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自傷行為のようにマクドナルドを食べる

昨日の晩に見た夢の話から始めよう。

アイスクリームとポテトを大量に食べたくなっていて、食べようとしていて、あるいはすでに食べていて、満ち足りていると同時にぜんぜん足りないような欲求不満を抱えていた。塩分と糖分が口内で結婚マリアージュするように、欲望が満たされている状態と未だ満たされず悶々としている状態とが溶け合っていた。夢ならではの出来事。

それを先ほど、仕事が終わったタイミングで思い出して、どうしてもジャリジャリと塩をまとったポテトと甘くて柔らかいソフトクリームを一緒に食べたくなって、近くのマクドナルドにやってきている。

15 レジNO 02     2024年1月15日   (月)16:18
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(スパビーセット)                               520    (1コ)   ¥520
  スパビー                                           1コ
    マックフライポテトM                                       1コ
  コカコーラM                                                1コ
ソフトツイスト                                      140      1コ     ¥140
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        小計                                  4コ   ¥660
         (内消費税                                              ¥60)
     10%対象                                                ¥660
        (内消費税                    ¥60)
          合計                                                      ¥660 
          クレジット支払                                         ¥660
          おつり                                                        ¥0

レシートを上記みたいに書き写そうとして(これは千種創一さんの詩集『イギ』の影響)、Macでの半角カナの打ち方を調べようとしたが「マクドナルド 半角カナ 打ち方」なんて調べてしまっていて、今日のおれは本当にぼうっとしている。

マクドナルドは高校生の頃、友人とよく来ていた。テストが近いのに一杯のドリンクと無料の水だけで粘ってだらだら過ごしたものだった。今も見渡せば高校生らしきひとたちがたむろしている。仕事の資料を作っているっぽいおばさまや、時間が経つのをただ待っているようなおじさまもいたりして、このお店はひとがどれだけ長居しようがまったく気にしない。

土井善治さんの本を読んでからというもの、食というものの意識がより深くなった。食事は栄養を摂取するだけの過程ではない。そこには、食べられる野菜があり、肉があり、それらをケアしている生産者がおり、流通に関わっている業者もいる。そして、食材を皿のうえに盛りつけるという行為は、そのまま自然をもてなしているということにつながる。デリダが言っていたっけな。人間の偉大さは植物や動物だけではなく、神をも歓待できることにある、ということを。わたしたちは食事を作るときに、それを食べるひとよりも先に、その食材たちをもてなしているのだということ。食事とは、生まれては死ぬという、死んだら他のものを生かすというサイクルに、地球に参加するポイントだったのだ。

だから、この地球に参加するということを考えてからというもの、ファストフードからは遠のいていた。どんなに空腹でめんどくさくても、味噌汁を作るということだけは徹底した。そのとき冷蔵庫にある野菜を大量に煮込んで味噌を溶かす。そこだけは維持しようとしていた。

桜井章一さんはこう言う。

 私が昔から言い続けている言葉に「準備、実行、後始末」がある。すべての物事は「準備、実行、後始末」のサイクルの上に成り立っており、どれかひとつでも疎かにすればその流れが循環しなくなり、物事は成り立たない。
 料理の場合、後始末をきちんとしなければ汚れた皿がたまる一方となる。皿洗いという後始末をちゃんとするから次の準備にとりかかれるわけで、料理だって後片付けをちゃんとしなければ、次の調理に取り掛かることができない。
 みなさんは調理と食事、そして皿洗いを分けて考えてしまっているかもしれないが、実は調理も食事も皿洗いも、同じサイクルの中に存在する作業といっていい。ひとつでも疎かにすれば、楽しい食事のひとときは決して生まれないのだ。

桜井章一『わが遺言』(ポプラ新書)

食事というのは地球という循環への参与であると同時に、調理、食事、皿洗いという三項の循環の一部でもある。おれたちは複数の循環のうちに身を置いている。そして、ひとつをまっとうすることは、その次のフェーズを気持ちよく始めることにつながる。そうやって、済んでいく。澄んでいく。

そうして作り上げてきたわたしの生活(身体)に齟齬をきたしてきていて、ジャンキーなものへの傾斜があった。これを壊そうという欲求が湧いてきていた。夢に現れるほど。そして今日それに乗った。からだに毒だと知っていながら毒を摂取するのは、タバコもお酒も一緒だけれども、マクドナルドのハンバーガーは直接的に喉の奥が反応する感じがある。おいしいのにおいしくない、お腹が膨れていくのにどこか虚しい。ハレの食事同様、毎日のように常食するものではない。もう当分は結構だ。

今は休息のタイミングなのだろう。今日読んでいた『曙光』でニーチェが言っていた。

多く眠る。──くたびれて自分自身がいやになったとき、自分を元気づけるためにはどうしたらよいか? ある人は賭博場、他の人はキリスト教、第三の人は電気療法をすすめる。わが親愛なる憂鬱病者よ、一番よいことはやはり、実際的にも比喩的にも多く眠ることである! そうすればまた自分の朝をもう一度もつだろう! 生活の知恵の芸当は、あらゆる種類の眠りをちょうどよいときにさしこむことができることである。

ニーチェ『曙光』(ちくま学芸文庫・茅野良男訳)

実際的にも比喩的にも、今晩はたっぷり寝て休もう。

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