さらに別の仕方でも生まれました。1969年から1970年の年始にかけて、どのメンバーでも文書を書いたり思想を進めたりできるようにするワークショップが開始されました。これはCreativity Workshopという名前で創始されましたが、これはたった2回でClass Workshop(階級への取り組み)に代わりました。この動きを主導したのも、やはりメアホフとカエロンでしたが、その目的もはやり、アトキンスンを追放することでした。この記事の最初に書いたように、アトキンスンは、比較的恵まれた、上流階級側の共和党家庭の出身でした。アトキンスンは、自分のグループに労働者階級の女性が多く参加していることを誇りに思っていたようですが、アトキンスンの存在は、他の女性たちにとっては階級(Class)の違いを意識させられるものであり続けました。
 当のアトキンスンは、Class Workshopが生まれることに当初は賛成していました。他の女性運動体が中産階級以上の女性ばかりで占められているのに対して、自分の運動体はより開かれており、平等をよく体現していると考えていたのです。しかし、Class Workshopはアトキンスンを追い出すためのものでした。メアホフ(Mehrhof)は言いました。あらゆる階級抑圧は男性的である、と。そして、女性の間になんらかの階級差があるなら、それはすべて男性的だ、と。運動の中で他の女性たちを搾取している女性がいるなら、その女性は男性的な価値を内面化しているのだ、と。これらの主張は、明白にアトキンスンを標的にしていました。上流~中流階級の女性は、階級制度のなかで、自分の父親や夫から、利益を得ているのだ、と。それが真の権力ではないとしても、階級から男性的な利益を得ているのだ、と。
 メアホフはとうとう、The Feministsのなかにいる「王様」を名指しで批判するようになっていました。運動体のなかにヒエラルキーを生み出すリーダーこそが、真の「平等」の実現を妨げ、女性たちの連帯を掘り崩す。アトキンスンが、それだ。
 1970年の冬から春にかけて、アトキンスンとClass Workshopの関係は修復できないほど悪くなっていました。メアホフが回顧するには、「私たちはThe Feministsの理論家であるアトキンスンに、理論で挑み始めたのです」(Daring to be bad p.181)
 1970年4月5日。ついにClass Workshopから出た次のような決議が、会合で通過することになりました。その決議とは、「アトキンスンは自分をグループのリーダーであるかのようにしてメディアに出ることをやめろ」というものでした。アトキンスンは、個人としての活動を目立って行い、グループの平等の精神、クジの精神に違反している、としたのです。真に平等な運動体を作るためには、グループの理念を作り上げる理論的な仕事をアトキンソンだけが担当するのは間違っているし、誰がメディアに出るのかも、くじ引きで決めるべきだ、そのような決議が通過したのです。
 この決議の2日後、アトキンスンはThe Feministsを去りました。もう、アトキンスンが運動体に残ることはできませんでした。
 ちなみに、Daring to be badの著者Echolsさんのインタビューに対して、アトキンスンの追放を主導したメアホフとカエロンは「アトキンスンが辞めるとは思っていなかったので驚いた。やめてほしくはなかった」と振り返っていたそうです。しかし、これらの動きがアトキンスンの追放を意図していたことは明白です。おそらくメアホフとカエロンは、以前のディスク制度のときのように、この決議を通してもアトキンスンは簡単には辞めないだろう、と思っていたのだと思います。
 The Feministsは、1970年頃にはそれなりの知名度を有していました。しかし、The Feministsが有名になればなるほど、アトキンスンだけがその運動の代表のように目立っていること運動体のつまづきとなりました。カエロンが言うには、「アトキンスンは私たちの男(our man)でした。」
 アトキンスンという、上流階級出身の知識人の存在は、「平等」を何よりも重んじるグループのなかに差異を際立たせ続けました。「平等」の理念を掲げてアトキンスンが発足させたThe Feministsは、その同じ理念の下で、創始者であるアトキンスンを追放しました。アトキンスンは、自らが吹き込んだ命によって、追放されたのです。

