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きみに伝えるヒストリー㉔

シベリア出兵

 この状況下の1918年5月、東部戦線でロシアと戦っていたチェコスロバキア兵はロシアに投降しました。そしてチェコ軍がシベリア経由で西部戦線に送還中に、ロシア革命軍と衝突し囚われることとなりました。

 そこで、イギリスとフランスは革命軍からチェコ軍を救出するという名目を持って、実際はロシア革命政権を打倒することを意図した干渉戦争を興しロシアに攻め込みました。東部の黒海、バルト海方面から攻め込みます。

 そして、イギリスは日本とアメリカにチェコ軍支援の要請をいたします。この要請に従い、日本と大戦に参戦したばかりのアメリカはウラジオストックからシベリアを攻め込むことといたしました。これが1918年8月のことでした。

 この後、イギリスやフランスも部隊をシベリアに送り込みますが兵力はそれぞれ1,000人前後でわずかなものでした。日本とアメリカはそれぞれ8,000人程度の兵力としておりましたが、日本は37,000人の大軍を動員いたしました。ちなみに中華民国も2,000人程度を動員しております。
 
 これに対してボルシェビキ政権はパルチザンと呼ばれるゲリラ部隊を組織して徹底抗戦します。このシベリア派兵を対ソ干渉戦争と呼ばれますが、日本では「シベリア出兵」と呼んでおります。

世界大戦の終焉とソ連建国

 11月にはドイツに革命が起こります。11月革命にて帝政ドイツが倒れました。これにより第一次世界大戦は停戦となります。

 そして1919年には西シベリアの反ソビエト政権が崩壊します。ロシア革命による連合国の干渉は失敗に終わりました。もはやシベリア出兵の目的はなくなりました。各国は撤兵していきます。ただ、日本は各国の撤退後も駐留を続けました。ボルシェビキ政権はウクライナやベラルーシに支配領域を広げ、「ソビエト連邦」を興しました。1922年のことです。この年に日本軍はようやく撤兵いたします。そしてその後、各国はソビエト連邦の国家承認をしていきます。

芽生えつつある変革運動

 1919年、この時期広州軍政府を追われた孫文は、ロシア革命には敏感でありましたが、上海の租界に身を潜めておりました。

 一方、この世界的に混沌とした時期に反袁世凱運動を行っていた日本留学組の李大釗 (Li Dazhao) を始め、変革を望む青年たちが少なくありませんでした。彼らは世界大戦でのドイツの敗北は専制主義に対する民主主義の勝利と考えておりました。

 そして、ロシア革命は、民衆の解放運動であり、単にロシアが強力な国家として再生するということのみではなく、こうした動きがやがて世界を動かしていくという確信を持つにいたります。そこで、李大釗はマルキシズムを受け入れ、民衆の勝利を導き出す手段として用いるという考えにいきつきます。

 李大釗と同じく日本留学組であった陳独秀(Chen Duxiu) は倫理革命の必要性を感じていました。つまり、儒教を否定することです。上海で発刊していた「青年雑誌」を「新青年」と改名して、孔子の教えを攻撃し、西洋式の新国家を建設し新社会を組織していくことを訴えます。
 
 そして、この「新青年」で文学革命論を発表します。技巧的で阿諛的な貴族文学を打倒し、平易で直情的な国民文学を建設せよ、と訴えます。文学的批判をしつつ、孔子教を批判する倫理革命に結びつけるものでした。

 この文学革命論に合わせて、西洋の技法を用いた、つまり口語体の小説が雑誌「新青年」で発表されます。魯迅(Lu Xun)の「狂人日記」です。これは孔子教は礼節を説く一方生命を抑圧する「人食い」の教えだと規定した内容のものでした。魯迅は後に小説家であると同時に論争家として日本や欧米の帝国主義に抵抗し、国民党を批判していきます。このため後の共産党には絶大なる支持を得ることとなります。

デモクラシーの風

 この時期日本では少しづつデモクラシーの風が吹いてきておりました。
第一次世界大戦時の首相は大隈重信でした。その後任を選ぶときに、山県有朋が君臨する元老会議は、推薦していた加藤高明ではなく、陸軍大将の寺内正毅を首相に推し、寺内を首相にいたしました。

