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ゴッホの見た星空(15) 《夜のカフェテラス》の遠近法

カバースライドの説明(ゴッホのWIKIPEDIAのページを参照)
(左)《夜のカフェテラス》 (右)《自画像》

「銀河のお話し」の状況設定と同じです。 「銀河のお話し(1)」をご覧下さい。 https://note.com/astro_dialog/n/n7a6bf416b0bc

《夜のカフェテラス》

2024年になったばかりだと思っていたら、もう二月の末だ。暖冬のようで、寒波も混じる。なかなか冬の星空を楽しむ機会もなく、時が過ぎてゆく感じだ。こういう時期はやはり天文部の部室でよもやま話に花を咲かせるのがいい。

その日の放課後も、輝明は天文部の部室に向かった。部室に入ると、いつのもように優子が来ていた。
「やあ、優子、今日も天文雑誌を読んでいるの?」
「あっ、部長。いえ、今日はゴッホの絵を眺めています(図1)。」

図1 優子が眺めていた本は『ファン・ゴッホ その生涯と作品』(マイケル・ハワード 著、田中敦子 訳、ガイアブックス、2015年)。これ一冊でまさにゴッホの生涯と作品が概観できる良い本だ。実は輝明も持っている。なお、ファンは苗字の一部なので正しくはファン・ゴッホと記すべきだが、本稿ではゴッホとさせていただいている。

「ゴッホか。いいね。僕も大好きな画家だ。」
「部長はどの絵が好きなんですか?」
「天文ファンということもあり、《星月夜》とか《夜のカフェテラス》がいいかな。」
「そうですね。ゴッホほど星空を上手く描き込んだ画家は珍しいと思います。実は、私も《夜のカフェテラス》が一番好きです。」

「一点消失法」

「《夜のカフェテラス》の魅力はどこにあるだろう。天文を離れていいけど、少し話をしてみようか。」
「絵を見てすぐに気がつくことは、遠近法がうまく採用されていることです。そのため、カフェの向こうまで吸い込まれるような感覚を覚えます。」
「この絵で使われている遠近法は「一点消失法」と呼ばれるものだ。「一点透視図法」とも呼ばれる。その起源は14世紀のルネッサンス時代に遡るようだ。」

「遠近法が気になったので、調べてみました(図2)。」
「おお、すごい。」
「上手い具合に、カフェの店内の一点に集まるような構図になっています(『絵を見る技術』秋田麻早子、朝日出版社、2019年、38-45頁、45頁の図を参照)。ただし、右側に見える建物のベースラインやカフェのテラスの庇の部分は異なる方向に描かれていますけど。」

図2 (左)《夜のカフェテラス》、(右)一点消失法の結果。カフェの庇はなぜかズレている(赤い点線)。https://ja.wikipedia.org/wiki/フィンセント・ファン・ゴッホの作品一覧#/media/ファイル:Vincent_Willem_van_Gogh_-_Cafe_Terrace_at_Night_(Yorck).jpg

「直交パターン」

「消失点があることで、絵に一つの安定感を与えるんじゃないかな。」
「私もそう感じます。」
「もうひとつの遠近法の作法がある。「直交パターン」と呼ばれるものだ。優子は知っている?」
「いえ、知りません。」
「じゃあ、その効果を見てみよう(図3左)(『絵を見る技術』秋田麻早子、朝日出版社、2019年、220-230頁、224頁の図を参照)。」

図3 (左)《夜のカフェテラス》を「直交パターン」を利用して遠近法の効果を見た結果。(右)比較のため、一般の一点消失法の結果を示す。これはズ2の右のパネルと同じである。

「あっ、面白いですね。こっちこそ、ヴァニシング・ポイント、消失点に迎え! という感じです。」
「描き方をざっと説明するよ。」
「はい、お願いします。」
「まず、右上の角から左下の角へと向かって対角線1を引く。次が、これに直交する線2を引く。この線が絵の左端まで伸ばし、その交点から水平に線1にぶつかるところまで線3を引く。以下、同様にして、線を引いていく。そして、一つの中心へと向かうことになる。この図では線12までしか引いていないけど、中心は線1と線2が交わる点になる。」
「なるほど。相似系の長方形が入れ子状にできていくんですね。螺旋階段ならぬ、回転しながら収束していく螺旋長方形のような光景です。お見事!」
「この方法だと、先ほどの「一点消失法」とは異なる点へと収束していく。個人の感想としては、「直交パターン」の方が、落ち着いた雰囲気の点へと収束していくように見える。でも、どちらがいいかという問題でもない。人それぞれの意見でいいんじゃないかな。」