11.文化派への接近と運動の消滅

 アトキンスンの追放後、1971年には、The Feministsは全ての既婚女性を運動体から追放することを決議しました。アトキンスンなき後、The Feministsはますます内規を強めていきました。自分たちの信じる理論と、実際の行動のあいだの完全な一貫性が、ますます求められるようになりました。
 The Feministsの根底に潜んでいた本資質主義的な思想は、アトキンスンが去って社会構成主義の「重し」がとれたことによって、歯止めが効かなくなっていきました。社会の中で作られた「女性であること」の意味に立ち向かうことよりもむしろ、”女性身体”のうちに潜む本質とどのように向き合うか、という点こそが重要になっていきました。そのことを通じて、The Feministsははっきりと文化派フェミニズム(cultural feminism)的な性格を強めていきました。
 アトキンスン追放後のThe Feministsは、次第に家父長制に代わる「家母長制」を打ち立てることへと目標をシフトさせ、「女性宗教(female religion)」を構想するなどし始めました。たとえこれまで一度も存在したことがないとしても、失われてしまった母権制を取り戻すことが女性にとってよいことなのだ、と考えられたのです。そのことは、女性のうちにこそ宿る特別な何かによって可能になる、とされてました。
 The Feministsは、結局1973年まで活動していましたが、アトキンスンが去ったあとの活動は、それ以前とはずいぶんと異なっていました。1973年に活動を終える少し前には、アトキンスンの追放を主導したメアホフ(Mehrhof)とカエロン(Kaeron)もグループを去ることになりましたが、そのころにはもう彼女たちによってもグループはコントロールできなくなっていました。彼女たちはこう振り返っています。

自分たちにはアトキンスンが持っていたような「アウラ」や「威厳」がなかった。(Daring to be bad p.183)

アトキンスンの持っているようなカリスマが、彼女たちにはありませんでした。指導者を失ったThe Feministsは、メアホフとカエロンが去ったあと、ますます家母権制に没入していきました。女性の本質に根ざした、女性のための女性による制度が創られるべきだ、と考えたのです。
 これが、アトキンスンがいた時代から変わらない本質主義と繋がっていることは一理あるのですが、とはいえアトキンスンがいれば、このような本質主義に走ることはなかっただろうと、Echolsさんは評価しています(Daring to be bad p.183-184)。アトキンスンは、あらゆる権力のヒエラルキーに懐疑的でした。全ての権力や全ての宗教、全てのヒエラルキーには、男性優位体制が忍び込んでいる。それがアトキンスンの主張でした。そんなアトキンスンにいわせれば、女性たちが男性たちとは異なった仕方で権力をもつという「家母権性」など、たとえ理想としても論外だったことでしょう。
 アトキンスン自身はといえば、女性の本質についての”本質主義”が女性の間の抑圧を不可視化してしまうこと、意味もなく女性と男性という個体に目を注いでしまい、女性のあいだの差異に目を向けることを妨げるということに気づきつつありました。のちにアトキンスン自身が振り返って言うには、「自分は『男が敵であること』と『男の振る舞いが敵であること』を区別しているつもりだったが、しばしばその区別がつかなくなっていた」。The Feministsが策定したマニフェストにおいては、「男という役割が悪いのであり、その役割を現在になっている人間(男たち)を根絶やしにする必要はない」とされていたのですが、アトキンスンたちが採用した分離主義はその思想を超えたところに到達し、ついには「家母長制」にまで通じてしまった、その結果として、女性の間の差異が見えなくなった、という反省でしょう。

 The Feministsは、女性たちが自分自身を再創造することがフェミニストの中心的課題だと考えていました。それゆえ、ライフスタイルの変革こそが政治的な運動なのだ、と考えられました。「個人的なこと政治的なこと」。
そうして、個人の生活の変革が政治活動と同一視されたことは、一種のファシズム化を招くことになりましたが、これはThe Feministsだけの問題として切り捨てることはできないとわたしは思います。「個人的なこと政治的なこと」。このテーゼを認める全ての人々は、同時に問うべきだと思います。「個人的なことが、政治的なこと。では、どのように生きる?」。これは、全ての人に問われている問いであり続けると思います。The Feministsは、その問いを問うことの厳しさを教え続けています。
 これで、The Feministsを紹介する最初の記事(1)は終わりです。次の記事では、The Feministsが策定したマニフェストや綱領を(翻訳として)引用します。