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劇団不労社『MUMBLE─モグモグ・モゴモゴ─』を観て

劇団不労社さんの演劇『MUMBLE─モグモグ・モゴモゴ─』を観た。以下にはその感想を記す(約8,600字)。


素晴らしい演劇だった。今わたしは感想文をしたためようとしているわけだが、どこから書いたらいいだろうかと迷っているところだ。それはさながらあまりに豊かな食べ物を前に、どこから食べ始めたらいいかと逡巡するのに似ている。やはりこの演劇の主要なモチーフである「食」から語り始めるべきだろうか。

まずは、感想を述べるうえで関わりの深そうな過去の自分の話から始めたい。

生きることは暴力だ

自分が生きることは他者への暴力だと思っていた時期がある。すでにこの世に場を占めていて、生きるためには何か生き物を殺さないではいられないということがとてもむず痒かった。当時は実家暮らしで、食事はほとんど親が用意してくれていた。それもあったのだろうと思う。料理するとは土井善治さんにならえば、生命の循環するこの地球において、器を選び、取り合わせ、盛り付けることによって人間が自然(他者)をもてなす営みであるが、だからこそ、自然(他者)を自らの手で迎え入れることなく、ただおいしいご飯だけを食べさせてもらうというのが耐えがたかった。それでどうしたかというと、自分で手を下した生き物の命を食べようとしたのである。具体的には、殺してしまった蚊や蜘蛛、あるいはちぎった草の葉をそのまま食べるということである。ただ邪魔だから、気持ち悪いからという理由で、あるいはそんな理由さえ思い浮かべることなく生き物を殺すことに抵抗があった。殺してしまったのなら食べてしまおう、そうすることで、少しゆるされるような気がしたのだった。食べたものはわたしの身体の中で消化され、栄養となる。そうすれば殺したことの罪滅ぼしになると考えていたのだ。

だが、これを実践しながらも、違和感を抱いていたことは覚えている。これを徹底することはできない。なぜなら殺すことに躊躇するからといって掌に棲まう微生物を殺さないために手を洗わないなんてことはできるはずがないし、意識せずに蟻を踏んでしまうこともあるだろうからだ。思えばこの頃は他者、他種を大事にしようと思いながらも、その態度の中に自己中心、人間中心的なところが多くを占めていたと思う。わたしはあくまで主体的能動的に「殺す」ことを中心に考えていたのだが、もっと想像力を巡らせるべきは、客体的受動的に「殺される」ということだった。生物としての安住とは、殺さないことにあるのではなく、殺すことと同様に殺されうることも認め、受け入れることにあった。スタート地点がすでにエゴセントリックだったのだ。わたしはつねにすでに他者の影響を受けている。なんなら食われている。後述するが、わたしは食べる主体でありながらそのものを食べきることはできないし、また、食べられる客体でありながら、食べ尽くされることもないのだ。指に巣食う疣を見よ。疣(ヒトパピローマウイルス)はわたしを食べている。だがわたしが、わたしのすべてが疣に乗っ取られるわけではない。いわばわたしは食べ残された残余だ。あるいは腸内にいる百兆もの微生物を想像せよ。それらのバランスがわたしたちヒトの心身に影響を及ぼすことは知られている。わたしはわたし個人として存在しているつもりでいるが、すでに他者、他種との絡まり合いの中でしか存在することができない。「わたし」とは生物が絡まり合っては生き、死んでいるこの場の謂いである。

わたしたちは、食を通じて他者、他種と交錯している。まずはこれがわたしの一口目だ。


人間をデフォルメしたら

キナコはミチとサクラとの会話の中で、「『命』って感じ」が出ている食べ物が食べられないと述べる。サクラが「たべっ子どうぶつ」(ビスケット)は大丈夫かと尋ねると、キナコは「デフォルメ」されているから問題ない、と返答している。

人間をデフォルメしたらトーラスになるという話がある。トーラスとは位相幾何学的には、その凸凹を引っ込めたり膨らませたりしたらドーナツのような形になる立体のことを指す。それならばたしかに人間もまた、消化管という穴に貫かれたひとつのドーナツのような形をしている、と見ることができるのかもしれない。であれば、食べることとは、食物がこの穴を通過していくことだと言うことができそうだ。

