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法華経の風景 #4 「鎌倉」 宍戸清孝・菅井理恵

ヘッダー写真:鶴岡八幡宮

 写真家・宍戸清孝ししどきよたかとライター・菅井理恵すがいりえが日本各地の法華経ほけきょうにゆかりのある土地を巡る連載。第4回は鎌倉を訪れた。


 家並みの脇を流れる用水路に、2羽のカモがいた。川面は緑がかっていて綺麗とは言い難い。それでも、カモは憑かれたように無心で何かを食んでいた。

 1256年の秋頃、30代半ばの日蓮にちれんは、鎌倉・名越なごえ松葉ヶ谷まつばがやつという地域に草庵を構えた。翌年8月、この地を正嘉しょうかの大地震が襲う。神社・仏閣で無事なものはひとつもなく、山は崩れ、家々は倒壊し、地面が裂け、水が湧きだした。そこに数年に渡る大凶作が追い打ちをかける。名越には貧しい人々が多く暮らしていた。

「牛馬は路上に倒れ伏し、人の屍と骨は道にあふれている。命を失ったものはすでに大半に及び、この惨状を悲しまない者はだれひとりとしていない」(『日蓮「立正安国論」全訳注』佐藤弘夫)

 その凄まじい死臭は日蓮に絡みつき、脳裏の奥深くまで刻まれた。

名越

 緑の中をナイフで切り取られたような細い道が通る。南を海に面し、三方を山に囲まれた鎌倉。幕府の隆盛と共に人や物の往来が盛んになると、「切通きりどおし」と呼ばれる道が整備された。松葉ヶ谷の草庵は、「名越の切通し」から歩いて10分ほどの場所にあったと考えられている。

 日蓮が本格的な布教を始めた頃、鎌倉では法然ほうねんの「専修念仏せんじゅねんぶつ」が急激に広がっていた。他の一切の修行を捨て、ただひたすら「南無阿弥陀仏なむあみだぶつ」と唱えれば、誰もが往生できる。分かりやすい教えは庶民の人気を集め、次第に幕府の要人にも浸透していた。

 1260年7月、日蓮は幕府の有力者を介して、北条時頼ほうじょうときよりに『立正安国論』を提出する。正法である妙法蓮華経みょうほうれんげきょう(法華経)を信じず、悪法に頼れば、自界叛逆難じかいほんぎゃくなん(内乱)や他国侵逼難たこくしんぴつなん(侵略)などが起こるだろう。

 為政者の務めとは、人々が「この世」で幸福になれる社会を実現すること。現実世界で苦しむ人々に目を背け、「あの世」に救済を求めるとは何事か。伝統仏教をないがしろにする「専修念仏」は、仏教の基盤を揺るがす危機そのもの。そう確信する日蓮の心には、常に名越の人々の苦しみがあった。

名越の切通し

 鳥居の向こうの階段を上ると、石造りの層塔があった。わずかな平場は木々に囲まれて湿気が籠り、気づけば蚊が腕や足に止まって血を吸っている。ここは源頼朝みなもとのよりともの墓の跡。頼朝は持仏堂じぶつどう(※ 後の法華堂)に小さな観音像を安置し、法華経を篤く信仰していた。

 日蓮が鎌倉に移り住んだ頃、幕府の実権を握っていたのは北条時頼だった。1246年、時頼は兄の死に伴い、若干20歳で第5代執権に就任する。自らの地位を固めるため、次々と反対勢力を粛清。三浦泰村みうらやすむらとその一族500人余りは、時頼との戦いの末、法華堂で自害している。

 かつて桓武かんむ天皇が最澄さいちょうに救いを求めたように、血の道を歩く時頼もまた、様々な宗教の門を叩いた。21歳の時に禅僧・道元どうげんを鎌倉に招いたことは有名だが、実は『立正安国論』が提出される前、時頼が日蓮と面談した可能性も示唆されている。

法華堂跡(源頼朝墓)

 日蓮は夢を見ていた。時頼は宗教政策を転換するに違いない。「南無阿弥陀仏」ではなく「南無妙法蓮華経なんみょうほうれんげきょう」と唱える人々の声が街なかに響き渡れば、釈迦の教えが力を失う「末法まっぽう」の時代にあっても、善神が再び国土や人々を守ってくれるはずだ――。

 しかし、幕府は黙殺した。「専修念仏」の信仰者が幕府の中枢にまで広がるなか、完全に排除すれば、どれほどのハレーションが起きるか、分からない。黙殺にとどめたことは、日蓮をおもんぱかりながら、幕府内の安定を保とうとする時頼の高度な政治判断だったのかもしれない。