「いずれにしても、《夜のカフェテラス》は遠近法を上手く取り入れた絵であることは間違いないですね。この絵を好きな人が多いのもうわかるような気がします。」

歌川広重『猿わか町夜の景』

「ところで、浮世絵の中に《夜のカフェテラス》を思い出させる一枚がある。」
「日本の浮世絵のことですか?」
「うん、そうだよ。それは『猿わか町夜の景』という作品だ(図4)。この絵は、江戸時代の浮世絵師、歌川広重(1797-1858)によって描かれたものだ。広重は晩年の頃、風景浮世絵の傑作である『名所江戸百景』を描いた。百景とはいえ、119枚の浮世絵から成る。その中に『猿わか町夜の景』という作品がある。安政三年(1856年)の作なので、ゴッホが絵画に勤しんだ、約30年も前に描かれたものだ。」

図4 (左)歌川広重の『猿わか町夜の景』。(右)一見、一点消失法のように見えるが、両側にある長屋の姿は一点に消失しない。 https://www.ndl.go.jp/landmarks/details/detail262.html?sights=saruwakacho

「この絵も見事な遠近法で描かれていますね。」
「ゴッホは『猿わか町夜の景』の絵に影響を受けて、《夜のカフェテラス》を描いたと推察されているんだよ(『ゴッホへの招待』朝日新聞社編、朝日新聞社、2016年、30頁)。」
「まさか、広重からゴッホへ繋がるとは思いませんでした。」
「見てのとおり、道の両側に並ぶ長屋が遠近法で描かれている。夜空には満月が見事だ。通りにいる人たちには、満月のおかげで影ができている。」
「たしかに、人の影がクッキリ見えていますね。」
「天体の光で影ができるのは、四つのケースしかない。太陽、月、金星、そして天の川の光芒だけだ(『古代文明と星空の謎』渡部潤一、筑摩書房、2021年)。これは覚えておいた方がいいよ。何しろ、僕たちは天文部員だからね。」
「はい、そうします。」

《夜のカフェテラス》と『猿わか町夜の景』を比較する

「《夜のカフェテラス》と『猿わか町夜の景』とでは、描かれている風景はまったく異なっている。ところが、二つの絵は似ている。それをまとめると、次のようになる。」

[1] 遠近法(一点消失法)が採用されている
[2] 逆三角形の夜空に天体が描かれている

「[2]については大阪市立科学館・学芸員の石坂千春さんが指摘している(『ゴッホの見た星空〜南フランスを訪ねて〜』大朝霞市立科学館研究報告、第26巻、19-24頁、2016年)。ただし、逆三角形の夜空は共通しているが、夜空に見えるのは《夜のカフェテラス》では複数の星、『猿わか町夜の景』では満月ひとつだけという差異はあるんだけど。」
「ところで、『猿わか町夜の景』の遠近法は、厳密には「一点消失法」ではない。」
「えっ? てっきり一点消失法だと思っていました。」
「図4の右のパネルを見ればわかる。長屋がかなり遠方まで続いていれば、ほぼ一点に消失するように見える。だけど、消失はしていない。絵をよく見るとわかるけど、遠方では道が曲がっていて、両側の長屋もそれに沿って曲がっているように見えるんだ。」
「芸が細かいですね。」

芸術は「国際語」

「《夜のカフェテラス》と『猿わか町夜の景』とを比較すると、どちらの絵に安定感を感じるかな?」
「《夜のカフェテラス》でしょうか。」
「《夜のカフェテラス》では、絵の中心に消えていきます(図1)。一方、『猿わか町夜の景』では消失点(実際には消失しないが)は絵のかなり左側にあります。好みの問題かもしれませんが、消失点は絵の中央にくる方が落ち着きはよいように思います。」
「そうだね。《夜のカフェテラス》で描かれている風景は中央から見ると対称的じゃない。左にはカフェテラス、右には向かい側の建物と並木が描かれている。実際には並木は存在しないとのことだけど。
「異なる構造物が、配置としては対称的に収まり、それらが遠近法によってうまくまとめられた絵。それが《夜のカフェテラス》だったんですね。」
「僕たちは、絵に関してはまったくの素人だ。それでも、絵について語り合うことができる。これは素晴らしいことだね。」

「絵、というか芸術は「国際語」ですね。」
輝明は黙って頷いた。

優子はまた《夜のカフェテラス》を眺めた。少しの時間だけど、輝明と遠近法の話をしたおかげで、まるで違った絵に見えてきた。

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「ゴッホの見た星空(8) 《夜のカフェテラス》の星空の謎?
https://note.com/astro_dialog/n/n663d17e83952


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