が、実際ものを食べるとは、食べたものとこのわたしが相互に嵌入しあう出来事である。何かを食べて排泄するとき、一見人間は食べ物がこの管を通過する過程の前後で変化していないかのように思われるが、実際には食べたものの一部がわたしとなり、わたしの一部が排泄物として出ていくことで「動的平衡」が保たれている。全体としての見映えは変わらないかもしれないが、ごく微小なレベルでは、わたしたちは変化の只中にある。生きることとは食べることを抜きにしては考えられず、そして食べることが他者との相互嵌入の機会であるならば、生きているわたしたちは決して静的なトーラスなどではない。

人間をデフォルメするとするならば、トーラスではなく、さらに細かな穴が穴に重なるようにして空いている多孔的なあるいは襞のような状態を想定しなければならない。そしてそれは結局のところデフォルメの不可能性を意味している。

キナコがデフォルメされた食べ物しか受け付けないということは、他者と深く関わり合わないということと表裏の関係だ。実際にキナコは未来視点でこの物語を語るメタ的な位置を与えられており、また、登場人物として現れたときも、猿渡家が経験した凄惨な飢えと争いを経験することはなかった。逆に、飢餓状態の中にあった猿渡家のひとたちは、生きるためにどんなものでも貪欲に食べようとした。シロアリや蛆、カラス、カーペット、そしてしまいには人間でさえ。

飢えることの苦しみは、ただ栄養を摂取できないということだけではなく、他者と関わりあうことができないということにある。真木悠介は以下のように述べる。

われわれの経験することのできる生の歓喜は、性であれ、子供の「かわいさ」であれ、花の色彩、森の喧騒に包囲されてあることであれ、いつも他者から〈作用されてあること〉の歓びである。つまり何ほどかは主体でなくなり、何ほどかは自己でなくなることである。

真木悠介『定本 真木悠介著作集Ⅲ 自我の起原』

食べること、それは他者から影響を受けるということであり、さっきまでそうだった自分を手放すことである。そこにはよろこびがある。

では、民宿シャングリ=ラのひとびとに視点を移そう。彼女ら彼らは気まずさを抱えながらも「食」卓を囲んで家族を演じている。


家族は演じられるものである

さて、民宿シャングリ=ラでは、今は亡き先代の猿渡ゲンの意向で、そこにいるひとが家族のように振る舞うことが求められている。つまり演技内演技、演劇内演劇である。それはどんな家族だろうか。メンバーを列挙しよう。まず、サチとジョージ、ケントには血縁があるが、この家族には血縁ではないひともいる。ジョージの妻のサクラやその姪であるキナコ。そしてゲンの連れ子であるカイト(サチの長男でケントの兄に当たる)。ケントの交際相手のミチに、警官のコタロウ、そして民宿の客としてやってくる寅丸である。さらには、チャーリーという犬(かつては犬の姿だったが今はヒトの姿をしている)もこの「家族」の成員だ。

伝統的な家族社会学では家族は「血縁、もしくは法的に継続した性関係に基づき生活を共同している関係や集団」と定義されている(生田武志『いのちへの礼儀』)。手元の電子辞書では「夫婦とその血縁関係者を中心に構成され、共同生活の単位となる集団。近代家族では、夫婦とその未婚の子からなる核家族が一般的形態」とある(デジタル大辞泉)。もちろんこの定義は今日では失効しつつある。わたしは親や兄妹とは共同生活をしていないが、家族であることに変わりはない。また、里親家庭への関心も高まっている今、あえて血縁を家族の条件とみなす必要もないだろう。民宿シャングリ=ラに集うひとたちもまた共同生活はしているものの、必ずしも血縁だけでは結びついておらず、伝統的な「家族」とは一線を画している。

観劇前に配布された資料には次のようにある。

「家族」という言葉からどのようなイメージを連想しますか?
暖かく豊かで幸福なもの?
もしくは冷たく貧しく暗いもの?
またはそれらの両方?