『立正安国論』の提出から1ヵ月後、日蓮は念仏者に草庵を焼き討ちされた。さらに翌年、幕府によって伊豆に流罪るざいされている。許されたのは、約2年後。日蓮は後年、「讒言ざんげんによって罪を着せられたが、時頼の計らいで許された」と記している。

 その年の冬、時頼は37歳で世を去った。「この世」は内憂外患ないゆうがいかんが絶えず、目の前には相も変わらず苦しむ人々がいる。焦燥感に駆られた日蓮は他宗批判を強める。しかし、そうすればするほど幕府からは疎まれ、日蓮の孤独は深くなっていくのだった。

下馬

 1271年9月、ついに日蓮は平頼綱たいらのよりつなに逮捕され、佐渡流罪を宣告される。しかし、夜になると馬に乗せられた。西に向かう馬上で、自分が斬首されることを覚る。

 やがて、鶴岡八幡宮つるおかはちまんぐうの参道である若宮大路わかみやおおじに差し掛かると、馬を下り、暗闇の先の八幡宮に向かって声を張り上げた。兵士が持つ松明の灯だけが、おぼろに顔を照らし出す。

「日蓮が今夜、首を斬られて霊山浄土に行った時には、まず天照大神あまてらすおおみかみ八幡神やはたのかみのことを、法華経の行者を守護するという誓願を破った神であると、教主釈尊に申し上げるぞ」

 なぜ八幡神は法華経の行者ぎょうじゃ(法華経の教えを守り実践する人)である私を守ろうとしないのか! 怒りは空気を伝って若宮大路を駆けていく。その場所は、現在の「下馬げば」の交差点付近だと言われる。距離にして約1キロメートル。陽の光のもとでさえ、八幡宮を視界に捉えることはできなかった。

 再び、馬に乗せられた日蓮は、たつくちに着くと、首の座に据えられた。やがて、正座し、題目を唱え始める。そして、処刑役が刀を抜き、まさに斬首が行われようとした瞬間、江の島の上空に「光りもの」が現れた――。彗星か、後世の作り話か。確かなことは分からない。

 ただ、確かに処刑は中止され、日蓮は自らの天命を深く強く認識するようになる。

江の島

 1279年、59歳の日蓮は、身延みのぶ(現在の山梨県)で暮らしていた。その年、法華信徒の農民20人が「刈田狼藉かりたろうぜき(他人の田畑の作物を刈り取り奪うこと)」の疑いで鎌倉幕府に逮捕される。農民たちを鎌倉で取り調べたのは、日蓮を竜の口で斬首しようとした平頼綱だった。「罪を認めて念仏を唱えれば許してやろう」と甘い言葉を囁くが、農民たちはなびかない。それどころか、一斉に「南妙法蓮華経」と題目を唱え始めた。

 後日、この出来事を伝え聞いた日蓮は、農民たちの姿に自らの来し方を重ねた。法華経の前では、性別や身分の差は関係ない。大事なのは正しい信仰を貫くことだけ。

 尊敬を込めて、日蓮は彼らを「法華経の行者」と呼んだ。

鶴岡八幡宮


〈次回は8月28日(月)公開予定〉


【脚注】
※「持仏堂」とは、自分の信仰する仏像や祖先の位牌を安置する建物のこと。

【参考文献】
佐藤弘夫『ミネルヴァ日本評伝選 日蓮』(ミネルヴァ書房)
佐藤弘夫・小林正博・小島信泰『日蓮大聖人の思想と生涯』(第三文明社)


宍戸清孝(ししど・きよたか)
1954年、宮城県仙台市生まれ。1980年に渡米、ドキュメンタリーフォトを学ぶ。1986年、宍戸清孝写真事務所を開設。1993年よりカンボジアや日系二世のドキュメンタリーを中心に写真展を開催。2004年、日系二世を取材した「21世紀への帰還IV」で伊奈信男賞受賞。2005年、宮城県芸術選奨受賞。2020年、宮城県教育文化功労賞受賞。著書に『Japと呼ばれて』(論創社)など。仙台市在住。

菅井理恵(すがい・りえ)
1979年、福島県喜多方市生まれ。筑波大学第二学群人間学類で心理学を専攻。2003年、日本放送協会に記者として入局し、帯広支局に赴任。2007年に退局し、写真家・宍戸清孝に師事する。2014年、菅井事務所を設立。宍戸とともに、国内外の戦跡や東日本大震災の被災地などを取材し、写真集・写真展の構成、原稿執筆などに関わる。情報誌や経済誌などで、主に人物ノンフィクション、エッセーなどを執筆。現在、仙台の情報誌『りらく』で、東北の戦争をテーマにした「蒼空の月」を連載中。

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