見出し画像

無聊を託つ

瞑想から帰ってきて2週間が経つ。3回目の10日間コースともなると衝撃を受けることはもうほとんどなく、あるとしても、この瞑想法の理解の進歩に伴う驚きや、己自身の新たな側面に出会ったという真新しさくらいなものである。あとはやるだけだ、という状態とも言える。ここで少しだけ振り返りをしたい。

瞑想で何をするのか、というのに一言で答えるとしたらひたすら己の呼吸と感覚を観察することだ、と言えると思う(なお、ここで言う「瞑想」とは、一般社団法人日本ヴィパッサナー協会が行なっている10日間コースで指導される瞑想のことである)。平静さとともに呼吸と感覚に気づいていることで、そのひとが今までに溜め込んできたサンカーラを滅することができる。サンカーラとは、心の反応、あるいは心の条件付けのことである。私たちは意識的にも無意識的にも、心地のよいものをもっともっと、と求めるという渇望のサンカーラや、心地の悪いものを忌避しようとする嫌悪のサンカーラを溜め込んでいる。瞑想とは、それらのサンカーラを少しずつ浄化していく過程である。

今回は3回目の10日間コースであったが、今回もやはり一部のサンカーラがきれいさっぱりなくなったのを感じる。たとえば煙草である。私は3日で1箱吸う程度のスモーカーだったのだが、コースが終わってから煙草が特に吸いたいとは思わなくなった。吸ったら吸ったで味はするのだが、それが以前とは全く違う。まるで初めて煙草を吸ったときのような感覚なのだ。おいしいわけでも不味いわけでもなく、ただ香ばしさを感じる。もちろん、それを繰り返しているうちに以前と同じような煙草の味になり、付き合い方も以前に似通ってくるのだが、一旦は、消える。煙草への執着が消えている。

どのようなサンカーラが順々に出てきて消えていくのかはわたしにはわからない。ただ瞑想をして、出てきた感覚に平静心とともに気づいているだけである。執着を離れるとはどういうことか。それは、Aにも、Aの反対物にも執着しないということである。たとえば書くということ。わたしは今、太陽を見過ぎたせいで視力が落ち、読み書きに少し不自由しているのだが、それを差し引いたとしても、今のわたしは書くことへの執着がいい意味でなくなっている。つまり、書くことにも、書かないことにも執着がない。書くことを病的に求めることもなく、書けないことを嘆くでもなく、あるいは書くことから逃げようとするでもなく、書かない状態に縋ろうとするでもなく、ただ、シンプルに書いている。あるいは書かないでいる。何か滔々と溢れ出るように書けるようになるわけではない。逆に、今までと文体がガラッと変わってしまったり、全く書けなくなったりするわけではない。ここには自然な書くことのリズムがある。それはまるでわたしの身体のようなものだ。呼吸に自然さがあるように、わたしが書くことも自然に為される。

要は、サンカーラが滅されると生きやすくなるということだ。AにもAの反対物にも絆されることなく、Aを為すべき場面ではAを為し、Aを為すべきでない場面ではAをしないという足場を得ることである。これは生き方が消極的になるということとは全く違う。何かを成し遂げたいという思いが小さく萎むということはなく、成すべきことを積極的に選んで為そうという気持ちになる。

だからわたしは瞑想をする。日常生活に戻ってきているが、瞑想の習慣を維持したいと思う。

100円でも投げ銭をしていただけますと、大変励みになります。よろしければ応援よろしくお願いします。