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不寛容な寛容社会。

ちょっと長いですが、非常に面白い記事です。
『なぜ人々はマスコミを叩くのか、平均すれば取材マナーは向上しているはずなのに…』という切り口です。

その正体は、『不寛容な寛容社会』であると、筆者は述べています。
以下、結論から抜粋。

「他人には干渉しない」という態度の広がりによって、私たちが暮らす社会はたしかに一面では寛容になってきた。
「人はいかに生きるべきか」について、以前と比べれば個々人の選択が尊重されるようになってきたことは確かである。
だが、「他人に干渉しない」ことが規範になったとき、他人に不愉快なかたちで干渉すること、つまり迷惑をかけることは規範からの重大な逸脱になる。そして、迷惑行為の定義が曖昧なことに加え、全体でみれば日本人のマナーが向上したことが、さまざまなところに「迷惑」が見いだされ、糾弾されるという状況を生んでいる。いわば、不寛容な寛容社会とでも呼ぶべき社会が生まれているのである。

『不寛容な寛容社会』。

本来の意味で『寛容』なのであれば、他人が何をしようが受け入れられるはず。
しかし、『他人に干渉しない≒他人に迷惑をかけない』ことで自分の身を守り続けてきた日本人。
「俺は迷惑かけないように色々気を使ってる。みんなそうするべきだ」と期待し、「こいつは平気で迷惑をかけてくる。何様?」と、『不寛容』さをむき出しにしてしまう。
『迷惑をかけない私』を作ることで、他人を経由して自己を確立しているのかなと。同調を求められる日本社会特有なのでしょうか。他国はどうなんだろう。

他人に期待するな
自分の常識と他人の常識は違うことを知れ
が、僕の元上司からの教えです。
他人に「こうあって欲しい」という期待が無ければ、何をされようが気にならない。だって、自分と他人の常識は違うのだから。違うことをされて当然。
Wordを使えない新入社員にも、「そんな常識も知らんのか!」でなく、「あ、君はそういう常識で生きてきたのね。これから頑張ろうね」となる。

他人に期待しなくなったら、他人に頼らずに"本当の自己"が見えてくるのでしょうか。そもそも自己がある人が、期待しなくても生きていけるのかもしれないですね。
そうありたいと思いますが、難しい。


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