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眠れない夜に

おもしろいエピソードだ。西尾維新は極端だが、わたしたちは眠ることで「朝」を迎えることができる。朝になると、眠る前にはまったく思い付かなかったような解決法がいとも簡単に見つかったりする。別に問題を前にしているひとだけではない。眠ることで、わたしたちは新たな生を再開することができる。シオランならこう言う。

睡りは、生の惨劇を、そのさまざまな悶着だの、妄想だのを忘れさせる。目覚めは、それぞれひとつの再開であり、新しい希望である。こうして生は、ある心地よい不連続性を保持するのであり、それが生に絶えざる再生の印象を与えるのである。これに反し、不眠は断末魔の感情を、癒しがたい悲しみを、絶望をもたらす。

E・M・シオラン『絶望のきわみで』(紀伊國屋書店)

このところ、またも眠れない日々が続いている。眠れないのなら起きている間になにかしたらいいとは思うのだけれども、眠れないでいるときの覚醒状態というのはぼんやりとしたもので、何かに集中することさえできない。もちろん、眠れないからといって、三日三晩起き続けているというわけではない。疲れが溜まると今度は、泥のように眠る。今日もそうだった。疲れが来るまでネット麻雀をしたり煙草を吸ったりして、朝方に眠りに就いた。烏の鳴き声に眠りを急かされながらベッドに沈んだ。一度眠りに就いたら、今度は浅い眠りがやってくる。スマホの通知音を意識の遠くで聞いたり聞かなかったり、シェアメイトのシャワーに入る音を聞いたり聞かなかったり。そうして、やっと体を起こしたのが19時頃。もう日は沈んでいる。日の出から日の入りまで、つまりは太陽が出ている間じゅうずっと眠っていたわけだ。

今日は大学の後輩の結婚式がある。今眠るわけにはいかない。そんなわけで今、パソコンに向かって文章を書いている。

このところ、本が読めない。うつ状態のような文字が読めない状態というよりは、読む集中力が持たないといった感じである。本を開いてみても、なんとなくじっとしていられなくて、かといって他にできることがあるわけでもないのだけれど、すぐ本を閉じてしまう。卓上には本が堆く積まれている。どれも一度は読もうと思い、買った、あるいは借りてきた本だ。試しに列挙してみよう。

  • 青山二郎『眼の哲学・利休伝ノート』

  • 半藤一利『安吾さんの太平洋戦争』

  • 丸山眞男『忠誠と反逆』

  • エルンスト・ユンガー『砂時計の書』

  • オクタヴィオ・パス『鷲か太陽か?』

  • ポール・ヴァレリー『ムッシュー・テスト』

  • 鈴木創士編『アルトー横断:不可能な身体』

  • 加藤典洋『敗戦後論』

青山二郎は再読で、今書こうとしているエッセイのために参考にしようとした本だ。半藤一利は安吾が好きだから買った本で読みかけ。丸山眞男は「歴史意識の「古層」」がおもしろいと薦められて流し読んだ。エルンスト・ユンガーはとりあえず小説から入ってみようと思って図書館で借りた。オクタヴィオ・パスは途中まで読んだ。ヴァレリーはこれは読まなきゃと思っていたけれどまだ手付かず。アルトー論はアルトーの手になる自殺論だけ読んだ。加藤典洋も読みさし。

本は並行して読む方だけれども、調子がいいときはどんどん読んでいくから同時読書冊数は減る。逆に今みたいに集中力が低下しているときだと同時にあの本もこの本も読んでいるという状態になる。

もちろん、今挙げたのはテーブル上で塔になっている本だけだから、この他にも途中の本はたくさんある。キリがないので挙げるのはやめておく。

集中力の波というのは、如何ともしがたい。集中力を底上げすることはできたとしても、この波自体は解消できるものではない。読めるとき、読めないときがある。こんなときにわたしが立ち返るのは、やはり吉岡実の詩集で、読む快楽が思い出される。

「僧侶」は本当に美事だ。今の4人で暮らしているシェアハウスになぞらえたりしながら読むとおもしろい。4人が同じ作業をしたりしなかったりしながら、「僧侶」はめいめいの仕事に耽る。

少し書いてみよう。


一人の僧侶は水浸し
不眠の夜を煙草臭い手でまさぐっている
死者の塔を眺めては
登れないことを知り
目をそらす
別の二人は毛布にくるまり馬車馬の夢を見る
もう一人は哄笑 酒を飲んでいる



吉岡実の美しさにはなんとほど遠いことか。さて、眠気が渦巻いてきたところで、そろそろ風呂に入るとしよう。今日は結婚式だから、準備に時間がかかるのだ。

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