人と人が作る共同体である以上、
「普通の家族」などは存在せず、
家族の数だけ悩みや苦しみ、
そして喜びがあるかと思います。

配布資料「ご来館のみなさまへ」より

この演劇に出てくる人物たちは「普通の家族」ではないが、それでも「家族」を演じようとしている。仲が悪くなると、血の繋がりの有無や、この村を捨てた事実(共同生活をしなかったという事実)を引き合いに出して、突っぱねたりもするが、それでもなんとか「家族」の体裁を保とうとしている。亡くなった民宿の主人・ゲンが与えた「家族として振る舞う」というルールは、父、マスター、絶対者の命令として、いざこざを含みながらも皆がなんとか守ろうとしているかのようだ。そしてこれは演劇内演劇を見ているわたしたちの置かれている状況も同じではないか。つまり「家族」は守られねばならない。そのために演じられなければならない。だが、ゲンの遺志を置いておいたとしても、わたしたちは「家族の外」を想定することなどできるだろうか。

東浩紀の『訂正可能性の哲学』によれば、「家族の外」は哲学史的には否定されている。プラトンもヘーゲル家族の外に出ようとしたが、その試みはポパーには家族的なものにしか見えなかった。そして、ポパーによる閉ざされた社会への批判もまた同じ論理を辿ってしまっている。あるいは、人類学者で歴史学者のエマニュエル・トッドによれば共産主義による家族の否定は共同体家族という特定の家族が生み出したイデオロギーでしかなかったという可能性を示唆している。また、共産主義のみならず、他の政治思想も特定の家族形態に支えられて現れているのだとトッドは主張する。たとえばフランス革命の理念はパリ盆地で支配的だった「平等主義核家族」と切り離せない関係にあるし、ドイツや日本で「直系家族」が支配的だったことが、両国で近代の一時期に極端な民族中心主義が展開されたことと関係しているのではないかと推論している。

話が細かくなってきた。要するに東浩紀は、家族が人間の思考そのものの限界である可能性があると述べている。そしてそうである以上、家族という言葉を開放的、公共的な領域と対置された、親密で閉鎖的、私的な領域を名指すのに使うのをやめるべきだと、むしろ閉ざされたものと開かれたもの、私的なものと公的なものを横断する柔軟な概念として捉え直すべきだと提案している。家族の外にもまた家族があるのであればこそ、この「外」を目指すのではなく、「家族」の概念を更新しようとしているのである。

東浩紀は家族を「訂正可能性の共同体」として提示する。

規則は変わる。伝統や習慣や価値観は時代に応じて変わる。プレイヤーも変わる。古い世代は死に新しい世代が生まれる。けれども、なにもかもが変わっていくにもかかわらず、参加する家族=プレイヤーたちは、なぜかみな「同じゲーム」に参加し続けていると信じている。その矛盾したダイナミズムが家族の本質である。
 だから家族は閉じているとも開かれているともいえる。家族は遊びを共有する親密な共同体であり、その規則を理解できない参加者は、クリプキの懐疑論者のようにあっさりと排除される。だから閉じている。けれども、さきほども記したように、ときにそんな遊びに参加する他者が現れ、思いもかけぬ行動によって規則を遡行的に「訂正」してしまうこともある。だから完全に閉じているわけでもない。その点では開かれているともいえる。

東浩紀『訂正可能性の哲学』

ここで書かれているのはまさに民宿シャングリ=ラに集った「家族」たちのことのようではないか。彼女ら彼らは「家族」の外に出ようとせず(各人物はそれぞれの思惑あるいは大雪という外的要因のために、この民宿に居ざるをえないともいえるが)、全員を規定するルールのことなど知らないまま、家族ゲームを続けている。

劇の最後に流れ、歌われるチャットモンチー「シャングリラ」の歌詞には「あああ 気がつけばあんなちっぽけな物でつながってたんだ」とある。原曲では「あんなちっぽけな物」とは川に落とした携帯電話らしいということがわかるのだけれども、この劇においては、ここがこの民宿に居合わせたひとたちの気づきの瞬間を表したような詞に聞こえるのである。それぞれの運命は、遡行的に幾度も訂正され、捏造されたものである。はじめから「キャリア」なんてものは見通せはしない(「不労」社とは素晴らしいネーミングである)。キャリアとは「轍」の意味であるが、その轍が幾重にも掻き消されては書き加えられた、そうした訂正の跡として登場人物たちの運命はある。

