真理の勇気シリーズについて:ミシェル・フーコーとサルトルの主体のテーマは方法論が違うだけでよく似ているのではー生存の美学

真理の勇気、とはミシェル・フーコーの最晩年の講義録のタイトル。人生への挑戦である。

30年前からフーコーの「性の歴史」1巻から3巻を読んでたけど1巻は意味がとれて面白い。
 2巻・3巻は部分部分はわかるのだけど全体を通しての意味がよくわからない。頭の中で各論の話がまとまらない。結論部分を読んでも全体のまとめになってない。でも部分部分は面白い。気になる。
 そんな時4巻目の「肉の告白」が出てしばらくしていることを知った。4巻を読んで、なんとかして全体の意味がわからないか、と思ってコロナのなか、「コロナで死ぬかもしれないから今読み返す本」のリストに性の歴史を入れて読み返した。
 参考書に講義録を読もうと思って「真理の勇気」を読みはじめた。被る部分ももちろんあるが別の世界も広がっていた。
 タイトルも強く惹きつけられるけど、中身をパラパラめくってみるとキュニコス派のディオゲネスの面白さ、ボードレールやマネへのアンチプラトンという視点からの賛歌、ソクラテスの死の際のアスクレピオスにお礼を、と言った意味が面白く書いてあった。
 ロマネスク美術をアマチュアで昔行ったところだけだけど、調べていて、その心性を想像するのにも便利だと思った。
 それとは別に男がオワコンと言われるネット記事を見ていくと、これまた昔は読んだ上野千鶴子氏らのフェミニズムと結びついているらしい。アンジェラ・デイビスをちょうど読んでいたのでフェミニズムのリストを見るとボーヴォワールがいた。サルトルのパートナーとは聞いてはいるけどそれ以上は知らなかった。
 「第二の性」を手に取ってみた。面白い。フーコーはかなりこの本にガードをしていると思った。ちょっと前に蜻蛉日記、枕草子、源氏物語、樋口一葉、与謝野晶子、村山由佳と読んできたのでボーヴォワールの子供時代からサルトルを看取るまでをつらつら読んでいた。そんなとき下記の記事を見つけた。

 サルトルはボーヴォワールの「別れの儀式」(1974年対談、出版ガリマール社1981年、人文書院1983年)の最後にこう述べている:

「ー神とは人間に似せたこしらえものの像だ。人間を無限に複数化してこしらえたものだ。 この像を前にして人間は神を満足させるために仕事をせねばならぬということになる。したがって常に、自己に対する関係、馬鹿馬鹿しいが巨大で要求がましい、自己に対する関係が問題となる。この関係をこそ抹殺せねばならない。なぜならこれは自己に対する真の関係ではないからだ。自己に対する真の関係とは、ぼくらが現にそうであるところのものに対する関係で、ぼくらがつくりあげた、漠然とぼくらに似ているあの自己に対する関係ではない。」pp544

自己に対する関係などの述べ方はフーコーのコレージュ・ド・フランスでの晩年の講義「主体の解釈学」「自己と他者の統治」「真理の勇気」や、2020年に出版された「性の歴史4巻 肉の告白」を思い出させる。というか私には区別がつかない。

さて、サルトルとフーコーは似ているのでは、それとも違うのだろうか?と考えると武田宙也先生の「フーコーの美学」人文書院(2014年)が思い浮んだ。その第6章には:

「「生存の美学」を語るようになった晩年のフーコーに関しては、これまでいくつかの批判がなされてきた。・・・サルトル的な実存主義と同一視される場合さえあったのだ。」

とあり私だけではなくフランス本国でもそう思われていたことがわかりホッとする。

実際、両者は会合やデモに揃って参加している。例えば、1977.6.21ブレジネフのフランス訪問に際してソ連反体制派との友好の会見、1977.11.18 ドイツ人の弁護士、1979.6.20 ボートピープルについてなどなど(ミシェル・フーコー伝 D.エリボン、新潮社1991年)。

フーコーの「性の歴史2巻 快楽の活用」(ガリマール社1984年、新潮社1986年)では、フーコーは書いている:

「私を駆り立てた動機はというと、・・・それは好奇心である。知るのが望ましい事柄を自分のものにしようと努めるていの好奇心ではなく、自分自身からの離脱を可能にしてくれる好奇心なのだ。」pp15

