勝とうなんて、思っちゃ、いけない。勝てる筈が、ないじゃないか。誰に、何者に、勝つつもりなんだ。──スマブラと坂口安吾

階段を降りていると、リビングから戦闘のBGMが流れてくる。誰かが戦っているのだろう。鼓動が速くなる。おれも交ぜてくれよ。

369くんがこのシェアハウスにNintendo Switch(スマブラ)を置いていってくれたおかげでシェアメイトとの団欒の時間が増えた。とてもいいことだ。任天堂は本当に面白いゲームを作った。64からゲームキューブ、Wii……と経て、スマッシュブラザーズはシリーズ6作目になる。小学生の頃はゲームキューブ版のスマブラに夢中になった記憶がある。もうこのゲームを知ってから20年近くになるのか。

お気に入りのキャラクターはネス、シーク、ミェンミェンあたりだ。ゲームキューブ版から好んで使っていたネスとシークは、多少の変更を加えられているが、それでも懐かしい。今作から新たに登場したミェンミェンはリーチの長さを生かした攻撃が特徴的で、そのデザインも含めて魅力的である。あのキャラやこのキャラを使いながら毎夜、シェアメイトたちと戦いを繰り広げてきた。もう1,2ヶ月はこんな具合だろうか。

だが、最近は少しやりすぎだと思うようになってきた。毎日夕食後に1,2時間はやっている。楽しいし、止めどきを失っていつまでも戦ってしまう。毎日1時間半として、それを1週間で10時間強。長編小説が一冊読めてしまう時間だ。一度宇治田くん(シェアメイト)と30分で止めようと決めてやったときはよかった。程よく楽しんだ。名残惜しいくらいがちょうどいい。

子どもの頃は親にゲームは1日1時間と決められていた。あれは宿題や勉強をする時間を確保するためでも、視力低下を予防するためでもあったのだろうが、一番の目的は、時間管理ができるようにすることだったのではないかと思う。時間を守れることも守れないこともあった。今いいところだから明日の時間を減らす分今やらせてほしい、と交渉したこともあったと思う。

今になって親の教育的配慮のありがたみを感じる。あれは限度を知る練習だったのだ。ゲームに限らない。煙草やお酒も吸いすぎたり飲みすぎたりしては一番心地よいところを通り過ぎてしまう。食事だって腹八分目がちょうどよい。高校のとき、家庭科の先生が「余白の美」について説いていたのを思い出す。お椀にはだいたい7割くらいまでしか中身を注がないのがよくて、それは3割を残すというある種の美学であるのだと。そしてこの美学とは、そのまま生きる技(アート)に通ずる。

桜井章一であれば「一口いただく感覚」と言ったり、「つかむのではなくふれる」と表現したりする。歴史を遡れば、アリストテレスや孔子といったひとたちも、中庸の重要性を説いた。もちろん、ときにラディカルな選択をするべきタイミングもあるはずだが、基本的におれたちの「ケ」の生活においてはほどよく、というのがバランスを保ちやすい生き方であると思う。

シェアメイトのみんながまだSwitch版に慣れていない状況では(ひとりだけ伊藤くんという猛者がいるのだが)、いろんなキャラを使ってみたり、いろんな技を試したりしていて、それだけが楽しかったのだが、今となっては、お気に入りのキャラみたいなのが出てきていて、そしてお気に入りのキャラがいればこそ、そのキャラで勝てればうれしいので、最近は部活か何かのようになってきている。技やコンボをYouTubeで調べてはそれを練習し、勝ちに行こうとする。これ自体は自然な流れなはずだが、このあたりが「限度」なのだろうと思いはじめてきている。強くなりたい、上手くなりたい、と思うことそれ自体は自然なことだが、それが今度は執着のようになってくる。執着になると、強くなれたらうれしい、だけではなく、強くなければダメだ、強くなかったら意味がない、になってくる。うまくなろうとするその気持ちはそれ自体自然だが上手くなければいけない、になってくると今度は楽しみが減る。任天堂は本当にすごくて、このゲームはいくらでも強く、上手くなれるように設計されているから、飽きることなく強さ、上手さを目指していけるのだが、これ以上やると、他に与える影響が大きくなりすぎる。端的に、本を読む時間が減っているのは由々しい事態だ。

坂口安吾に「不良少年のキリスト」という太宰治の死から始まり文明論に至るエッセイがある。まさにここで坂口安吾が言っていることが響いてくる。エッセイの末尾から数行を引用する。

 時間というものを、無限と見ては、いけないのである。そんな大ゲサな、子供の夢みたいなことを、本気に考えてはいけない。時間というものは、自分が生れてから、死ぬまでの間です。
 大ゲサすぎたのだ。学問とは、限度の発見にあるのだよ。大ゲサなのは、子供の夢想で、学問じゃないのです。
 原子バクダンを発見するのは、学問じゃないのです。子供の遊びです。これをコントロールし、適度に利用し、戦争などせず、平和な秩序を考え、そういう限度を発見するのが、学問なんです。
 自殺は、学問じゃないよ。子供の遊びです。はじめから、まず、限度を知っていることが、必要なのだ。
 私はこの戦争のおかげで、原子バクダンは学問じゃない、子供の遊びは学問じゃない、戦争も学問じゃない、ということを教えられた。大ゲサなものを、買いかぶっていたのだ。
 学問は限度の発見だ。私は、そのために戦う。

坂口安吾「不良少年とキリスト」

坂口安吾は戦争経験を踏まえて、以上のことを述べている。学問とは、限度の発見である、と繰り返し述べている。そして、時間を無限と見たり、原子バクダンを発見したり、自殺したりすることを「子供の遊び」であると繰り返し言っている。何ゆえか。これらは限度を知らないからだ。時間とは「自分が生れてから、死ぬまでの間」であると知ることが限度だ。原子力は、「コントロールし、適度に利用し、戦争などせず、平和な秩序を考え」ることが限度だ。

坂口安吾が述べていることに比べたらスマブラなんてのはあまりに小さな「大乱闘」にすぎない。が、おれもひとりの大人であるならば、「子供の遊び」をいつまでも続けているわけにはいかない。限度を持ってこのゲームを遊ぶべきだ。ネットを開けば限度を知るべき戦争の情報が流れてくる。中には目を背けたくなるような酷い映像もある。おれにできることは少ないが、それでもゼロではない。考えるべき取り組むべきことはある。ゲームひとつでさえ限度を弁えることのできない人間に、もっと大きな「子供の遊び」を止めることはできない。コントローラーから手を離せ。電源を消せ。

「学問は限度の発見だ。私は、そのために戦う。」

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