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超越論的信仰に関する手立て:或いは私版「宗教とは何か」

「いま・ここ」という言い回しにはすべてが詰まっている。
「いま」というのは、現在のこと。「ここ」というのは、まさにいま、存在している場所のことを指す。人間存在とは「いま・ここ」に始まり、「いま・ここ」に終わる。

この、単純で素朴な言い回しである「いま・ここ」であるが、これを真に正面から扱おうとすると大きな困難を伴う。

「いまここ」は常に「いまここだった」へ滑り落ちていくからだ。

つまり、「いま・ここに在る」と自覚した途端に、それは知覚→認識という過程を経て、「そのように認識された過去の出来事」へと滑り落ちていく。「いま・ここ」は最も素朴なようでいて、もっとも形而上的な概念でもある。そして、「いま・ここ」の問題を巡り、「宗教とは何か」について語っていこうというのが本文の趣旨だ。


「いま・ここ」がオメガでありアルファである

「いま・ここ」は常に「『いま・ここ』だった」へ滑り落ちていく。これは、自然数に常に「ひとつ前(あるいは、ひとつ次)」があると同様に、理論上、無際限に続いていき、アキレスと亀よろしく、どれだけ精緻に操作を繰り返しても、「いま・ここ」に漸近することはあれど、完全に同化することはない。

呪術廻戦

同時に、「いま・ここ」は、内面世界も外面世界もあらゆる森羅万象が〈私〉に向かい生起する場である。「いま・ここ」はすべての根であり、永遠の一瞬である。

フラッドのセフィロト

このような性質を持つ「いま・ここ」は、それを直接経験した途端に、「『いま・ここ』だった」記憶へと質的変容を起こす。この過程において、かつて「いまここ」だった永遠の一瞬は、処理できる情報へと加工される。つまり、判断を伴う認識により概念化される。

「いま・ここ」は、原理的に不可知である。我々は、感受性を豊かにすることで、その一端に少しだけ触れることができる。そこに全体性への直観、つまり大局観が芽生える。そこに真・善・美の一端を垣間見ることができる。

「いま・ここ」が持つ矛盾的性質と、それを統合する西田幾多郎の「純粋経験」

おそらく、ここで最大の疑問点として上がることが、「いま・ここ」の不可知性と経験性という二つの側面に生じる矛盾状態ということになる。これは、超越論が常に抱える矛盾点であり、課題となる。

ここに対して、重要な示唆を行ったのが京都学派および西田幾多郎による議論だと思う。以下、私なりの解釈を述べる。

西田幾多郎が愛好した「哲学の道」

西田は、この矛盾を「純粋経験」という概念を通じて克服した。簡単に言えば、「不可知性」と「(純粋)経験性」を、別の角度から見た同一の事態とすることで矛盾を克服したということだ。

西田によると「純粋経験」とは、あらゆる認識が生じる以前に存在する直接的な経験を指す。これは、カント以来の西洋哲学に見られる認識の枠組みを参照しているものである。カントは「ものそれ自体」を人間が経験することはできないとしたが、西田がここで俎上に上げている段階は「経験それ自体」といえる。

彼にとっての「純粋経験」とは、意識が分裂する以前の、対象を対象として認識する以前の、主客未分状態に現れる経験である。この状態では、経験はそのままの形であり、何らかの概念や言語が生じる以前となる。そして、このような「(純粋)経験」は、「即時性」と「非概念性」という二つの重要な性質を持つ。

「いまここに在る」ということは、まさにこの「純粋経験が起こる場」を指している。そしてこれは、「現に経験されている(経験性)」が、同時に「それを認識することはできない、あるいは認識した途端に即時性が失われ質的変容を起こす(不可知性)」。

このようにして、「経験できるが、不可知である」という一見すると矛盾に満ちた状態が、同じ事態を二つの角度から見ているだけのことに過ぎず、相互に矛盾していないことが証明できる。

そして、このような「いまここの経験(=純粋経験)」は本質的に超越であり、それを承認する事態は「信仰」としか言い表せないのである。

超越論的信仰が自信の歩む道に確信を持たせる

以上のように、「いま・ここ」を巡る認識の問題から、西田幾多郎の議論を参照し、その一見すると矛盾に見える「不可知性」と「経験性」という二つの側面を統合してきた。このようにして示される超越を承認する認識の仕方を「超越論的信仰」と呼ぼう。次に、このような超越論的認識論の思索の極致に現れる「超越論的信仰」は、我々の日常経験や日常判断にどのように示唆するのだろうか。

私は、この「超越論的信仰論」が土台となり、そこからの相似や演繹によって、道徳的啓示の源泉や、日常的なあらゆる場面における道徳的判断の指針や、善く生きるための拠り所にすることができると考える。

クロード・モネ『睡蓮』

この「超越論的信仰」が示す認識とはどのような認識だろうか。それは、「いま・ここ」という唯一の正しい認識に端を発し、ひとつひとつ思索を進めていって得られた確信である。自己の認識と真正面から向き合って得られた内省的実証の賜物である。そして、これが示す態度は「経験のありのままを捉えようとする姿勢」、つまり「世界への開かれた態度」である。ここで指す「世界」とは、経験の前に現れる森羅万象を指す。つまり、それが例え、植物であっても、人工物であっても、地球であっても、宇宙であっても、友人であっても、他人であっても、動物であっても、人間であっても、経験するすべてのものに対する「開かれた態度」である。

自身の感情すらもを「経験」として、ありのままに生まれては消えていく姿を観察するという態度は、アンガーマネジメント的であるともいえるし、禅宗の目指す涅槃であるともいえる。そのような、徹底した受容の態度から現れる心情はアガペー(無条件の愛)であり、それから発せられる行動は慈愛であるとともに友愛(フラタニティ)である。徹底した受容的態度は、その者に内的平和をもたらし、徹底した内的平和から生み出される外界への作用は、自然調和的なものとなる。

こうした「徹底した受容的態度」は、古今東西の宗教的教訓の中で繰り返し語られる理想像だが、超越論的信仰は「なぜそのようなことが理想なのか」を理解し、内面化する拠り所となる。

当然、これをあらゆる場面で内面化し、実践するには、相応の修練が必要だ。しかし、「たどり着くべき場所」と「なぜそこがたどり着くべき場所なのか」を理解していれば、軌道修正もその分容易だし、何より、「自身の進んでいる道」に対する確信を得られる。「自身の進んでいる道」に確信を与えるのは、常に信仰だ。信じる者は救われるのだ。そして、信じるためには徹底して疑わなければならない。その疑いに対して、超越的に信頼を置くまでたどり着いたとき、それは信仰へと昇華する。

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