だから、集団心理に押されるようにして誰が明確に食べたいと言ったわけでもないマンフクの肉を皆で食べようとしているときに、ゲンをサチが幻視して(あるいはあの場の皆が幻視していたのだとしたらそれはもはや幻ではない)、「歳月人を待たず!」と言って生まれた笑いは本当に「家族」のものに見えたのだった。感激した。もちろんその後、猿渡家は形を大きく変えることになるのだが、それもまた「家族」の必然である。

さて、家族が可塑的な概念だということを踏まえて、マルチスピーシーズの話をしよう。


マルチスピーシーズ

本公演のフライヤーには以下のような文言が書かれている。

モグっと頬張る口からモゴっと漏れ出す肉の声。
〈集団暴力シリーズ〉最終章は、
人新世における「家族」と「食」を巡る
マルチスピーシーズ演劇──

『MUMBLE─モグモグ・モゴモゴ─』フライヤーより

さて、家族とは訂正可能性の共同体だとすれば、さまざまな共同体を家族の名において呼ぶことができる。そして訂正可能性が低く、強度の高い共同体こそがしばしば類や種という名で呼ばれたりするのだろう。ヒト然り、サル然り、である。だが、その境界もこの演劇ではいとも簡単に攪乱され、訂正される。マルチスピーシーズとは、今まで中心にいた人間(特に西洋、白人、男性)からすれば、人間の家族から離れ、他種の家族に入っていく過程であろう。

実際、チャーリーはイヌとヒトの境目を攪乱し、訂正している。また、猿渡家の血筋自体が、サルとヒトの相の子であるということから、サルとヒトの境界を訂正している。だから、マンフクを食べるというのは人間による人肉食であると同時に、サルによる人間への攻撃という側面も併せ持っている(サルが凶暴化しているという話があったね)。わたしたちは演劇として見ているから登場人物を勝手に人間として想像(創造)してしまうけれども、もしかしたら猿渡家の人々はもっと猿々しい姿をしているのかもしれない。人間という皮が、「わたしたち」の表現に用いられるのだとすれば、この演劇ははじめからもっと猿的なものかもしれない(キナコが「的な」という表現を繰り返し用いていたけれども、「的な」というのは、境界横断的なものを示すのにもってこいの表現である)。そして猟友会との敵対関係というのももしかしたらよりヒト対サルの様相を帯びていたのかもしれないし、猿渡ゲンが猿を乱獲したことで猟友会から目をつけられたのも、猿同士の抗争を諌めるためであったのかもしれない(と書いて、そろそろ深読みが過ぎる気もしてきているが、わたしももう境界の定かならぬ方へと導かれつつある……)。

あるいはミチという登場人物。彼女にとってはすべての生物がひとつの家族のもとに包含されるのだろう。むしろ、生物種の間の違いよりも、友達か友達でないか、という違いの方が優先されていると言える(寅丸に「俺って……ヒトですか?」と問われたときに「わかんない、だってみっちゃんにとって全部同じだから」と答えているが、一方で、カラスの團十郎が食べられるときに、友達の肉は食べないと発話している)。ミチは舞台上ではすでに左脳という論理的に世界を把握する部位に病気を持っていて、右脳中心で生きているために動物と会話できるようになっている。極めて応答的で動物と交流することができるが、それだけではなく、目から血を流すカイトにも身体レベルで同調してしまう。一時的とはいえリズムゲームで元気が出るのも、その音楽的な流れに応える力があってこそだし、いわばミチは大きな生命の流れの「通り道」のようである。

他にも、飢えという必要性から来るものの、人間にとっての食べられるもの/食べられないものという領域を横断していくシーンがある。ジョージは脚の傷口に湧いた蛆虫を食べる。死スレスレまで飢えているジョージはもはや、蛆虫に食べ残された残余として存在しているかのようだ。

