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「知識」と「知覚」、「心身問題」。

はじめに。


久しぶりにnoteを投稿。
前回の投稿は昨年12月だったので3ヶ月ぶりくらいの投稿になる。

11月に前職を退職したことは私にとって大きな転換点だったと今も感じる。
3行前まではこのことを書く気は全くなかったのだが、初文にこのことを書いていることは私自身も驚きを隠せないながらも現在は充実した生活をしている。

「心身問題」とは。


私の人生の最も関心のある問題は、ドゥルーズ/ガタリに代表される「心身問題」であることがちらほら分かってきた。
私が書籍を読み始めたのは大学3年生の時。
書籍を読むことは、日々の生活を充実したものにしてくれる事を常に感じている。
何かを伝える時、伝えたいことの厚みや深みが変わってくる。伝えたいことの深みがある事はコミュニケーションや雑談においても、全ての場面で役に立つし、社会活動において、自主性や視野を開発する際に重要な役割を担ってくれる。
書籍は、私よりはるかに頭のいい人が、時間をかけて整理してくれた事を教えてくれるし、視野を養ったり、どのような場面でも行動するにおいてとても重要なヒントを与えてくれる。
1番の効用は「私が知らないことがある」ことを教えてくれることだ。
どのような場面でも常に、「私の視点以上のものが私の目の前にはある」ことを意識して常に考え、行動するようになる。
すると謙虚になれるし(常に謙虚になるのは難しいのだが…)、常に向上しようという心持ちになる。そうは言っても、環境や周りの人とのコミュニケーションが合う合わないの問題はあり、これは誰しも抱える問題だと思う。

「私」の生きる場所。


私の場合は最近気がついたのだが、周囲の関わる人や働く環境、住む土地は思ったよりも体と心に直接の影響が出る。前職、私と相性(生まれた星の近さとでも言うべきか、波動の共鳴とも言うべきか)の良い人が少なかった。誰が悪いとかではなくて、一緒に過ごせる人過ごせない人がいるというは、本当だと思う。
それは、感じる楽しさや人生の幸福度に直結すると思うし、素直にアドバイスを受け入れられるかどうかというところなど、自己の成長にも直結するし、逆にリラックスできるかどうかにも大きく影響していると思う。

昨年の4月〜11月までは東京に住んでいた。
住居を決めたのは2月だったと思うが、東京の土地勘が全くわからなかったので、賃貸会社に勧められたまま目黒区に住んでいた。
九州から引っ越したので、Zoomミーティングの折、「東京のどこに引っ越したの」と聞かれて「目黒です」と答えると「リッチなところだね!」と言われ、そうなのかと思ったのは今でも印象に残っている。
家賃が高いと思っていたが、リッチなところだったのか…
しかし東京の土地は私には合わなかった。比較的空間にも住んでいる人にも余裕のあるであろう目黒区ですら私には合わなかったのである。
特別、満員電車が苦手とか、人混みが苦手とかそういう意識はないのだが、今住んでいる仙台に比べたら住みやすさは仙台の方が格段にいい。
都会に住むにはお金がいるのだ…

そうはいっても、お金があっても私に合う職場があったとしても正直もう東京に住みたいとは思わない。ありふれる広告、疲弊した人の空気感、何もかもカオスなところだった。それはそれで楽しい側面があった気もしたのだが仙台に住んでいる方がよほどいい。都会の人工的に作られた街の感じや、どこに行ってもアウェー感。
あれは田舎出身の私にとってはきついものがあった。
一方で仙台はやはり地方都市。博多に近い感じということもあって、でかいイオン、人の集中する仙台駅、少し離れれば松山があったり(松山に一度行っただけで他の場所には行けていない)、住宅街にあるコンビニひとつとっても仙台にある方がなぜか好きだ。なぜだかはわからないが。

東京にいれば、やはり自分自身がマジョリティになる感じがするというのもあるし、見ているだけでもお金持ってる人だの仕事できそうな人だの私にとっては疲弊する競争をしている人たちに見えて仕方なかった。コンプレックスというわけではないが、疲れる環境だった。仙台最高。東京と大阪を除いて、京都や仙台、博多、札幌にそれぞれ拠点を置きたいくらいには地方都市を巡りたい。そんな仕事の仕方ができれば最高だなと思う今日である。

