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ジャズの匂い

 キツい酒、キツい酒……。訳より先に酒が出る。疲労がぐっぽりと溜まり、身体中から赤黒い膿が滲み出ている。にゅる・にゅる・にゅる・と。決して、呑まなきゃやってやれないというわけではないんだ、と自分に向かって弁解する。ただ、このままではきっと眠れないだろうと思っただけさ。

 ERIC DOLPHYの『LAST DATE』をかける。いったいぜんたい、いつからこんなレコードが部屋に置かれていたのか思い出せない。僕は村上春樹に盲信し、ジャズという音楽を村上春樹というフィルターを通して盲信していた。CDでもレコードでも、とにかくジャズという音楽に何かを見いだそうとしていたのだ。1950年~1960年代に生まれていた発熱を。生きた情熱の記録を。彼らが紡ぎ出した風景を。確かにそれは初めての経験だった。思春期の自分が――人とは違う何かを求めていた自分をのめり込ませるには十分な音楽だった。

 しかし、人によっては聞いたことがあるかもしれない。人の趣味嗜好はほとんど高校生の時分には定まってしまう。人は小学五年生――中学二年生――高校二年生頃にはまっていた趣味を定期的に繰り返すらしい。それを聞いたとき、僕は腑に落ちると同時に、虚しさに襲われた。もしもそうであれば、それは僕の音楽ではない。僕はジャズを学ぶことができる。大人になって、CDやジャズ・レコードを買いそろえることはできる。でも、それは真の意味で僕の心を捉えることはないのではないか、と。実際、我が人生の意味とばかりにジャズの名盤を買いそろえてきたが、果たしてそれは本当に僕の血肉になっているのだろうか。僕は物欲を満たして満足しているだけじゃないか。ほら、この音――まるではじめて耳にしたみたいじゃないか。

 もちろん、ジャズを聴く理由なんて千差万別あっていい。にわかでもいいし、一枚でも生涯その胸に抱き続けられるような音楽があればそれで十分だ。真の親友は一人いればいい。それでも、僕がジャズに盲進し、ことあるごとに物欲を満たし続けてきた日々が、少し恥ずかしく思う。お前はそれ自体が楽しくなっていただけじゃないのか。持っていないものを見つけたときの高揚、自分の手に収まったときの満足感。お前はそれだけじゃないか。その音楽の価値も良さも、まるでわかっていないじゃないかと。

 偏屈だ。楽しさは人それぞれといっておきながら、やはり世間的な一般論が棘になって刺さる。世間、世間、世間……。僕は酒をあおる。世間が顔を出す限り、世の中から孤独な酒飲みは消えない。

 2曲目『SOUTH STREET EXIT』が終わって観客が拍手をする。当時の空気を吸ったものにしか分かち合えない共感を、いまの自分が同じだけ享受しようとしたって無駄なことはわかっている。しかし、もしも過去に戻れるなら、ジャズの巨人たちが子供たちの憧れになっていた時代に遡り、混沌と幻想にまみれたニューヨークの街角で、そうした空気を吸ってみたいと思う。そこにはいつも、誰かの嘔吐物と、鼠の死骸と、チーズの腐敗臭が混じっている。僕のイメージでは。


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