「その総体とは《生存の技法》とでも名づけていいものである。それは熟慮や意志にもとづく実践であると解されなければならず、その実践によって人々は、自分に行為の規則を定めるだけでなく、自分自身を変容し個別の存在として自分を変えようと努力し、自分の生を、ある種の美的価値をになう、また、ある種の様式基準に応じる一つの営みと化そうと努力するのである。」pp18

しかしながら、フーコー自身は、晩年のインタビューにおいても、自らの思想とサルトルの哲学との違いを「主体」に対する立場の違いとして説明している。すなわち、 サルトルにおいて主体は、もろもろの意味を付与する存在であり、 「唯一可能な実存形式」であるのに対し、自らの問いとは次のようなものである、と。それは、

「主体がもはや、その構成的な諸関係において、自己への同一性において与えられていないような経験はないのか、主体が解体し、自己に対する関係を壊し、自らの同一性を失うような経験はないのか」というものである。(ibid 武田宙也)

なおさら難しくなってしまいわかったようなわからないような感じである。しかし、フーコーで推察してみよう。

『フーコーは若い頃ゲイであることでカトリックでの告白のたびに苦しんでいたそうである。』

そのため1215年ラテラノ公会議で決まった毎年告白をしなければいけないことの正当性を潰す旅に出た。カトリックでは告白をしても許してくれるかもしれないが許すのは一度きりでゲイは続けられないから。ありのままのゲイは認めてくれないから。
 司牧者規則の形成を調べ、そこにどのような経緯が含まれていたのか、それは正当なものか、それを明らかにしようとした。それを「性の歴史4巻 肉の告白」に執筆した。その企画は「性の歴史1巻 知への意志」からのものである。「知への意志」ではカトリックの告解から精神分析に引き継がれたことが匂わせてある。それはどうやらドゥルーズーガタリ「アンチ・オイディプス」で展開されていたことでもあるらしい。(この本には何度かトライしてますがわたしの中ではまだ焦点を結んでいません。)
 次はキリスト教で成立した倫理を調べるためにギリシア・ローマン期に旅にでた。するとすでにキリスト教で禁欲的になだたことは実はギリシアーローマ時代に実践されていたということが、ポール・ヴェーヌらの研究を引用しながら明らかにしていく。結局のところそのようにカトリックが古代から継承したこと、新たに開発したことを浮き上がらせフーコーの中で無効化した。
 その結果、フーコーは心に深く刻まれたカトリックとの関係を壊すことができ、際限のない主体の懐疑を起こす必要がなくなり、主体が解体できた、これで自己に対する関係を壊すことができた、とそういう意味だと考えてみる。そして「一つの芸術作品としての人生」を作り上げると言う標語。ゲイとしての人生を作り上げる。
 そうすると結局のところ、性の歴史がわかりにくいのは、上記二重鉤括弧で包んだことが本の中に書かれていないからだと思われる。
 書くとわかりやすくはなるがフーコーだけの体験になり広がりがなくなるし、思想であれば尚のこと大きなことを包む必要がある、と言うことが今回偽ディオニシオスをまとめてみたことがキッカケになってようやくわかった。パレーシアを調べて後期フーコーの謎の一面がとけた。そして私もそのような好奇心に憧れていた。それも初めて読んでから30年かかって少しわかったような気がして満足である。
 私の主体が解体されるところまで行ったかどうか?私もまた自分探しをこの10年していてそれなりに悩んでいたが、フーコーやそれをロマネスクに外挿する事などで少なくとも「好奇心」が満たされ楽しめたのである。
 結果としてサルトルとフーコーは同じなのか、どうなのか?私はよく似ている、と考える。主体が解体して変わる・変わらない、と言葉の上で強調しているだけ、実践としてどうか、解体したような気がしても自己は残っている気もする。それがよくわからない、と言うような気がします。
 次回はChatGPTでフーコーの「真理の勇気」のその5 としてパレーシアやキュニコスのところをまとめた物を掲載予定で、これはその前振りでもあります。

[ネット上で読める参考文献]

中世カトリック教会の経営 ――告白・贖宥・煉獄・聖年――




https://note.com/blubird/n/n716f3aaa438a



https://note.com/gertie/n/nbb4d729d0e15


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