「心身問題」に戻ろう。


ところで、「心身問題」から始まったのに私の身の上話になってしまった読者の方がいたら申し訳ない。ここから心身問題の話に戻そう。

今考えれば私が心身問題に気がついたの小学校5年生くらいの時。
私は「テニスプレイヤー」だったので(プロを目指して練習したり大会にでたりしていた)毎日練習していた。テニス雑誌を見ることも多かったし、当時流行したテニス漫画、「ベイビーステップ」は懐かしい。そこにある情報や知識を常に練習の場で発揮することは練習の質を高めて大会で結果を残すためにとても重要な事だった。テニスのフォームの綺麗さは何度も褒められた事があるしブランクを経て現在に至るまででも人に指導ができるくらいには知識が身についているし身体性が脳に保存されている。
特に普段練習していなくても、1ヶ月くらい本気でやれば動きは戻らなくとも考え方やフォーム、打つことの体の使い方は再現することができる。
それは知識の話ではない。体の使い方であり体が動くかどうかの問題だ。

受験勉強で覚えた知識はまあまあ忘れていることが多いし、もう1度センター試験を解いて当時の点数に戻すことは簡単ではない気がする。(もしかしたら1月くらい勉強し直せば点数は戻るのかもしれないが)

つまりは、「知識」と「行動」の連なりにはあまり関係がないのかもしれないという事だ。普通は、「知識があれば行動できる」という考え方がメジャーなのかもしれないが、それならビルゲイツのビジネス書を読んでマイクロソフトが作れるだろうかという話だし、テニスの打ち方の知識を身につけたからといって次の日からラリーができるようになる訳はない。そのことに疑問を抱きながら当時小学5年生の私は練習しながらも疑問に感じていたのである。

そのことは不思議だなと思いながら追求することはあまりなかった。しかし最近、書籍を読むようになってから明らかに関心がそこにあることが可視化された。購入する書籍の種類がドゥルーズ/ガタリばっかりだし浅田彰やそれを特書籍が多いのだ。
この問題を考えない人というのはどのように生きているのか全く想像がつかない。マトリックスの世界とまでは言わないけれども、私が見ているものと私が思い出す知識というものは基本的にあまり関係がないはずなのである。「白い」「キーボード」「静電容量無接点方式」というのは私の大好きなHHKBであってそれに関連する知識はたくさん思い浮かべられるのだが、私がどれほど早く正確に文字入力を行えるかどうかというのには関係がないのだ。しかし知識があるからといって常に実行できるとは限らないし、そう考えるとマトリックスな世界ー目の前の認識と自信に起こっている現象とその実行ーとの関係を考えることができるし、その問題を考えれば常にインターフェース(道具)と私への間にワンクッション挟むように考えることができる。私の考えるところでは、何かを行おうとした時に、それが知識としてワンクッション挟まれ、それを身体感覚で再現できる形で実行するというのが普段の口上なのだが、そのことをあまり考える人はいなさそうだ。

「知識」と「知覚」


だから私がよく陥るのは、知識が欠けているから相手との間に意識の齟齬があったり、感覚に落としてから知識に保管する手順を無意識に説明する、というやり方である。その際には知識の検証が必要だし、感覚の点検と確認、正しい知識と身体感覚の整合性を考えることが必要になる。「知識」と「知覚」、「覚える」と「わかる」、「知っている」と「できる」との間の差がなければないほど何をするにも良いと考えるし、他者に説明するときにも重要なポイントだと考える。

よくあるのは、「知識」として何かをまとめた書籍や、「知っていること」が気持ちいと思う人はたくさんいると思うのだが、私の場合はどのような書籍においても身体性や知覚を感じて読んでいるのでもしかしたら人より疲れることがあるのかもと思ったり、美術館に行ったときも人の2倍は疲弊している。絵の情報を読み取るときに全身で読み取っているのかもしれない。美術館で疲れる原因がそれとは限らないけれども、書籍然り美術館然りそう感じることが多い。逆にそれ以外にどのようにして書籍や美術館や仕事においても情報を扱うことができるのか全くわからないし、それがないのに時間をどのようにして充実させることができるのか想像もつかない。(逆にそうしたところに気が付かない人の人生…と思うことさえある)

