69戦目 2009年9月20日

厳密ではない、いつかを目指してきました。
あるのかないのかわかりません。
でも、あると決めつけてそれを望みにして時間を重ねます。

もう15年も前のことになるのですね。
過去のブログに訂正追求して更新します。

「若返りたい」や、「過去に戻りたい」という願望をよく戯言で
皆さん口にしますが、それを耳にして知人であれば返します。
他人事の会話なら心で返します。
「自分はもう一度ここまで頑張るのは嫌だからやめておく。」

100戦することも99戦同じ階級ですることも52歳まで
続けることももう一度したくありません。
胸を張れる戦績ではないのかもしれません。
これは間違いなくいえますが、そういった選手生活でもないでしょう。
僕を否定しないと自らを肯定できない半端な輩がいるのでしょうが、
何某かを二理由をつけて放棄した輩はどうでもいいです。
でも、不細工であれ今の自分がいいのです。
ここまで歪な人生でしたがもう一度同じ道でここまで人生を
辿るのは勘弁願いたいところです。
あと1戦で階級を変えずに100戦になります。

キックボクシングを始めた中学生の頃、100戦を目論んでいました。
勿論、これまで記した通りこれまで実現出来た誰も想像できなかった
幾つかのことなども。
階級を上げずに100戦というのは無鉄砲極まりない
当時の自分でさえ思い描くことは出来なかったことなので、
過去の自分に胸を張るためにそこにはどうしても
到達したく思うのです。
もう1度100回減量するのはどれだけ辛いか知っているので
やりたくありません。
15歳から51歳まで100回減量してみてください。
理解出来ると思います。
16歳から階級を上げず99回落としてみてください。
大したことありません。
どなたにも出来ます。
あえてへりくだっているわけではありません。
誰にも出来ます。



21年前、もう、そんなになるのですね。
終わりかけの自分に最後になるだろう試合のつもりで
試合に向けて減量を始めました。
「アーシー、早く帰ってきてね。」
春日部市の駅について電話をすると5歳だった息子はぐずって
云いました。
春日部市のジムに行くとなると、昼過ぎに出て日付が変わる頃に
帰宅することになるので、その頃は息子とは顔も合わせることも
少なくなっていました。
でも、仕事をする父親なんてどこもそんなものです。

その数分後、交通事故に遭って何もなくなります。
そこからの数年間は、文庫用に追記した「ざまぁみろ!」に
記した通りです。
再起する前のアルバイト生活までで終わっているので、
ここから先は僕にとっての「ざまぁみろ!2」といった
ところでしょうか。
いつか、「2」を出せる時がきたらよいなと思うことは
あっても実現には至らないだろうと、その辺は冷静に思って
いました。
68戦で止まったそこから100戦まで32戦、38歳手前の
僕がそこからそれだけの回数試合出来るとも思っていません。
そして、それだけの回数減量するだなんて、まっぴら
だったからです。
「やる予定だったあと1回だけ、もしくはそこからもう1つ。」
再起が決まるまで、そんな願いも図図しく思える程でした。


再起戦が決まって、100戦には遠く及ばないけれど、
70戦なら届くかもしれない、そんな気持ちでした。

その後、歩んできた人生をもう一度歩みたくありません。
なので、ここからあとほんの少しだけ頑張れたらそこで
納得出来ます。

来世の話です。
「俺はさ、将来、」
ざわついた教室でみんなの前で胸を張って口を切ります。


話は、2009年に戻ります。


練習時間は少なければ1R、全くない時もありました。
アルンサックは、たまにミットを持ってくれます。
でも、もう厳しい要求をされることはありません。
寂しさと悔しさと、だけど現実を見ると受け入れるしか
ありませんでした。


その2年前から試合をしたいということは告げていました。
でも、彼は信じていなかったのかもしれません。


その年、4月辺りから少しずつ走り始めました。
練習の量も増やし始めました。
でも、まだミットを蹴る方ではなく持ちながらの合間の練習で、
量も内容も納得いくものではありませんでした。
5月から体重を落とし始めます。
モチベーションを保つため、自分の中で試合を7月に設定します。
でも、申し込んだけれど、自分の試合が決まることはありませんでした。


設定を9月に先送りしてモチベーションを保ち練習の密度を上げます。
7月に入った頃には、以前の減量中の体重まで落ちていました。
その7月、船橋から成田までジム生と45kmを走ります。
気持ちと下半身に自信が欲しかったのです。
完走して夕方、ジムでミットを蹴ります。
痛い。
おかしいことに気づいてはいたけれど誤魔化せると信じていました。
両足の親指の爪が青くなっています。

