「宮沢賢治の宇宙」(40) 清少納言よ、あなたも「流れるもの」は嫌いなのか?
流れ星が嫌いな宮沢賢治
以前のnoteで宮沢賢治は流れ星が嫌いだという話をした。
「宮沢賢治の宇宙」(28) 夜空を滑る流れ星は嫌いですか?https://note.com/astro_dialog/n/ncb75c4fe3e59
なにしろ、賢治は作品の中で「流れ星」という言葉をたった一回しか使っていない。しかも、文語詩「大菩薩峠の歌」の初期形に出てくるだけなのだ。下書稿(二)を見てみよう。
廿日月
かざす刀は音無しの
無明の虚空の流れ星
その竜之介(『【新】校本 宮澤賢治全集』第七巻、校異篇、524頁、筑摩書房、1996年)
『【新】校本 宮澤賢治全集』第六巻、校異篇の注意書きに以下の説明がある。
中里介山(なかざと かいざん、1885-1944)の大作『大菩薩峠』とこの歌の関連については・・・を参照されたい。 (243頁)
『大菩薩峠』という他人の作品に触発されて書いた文語詩に「流れ星」が出てきたということだ。そうなると、自発的に「流れ星」という言葉を使ったようには見えない。
流れるものが嫌い
また、賢治の作品を調べると、賢治は「流れること」、あるいは「流れるもの」が嫌いだったと感じる。それは文語詩未定稿の「流れたり」や「青びとのながれ」と題された短歌10首を読むとわかる。極め付けは1910年に回帰した大彗星、ハレー彗星を賢治は見なかったことだ。天文少年になった頃のことで、到底理解できない。自分が動くこと(登山や旅行)は大好きなのに、人や物が動く(流れる)のは嫌い。かなり変わった性格と言えるだろう。
もう一人いた!
賢治のような感覚を持つ人はそういないだろうと思っていた。ところが、一人いた。友人のW君からの情報だ。
「そういえば、清少納言も流れ星は嫌いだったようですよ。」
確かにそうだった。確認するために清少納言の『枕草子』を久しぶりに紐解いてみた(図1)。
第二五四段だ(図2)。
「星はすばる。ひこぼし。ゆうづつ。よばい星、少しをかし。尾だになからましかば、まいて。」
ここで、「すばる」はプレアデス星団、「ひこぼし(彦星)」は「わし座」のα星アルタイル、「ゆうづつ」は金星、よばい星は「流れ星」のことだ。
清少納言は「流れ星」はちょっと面白いと言っている。ところが、条件を付けている。「尾がなければ、もっといいのに・・・」 これには驚く。なぜなら、「流れ星」のよさは、尾を引いて流れる姿だからだ。
清少納言も賢治と同様に、流れる物が嫌いだったのか
月は?
じゃあ、月はどうか? 『枕草子』253段に「月」がある(図3)。
清少納言は夜半過ぎ、東の空に昇ってくる有明月がいいと言っている。
実は、賢治の童話に『二十六夜』がある。二十六夜に見える月は、まさに東の空に昇ってくる有明月だ。
賢治と清少納言。二人の天才の好みは同じようだ。
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