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【エッセイ】バーチャル・リアリティがある日常①

僕の日常にバーチャル・リアリティが溶け込んできたのはいつからだろう。

2022年には、「メタバース週100時間男」とか「メタバースで生きる」とかメディアにも取り上げられ、名実ともに「バーチャル・リアリティに生活のすべてを捧げる奇人」となっていた僕だが、それまでは特段ガジェットに興味があるわけでもなければ、ゲーマーというわけでもなかった。

しかし、いまやバーチャル・リアリティのない日常なんて考えられない。それほどまでに、普段の生活に溶け込んでいる。VR空間に出かけて、オンラインの友達と時間を過ごす。部屋の中にいながら、何百、何千もの人たちと繋がりを持ち、会って、集まって、遊ぶ。

まだ接点がない人にとって、そんな日常はSFごとだと思うかもしれない。けれど、僕にとってはそれこそが生活の大事を占める日常だ。

僕が普段過ごすVR空間「VRChat」でのフレンドの人数。たくさんの繋がりがここにある

これから、週に一度ほどのペースで、この「バーチャル・リアリティがある日常」というテーマでエッセイを書いてみたいと思う。まずは、昔話から。僕の日常が、「バーチャル・リアリティのある日常」へと変わっていった経緯をいま一度書き綴っておきたい。

その日、僕の世界に「バーチャル・リアリティ」が現れた

はじめて、『ソードアート・オンライン』を見て、ちょっと先の未来に実現されるフルダイブ型VRという設定に心が踊った13歳のとき。はじめて、『さくら荘のペットな彼女』を見てそこに出てくるAI・メイドちゃんの実現を願った12歳のとき。あれからたった10年と少しだけど、その未来はずいぶんと近くに感じられるようになった気がする。

2016年。巷では「VR元年」と叫ばれたその年に僕は初めてバーチャル・リアリティを体験した。

きっかけは、当時週末の楽しみとしていた秋葉原散策をしていた際に、たまたま「G-tune:Garage」の前を通ったことだった。

「Oculus Rift体験コーナー」がそこにあった。
「日本初上陸」の触れ込みと一緒に「『Oculus Rift』製品版 体験できます」の文字。「あの、SAOとかで聞くVRがもう店頭に並んでるの?」驚いた僕は、吸い込まれるように椅子に座った。体験したのは、ジェットコースターのデモアプリだった。

当時体験したデモアプリ「UnityCoaster2-UrbanCoaster-」

衝撃が走った。
外してから少ししても現実感が薄いような気がした。今いるこの世界がバーチャル・リアリティでないと、どうして言えるんだろうか。秋葉原の歩行者天国へ歩き出して、「現実ってなんだろう」と呟く。リアリティの只中にもうひとつの実質的なリアリティを生み出してしまう感覚に驚いた。

それから、僕の週末の楽しみだった「秋葉原の散策」に「G−TuneでOculusを体験する」が加わった。当時のモデルコースだった。ジェットコースターのデモアプリは10回は体験しただろう。季節は秋に移り、少し冷たい風が肌に当たる感覚が、ジェットコースターで感じる風圧のように感じられて、自分は本当に高速で乱高下しているんじゃないかと錯覚させる。当時のOculus Riftの解像度を考えると、スクリーンドア効果(※)はまだまだ強かった。ただ、そんなドットの網目感は問題にならないほど、その没入感に魅せられた。

(※)スクリーンドア効果は、VRゴーグルを被った際にディスプレイのドット目が見えてしまう現象のこと。最近のVRゴーグルではかなり軽減されている。

当時はまだ、ゲーミングPCも持っていなければ、「Oculus Rift」を買うお金もなかった。そもそも、私は「ゲーム」をほとんどやらない。PCゲームは未だ触れたことがないし、「ゲーミングPC」というのもどこか遠くの存在のように感じていた。週末に店頭で体験する、くらいで十分満足していて「いざ手に入れてみよう」という気にはならなかった覚えがある。

なにより、その後すぐに留学の予定があった。僕のVR体験は、飛行機に乗って9346km離れた異国で過ごすため、そこで一度打ち切りとなった。

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