「心身問題」と「スポーツ」


テニスを経験できたことは常に大きな経験だったなと思うことがよくある。スポーツは脳をフロー状態においてプレーすることが良いパフォーマンスを発揮する際にはとても重要だし、プロを目指すレベルでは必須とすら言える。そこに気がつくことができたということは、仕事においても書籍においてもコミュニケーションにおいても全て共通項として見ることができるのだが、やはりテニスは体を動かしてボールを打つことに快感を覚えることができるが、仕事ならパワポやエクセルを使うことがそれに当たる。今考えればテニスには思い出補正がかかっているから常に楽しいと思えているが、当時は楽しいばかりではなかったことも思い出す。常に上手く打てるとは限らないし、試合にも負けた回数の方が多いだろう。その中でも成長を感じたりコミュニケーションをとることができていた事は本当に幸運なことだが、パワポやエクセルのパソコンを使った仕事でもそうした苦労はある程度必要だと思っている。一見無意味そうなテキストボックスの1ミリを動かすことが細かいテニスの動きと同じなのだと考えれば、それはそれで楽しいとも言える。

問題なのは、テニスは打つこと自体が楽しいし、体を動かす効用もあるのだが、テキストボックスを1ミリ動かすことにどのような効用を見出すことができるか、どのような影響がその納品物にあるのかを見出すことは難しい。(テニスと比較して)それがわかればどのような仕事でも楽しくなるだろうし、今はテニス以上に納品物を緻密に作成することのほうが後々得られる快感が大きいと理解している部分もある。そうは言っても毎日の苦労はあるのだ…。

「心身問題」を説明したり、解説することはとても難解で、まだまだ整理が必要だし足りない情報も多いのだが、(現在読んでいる書籍は 西川アサキ著「魂のレイヤー」 難しいが大変面白い)知識と知覚の関係、構造的カップリングを考える時、それはタバコを吸うことに似ている感じがする。タバコに火をつけて煙を吸うわけだが、タバコの形から煙と灰に分裂する。知識の情報が粒子のレベルで分解されて私に入ってくることと、全ては捉えきれないというところがとても近いインスピレーションを与えてくれるし、残った灰はなんだか製作している納品物のように思えてくる。私がタバコが好きというのは置いておいて、そのプロセスが近い感じがするのだ。

書籍と戯れる。


ところで、2年ほど本格的に書籍を読み始めたところ、情報のことばかり考え、情報を身体に落とし込むことばかり考えていたのだが、最近は書籍のマテリアリティを楽しむ余裕も出てきたし、書籍の内容を編集しながら読むことが必要だと感じるようにもなってきた。Kindleは一旦置いておいて、書籍は紙に文字が書いてある言語活動であることは言うまでもないが、その言語がどのような紙に書かれているのか、どのような表紙でどのようなカバーなのか。カバーのデザインは?レイアウトは?意味は?など考えることが増えた。私の持つ書籍は文庫本、ハードカバーの厚めの本とボロボロになった古書本が多いのだが、そのマテリアリティによっても得られる情報は違うのだろうなということを感じる。

新書ばかりだとなんだか落ち着かないし、ボロボロになった本は繊維が落ちてくる。マテリアルとしての書籍の幅がどのように私に影響しているのかを考えるのは別の機会に譲るとしても、年代によっても表現方法は全く違うだろう。新書の方が私には馴染みがないので(1900年〜2023年まで書籍を所有しているので幅広い)、その多様性にも何か影響を受けていることだろう。時代を跨いだ言語の様態を見ることができるし、やっぱり現代に発刊されている書籍はなんだか情報の厚みをあまり感じない。私は生まれて23年が経過したばかりだが、心身問題はプラトンの時代から議論されている。書籍の持つ記憶の方が私よりも遥かに厚みも深みもあるわけで、その歴史に学ぶことができるのはとても幸運なことだと思う。

おわりに。


これからも私は何をするにしても「知識」と「知覚」の問題を考えるだろうし、しばらくはドゥルーズとガタリから離れられそうにもない。そうしたなか納品物を作れることを幸運に思うし、それで生きていければなあと思う。心身問題を解決したいというよりは、心身問題の解決アプローチを使って現実に再現したいというのが私の関心のあるところであるのでますますこれからも混迷を極めながら過ごすことになると思うが、心身問題を考える人が増えれば私の友人が増えると言っても過言ではない。ぜひ、あなたも眼前に広がる世界が、思った以上に複雑であることを知って欲しいと思うのだった。

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