ミドルを蹴る度、心臓を針で刺したかのように痛く、我慢しているのに
蹴りながら涙が出ます。
痛いからと断って蹴らないのは逃げているようで嫌でした。
爪の下に血と膿が溜まって、爪が浮き上がります。
病院に行って左足親指の爪を剥がしてもらいます。
過去に爪を剥がしたことは何度もあるけれど、親指は
痛みも別格です。
うつ伏せに寝れません。
空気に触れるだけで痛いのです。
ガーゼとテーピングをして走って右だけを蹴ることにします。
そうこうしているうちに右足の爪も剥がれます。

練習に勢いがついて、これから追い込みをかけるという時に
やってしまいました。
試合前の練習で全く蹴らないというわけにもいかないので蹴ります。
悲しくないのに涙が出ます。
ミドルを蹴る度に、膝を蹴る度に合わせてアルンサックは腹を叩きます。
胃の周りの皮が擦り剥けて血が出ます。
でも叩きます。
その容赦なさに、もしかしたら期待してくれているのかも
しれないと嬉しさを感じます。

6月後半からの3ヶ月、ジム生には悪いけれど練習に集中
させてもらいます。
18時半から40分走ってから22時までのジムワーク、
毎日3時間半が僕の練習時間になります。
6月に入って来た藤倉悠作と毎日一緒に練習し、
悠作は5年ぶり、僕は6年ぶりのリングを目指します。
彼がいなかったらここまでいい練習はできなかったでしょう。
そして、アルンサックがいてくれたおかげで10代の時以上の
練習内容、量が出来ました。
20歳を過ぎて、継続するトレーナーがいなくなり、
なので、いい時と悪い時が極端に別れるようになります。
流れ的にいいのだけど、たまに欠点が出るというような
それまでとは異なるようになっていきます。
再びアルンサックと組んだことがなかったわけではなく、
でも、数年に一度、継続しないで単発での練習だったり
セコンドだけだったりになっていきました。

20数年前、リキジムに来た時には1年間一緒だったけれど
既に噛み合っていませんでした。
そこから試合までの約1年半前、アルンサックと再び組むことになります。
中中噛み合わず苛苛して一人疲れていました。
毎日毎日、一緒に練習して少しずつ噛み合うようになっていきます。
もしかしたらブランクのせいで感情を含む余計なものが
なくなって噛み合っていったのかもしれません。
今思えば、以前は噛み合わないと焦って練習に対する
視界が狭かったような気もします。
恐ろしいほどのブランクを作ることによって自分を客観視して
冷静に分析出来るようになります。

押し入れから十数年前から記しているノートを取り出します。
いい減量が出来た試合前の体重の段階、練習メニュー、食事などを
頭に入れます。
6年ぶりの試合は1つ2つ階級上げたスーパーフェザー級やライト級では
なくキャリアの大半を占める長年親しんだフェザー級リミットでの
契約でした。
あえて楽な体重で行おうとは思いません。
だからといって、ただのこだわりでフェザー級に固執しているわけでは
ありません。
固執していないわけではありません。
ただ、努力も工夫もなしに上げようとは思わないのです。
まだ工夫の入る余地はあると思っていました。
6年ぶりの減量ということもあって早めの段階である程度落ちていました。
8月半ばにはライトのリミット辺りをうろついていた程です。


6年ぶりの試合は、フェザー級で試合するという自分に対しての
挑戦でした。
楽なウエイトでやるということは気持ちが緩みます。
だから、減量がきつい方が気持ちが締まって丁度いいのです。

15歳で行ったタイでのデビュー戦は52kg、スーパーフライ級でした。
62kgから10kg落としてのその体重です。
帰国して翌年、フェザー級(57・15kg)で国内デビューしました。
まだ、フェザーの骨格ではないと元元覚っていました。
減量はその人その人の適正があると思います。
気持ち的な面も多いでしょうが、肉体的な面でも大きくあると思います。
なので、ダメージを考慮してバンタム級で希望しました。
減量は苦しくても試合そのもののダメージを考えて、より落とす方を
優先しました。
しかし、会長からの駄目出しでフェザー級で試合は組まれました。
事実、結果は勝ったものの、デビュー戦で相当のダメージを負いました。
KO敗けした敗者のような顔立ちになり、鼻の高さまで顔は腫れ、
蹴った足は蹴られた以上に腫れ上がり、日常生活で松葉杖を余儀なく
されました。
減量がきつくても試合で楽な方がよいと思い、2・3戦目で53・5kgがリミットのバンタム級に落としました。
ダメージ少ない方を優先して、試合感覚を養いたかったのです。
でも、3戦目を終えた辺りで、バンタム級ももきつくなってそろそろ
フェザーに戻そうかなと思っていた頃です。
デビュー戦で体の小さい僕をフェザー級で組んだ会長は、減量を重ねて
身体が大きくなったフェザー級へ戻そうかという頃に次戦、フライ級
(50・8kg)で試合を組みました。
自伝にも記しましたが何度も断りました。
でも、最終的にジムに行くことすら拒んでいたらキャンセルせずそのまま
やることになりました。
その前も後も、そういう人なのです。