 ところが、ロシア革命による米価暴騰に起こった民衆は米騒動を起こします。これが全国に波及しました。これにより寺内内閣は総辞職となりました。そこで、元老西園寺公望の意向もあり、立憲政友会総裁の原敬が政党内閣をつくることとなりました。1918年のことです。

 これが本格的政党内閣の最初でした。また彼は「平民宰相」として有名です。華族の爵位の拝受を辞退していたことによります。

 この後、第一次世界大戦が終結するタイミングで、原首相は台湾総督府と韓国総督府の管制を廃止し、それまで軍人が務めてきた総督に文官もなれることにしました。後のワシントン会議で海軍大臣が留守になるときに、首相自らが代行となり、「文官軍部大臣」の実例を作りました。

 大正デモクラシーは二大政党制を作ることを推し進めました。立憲政友会(政友会)と立憲民政党(民政党)の二大政党です。衆議院選挙で勝利した政党の党首が首相に選ばれ内閣を組織するという議会民主制となります。しかしながら、天皇主権の大日本帝国憲法下ですので、元老が勝利した政党の党首を首相にと、天皇に推薦するという慣行となっておりました。

 この後、1924年には総選挙で護憲三派(政友会、憲政会、革新倶楽部)が絶対的多数を占め、この三党による連立内閣が組閣されます。

 内閣総理大臣となった加藤高明は公約としていた普通選挙法を制定いたしました。これは、納税額にはかかわらず、満25歳以上の男子はすべて衆議院議員の選挙権を与えるというものでした。また、加藤内閣の宇垣一成陸軍大臣は、21個師団のうち4個師団を廃止するという、いわゆる「宇垣軍縮」を行い、海軍も製造中であった戦艦を廃棄処分するなどの軍縮を断行いたしました。また、幣原喜重郎外務大臣は列強に対する協調外交と中華民国に対しては融和外交をしていきます。

 かように大正期というのは、民主主義の発展や軍縮の推進、そして脱帝国主義への風が吹いていた時期であったと言えるのでしょう。

パリ講和会議

 少し前に戻します。1919年1月にパリ講和会議が開かれました。第一次世界大戦における連合国とドイツおよびオーストリア・ハンガリー帝国との講和条件等の会議です。戦勝国であるイギリス、フランス、アメリカの3カ国主導で進められました。イタリアは途中で連合国に転じておりました。ロシアは革命により脱落しております。一方、中華民国もオブザーバーとして参加しておりました。

 そしてベルサイユ条約(Treaty of Peace)が結ばれ、ドイツにおける賠償金と領土(一部割譲)及び兵力の制限等諸々詳細な事項が結ばれました。また山東省の利権については、中華民国への返還を前提に日本に譲渡することが取り決められました。ただ、中華民国はこの調印を拒否いたしました。

国際連盟

 この講和会議で、アメリカの大統領ウィルソン(Thomas Woodrow Wilson)は国際連盟(League of Nations)の創設を提唱しました。各国家が協定を結び、原則として戦争を禁じるという構想です。違反した国には制裁が科されます。国際連盟規約が制定され翌年1920年1月より発足いたします。

 常任理事国はイギリス、フランス、イタリア、日本の四大国となります。提唱国のアメリカは議会が加盟を否決したため、加盟しませんでした。当初は加盟国は42か国でした。

 民主化した世界各国が国際法を遵守し、国際紛争が起こっても連盟の勧告に従うという考えがありました。しかしながら、これは理想主義以外の何ものでもありません。実際のところ、これ以降も各国は自国の利益の確保に突き進んでいきます。

 また日本は、この規約に人種差別廃止条項を盛り込むことを提案いたします。アメリカの日本人移民が排日政策によって迫害されている状況を踏まえてのものでした。賛成票が多数でありましたが、ウィルソン大統領が重要案件には全会一致が必要としてこの案は否決されました。これは、アジアに植民地を持つ欧米列強にとっては許容しがたい提案でありました。


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