除雪機のところで死んでいたマンフク(その死の経緯は最後まで明かされない)は、最終的には同族たる民宿シャングリ=ラの人々(あるいは猿々?)に食べられる(食べたいものの名前を言うゲームで、自然と皆が「マンフク」の名を斉唱するようになるところは、集団的無意識の表現として見事である)。人が人を食うこと、これは人間にとっては大きな侵犯であるが、そこに至るまでの倫理と生理の葛藤(どちらも結局のところ「理」であるという点に注意)の描かれ方も素晴らしかった。マンフクは疎まれている人物であったが、そのためにジョージは寅丸に「ほんとは食いたくてしょうがないんじゃないですか〜?」と煽られている。ここの「食う」は単なる食欲だけではなくて、目の上のたんこぶで散々いじめてきたやつを本当に「食って」やりたいという攻撃性を垣間見させる部分である。だがもちろんマンフクのことも食べきることはできない。骨まで消してしまうことはできないし、なによりマンフクの毛皮が見つかってしまって、最後チャーリーは猟友会に謝罪をしに行くことになる。

今回ヒトとして食べられる位置にいたのはマンフクだけであったが、それ以外の「身内」を食べるかどうかというような葛藤についても観られたらよかったと思う。また、マンフクを食べた翌日には晴天が訪れて閉鎖的な状況は終わるが、ヒトを食べてしまったあとに人間はどうなってしまうのかといったところについても観られたらよかった。


まとめ

本作では、食を通じて「人間」(もうこの「人間」は括弧付きのものでしかないが)が他種との絡み合いに飲まれていく。そして、観客たるわたしも実際に漂ってくるカレーの香りを嗅いでは、演者たちと同様空腹を感じ、飲まれていった(それが「カラスのカレー」であっても、「ヒトのカレー」であっても!)。

この感想文では、演出や演技について述べることがほとんどなかったが、それはそこに違和感を感じないほどにこの作品に観入って魅入られていたからであり、列挙することができないほどに、各所各所で素晴らしいと感じる部分があった。たとえば配布された「民宿シャングリ=ラ 館内案内&観光マップ」を見ると、舞台設定が舞台上だけではなくて、見えない部分や、この民宿を含む村にまで広がっていることがわかる。また、客席側をテレビ(があるという設定)にし、客席から舞台に向かって正面奥側を玄関とすることで、実際よりも奥行きを感じさせるという配置も素晴らしい。障子というのはその向こう側を絶妙に予感させるメディアであるが、この先にはどんな寒々しい風景が広がっているのだろうかと想像を掻き立てられた。舞台の作りこみは本当に細かくて、演じられている世界へと跳躍する必要性がないほどだった。チャーリーによる冒頭の劇世界への導入も見事で、一度のめりこんだら最後、2時間20分という時間を気にすることは一度もなく、この世界と登場人物たちにひたっていた。

今作を観て、「人間」という文字の成り立ちに思いを致した。人間は、人の間にいるから人間であれるけれども、違うものの間に立てばあるいは寝転がれば、案外すぐに「人間」の皮を脱ぐことができるかもしれないと思う。そしてそれを阻んでいるのもまた「ちっぽけなもの」かもしれない。人の間に立つのは一人でできることではない。あくまで複数で生成することだろう。それは新しい共同体の地平を切り開くことにつながるはずだ。「連帯」という言葉は随分と人間じみているが、新しい「家族」を他種と絡まり合うような形で、模索することができないだろうか、とそんな気持ちになっている。そして、誰かを、何かを、食べないでは生きられないわたしたちにとって、「食」は他者との交流の最も基本的な営みである。食べること、食べられること、食べ残すこと、食べ残されることを通じて、わたしは「家族」を更新し、訂正していくことができる。今回『MUMBLE─モグモグ・モゴモゴ─』を観ることができたことをうれしく思うし、劇団不労社さんのこれからの活動も楽しみにしている。

ミチは新たな命を宿し、劇の最後ではその子が産まれているが、それはヒトでもサルでもあるところの、未だ見ぬ新たな生命の到来であるだろう。新たな共同体が、新たな家族が始まる期待を抱きながら、筆を擱こうと思う。


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