結果、2週間前にタイに行かせてもらうこと条件にやることになります。
試合までたった2周間で13kgの減量が強いられました。
あの時の苦しさは今も忘れることが出来ません。
「ざまぁみろ!」に記した通りです。
利尿剤や下剤、全て使い、最終的には3日間絶食絶飲する羽目になります。
最後の方は、歩いていて靴が脱げて、ベルトを締めたままジーンズが
脱げて、息を吸って吐き戻し、内臓が痛くて腹を抱えます。
背中の肋骨が浮き出ていました。

年明け春、17歳になった僕に組まれた試合はジュニアフェザー級
(スーパーバンタム級)契約でした。
しかし、フライ級より4kg上のその階級にも、もう
体重は落ちてはくれませんでした。
通常の体重は64kg、でも60kgを切ってから体重は落ちてくれ
ません。
その試合を最後にフェザー級に戻すのですが、でも、
そこから、減量期間中はいつも苦しみでしかなく、なので、
前日はいつも絶食絶飲でした。
飲み食いしていないというのに下剤すら使わないと落ちません
でした。
減量中、内臓がいつも痛くなるのです。
なので、体重の落とし方は試合を終えてから次の試合が
決まるまでの期間、いつも減量の練習にも取り組むことに
なりました。

なので、減量に入ると学校にも行かなくなります。

そして、いつも試合前に試験と重ります。
その癖、体重は落ちません。
なので、食べていないのに下剤を飲みます。
帰宅途中、あまりの腹痛で糞を漏らします。
路上で涙が溢れました。
その苦しさに17歳で自分はもう、人として壊れていると
肩を落としました。

翌年、2年生で留年します。
減量の度、学校は休んでいたから単位が足りなかった
のです。
2年遅れて入学したのに、3歳下の同級生と生活しなくてはなりません。
2度目の高校2年生で成人式を迎えます。

僕にとって減量は苦しみしかない存在でした。
だから、どうすればより食べれるか、どうすればより体重を落とせるか、
ということをいつも考えてきました。
17歳から60数戦、常に新しい工夫を考えて試行錯誤してきました。
日本でデビューした16歳の頃から手帳などに減量中の食事などを記して
いましたが、残らないので23歳手前からノートに記すようになります。
データを残そうと思ったのです。
最後までフェザー級でいたいし、ただなんとなく落ちないから
階級を上げるというのは嫌でした。
6年ものブランクを作る前までそれは続けました。
そして、ただ6年のブランクがあるから2階級上げてライト級に上げる
というようなことはしたくありませんでした。


自伝にも記したことをいくつか引用します。

減量をするには、いくつか理由があります。
1つは体を絞ることによって動きが切れるということ。
2つ目は、より有利に戦うため。
3つ目はここまで辛い思いをしたのだからという
精神面を強くするため。
2・3は個人差があるでしょう。
落とさない方が力が入るという人もいるでしょうし、
減量が辛いと練習で萎えるという人もいるでしょう。
でも、僕にはこの3つが典型的に当てはまります。

キックボクシングのフェザー級とライト級の間には
体重差以外の差があります。
フェザー級までは6オンス、ライト級から8オンスが使用されます。
この差は大きいのです。(当時)
4kgも大きい相手と一回り大きいグローブで殴り合わなくては
いけないのです。
慣れるまで、身体を作るまで時間がかかるでしょう。
無理やり慣らす必要はないですが、かといって無理やり落とす
必要もありません。
よりいい落とし方を見つければいいのです。
デビューして22年、僕は常に減量のことを考えてきました。

そうして9月に入っていきます。

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特にお得なことはないかもですが、でも、僕が 思うこと、感じたことなどを日日綴ります。

100戦してこれまでの減量や試合にまつわる客席からは 感じることのできないことなどを 綴れたらなと思います。 なんの参考にはならないけれ…

これがなんのことやらか、ようやく 理解しました。 どうもです。 頑張ってホームラン打とうと 思います。