ChatGPTによる真理の勇気その1 ギリシアのパレーシアとキリスト教神秘主義への展開

 さすがギリシア哲学。真理を述べるということに専用の言葉がある。
 それはパレーシア(名詞)。動詞ではパレーシアゼスタイ。
 早速ChatGPTにその意味を聞いてみよう:「自分の意見や考えを隠さずに率直に表現することを指します。」
 この言葉を取り出して哲学の俎上に乗せたのは私の推しのミシェル・フーコー(Michel Foucault)である。
 フーコーと言っても話題は広いが、私は、フーコー最晩年の「生存の美学」に興味がある。ドゥルーズがフーコーの葬儀の際に読んだと言われている一節は「快楽の活用」の自己の自己からの脱却(エクスタシー)そしてそれを支えるのは好奇心、のところだったとエリボンはフーコー伝(新潮社)に書いている。そしてその頃の重要な概念の極の一つはパレーシアだった。本人名義ではフーコーの講義録でしか読むことができない。
 パレーシアとはギリシア古典時代(ソクラテス/プラトン〜ディオゲネス)の頃に原義のある概念で「自分の地位が相手より低く」「自らを危険に晒すのを覚悟して」「真理を」語ることがパレーシアの原義であり議論に打ち勝つレトリックとは異なるもの。フーコーはパレーシアという言葉について1981-82「主体の解釈学」に初出させ84年までの3年間の講義録(筑摩書房)に深めながら取り上げられているが残念ながら絶版で手に入りにくい。
 最晩年の「真理の勇気1983-1984」(真改康之 訳)の講座でパレーシアをソクラテス、プラトン、砂漠の師父、キュニコス派などに展開。宗教革命やカントの啓蒙思想やボードレールのダンディズムを視野に入れた。ここまでは解説本などでよく知られている。
 しかし、このパレーシアはキリスト教教義そのものとどのように結びついているか、国内ではあまり解説本では紹介されていない。フーコーの講義録の最後も最後、最終日(1984年3月28日の講義(pp409〜))にキリスト教の聖書中のパレーシアが取り上げられている(pp. 424)。
 ギリシア由来のパレーシアはキリスト教教義にどのように入っていったのか、先般紹介した神秘主義に分類される偽デイオニシオスの文献まで手を広げてみたい。その先のクリュニーを経由したロマネスク美術が私の出口である。そのためにChatGPTによる機械翻訳でネットの原語データを中心に日本語データに変換して、やれるだけやってみたい。私はこの分野の専門教育を受けてないことをあらかじめお断りしておく。

 はじめの取り組みとして新約聖書でパレーシアが出てくるところをフーコーの上記の本の最終日の1984年3月28日の講義(pp415〜)から抜書きしてパレーシアを確認しよう。
 パレーシアはギリシア語からラテン語などに訳される際には様々に訳し分けられるためギリシア語に戻らないと見つけられないとのことで、フーコーはギリシア語から見つけているとのこと。アプローチは違うけどChatGPTでマネしてみよう。

1つ目:

ヨハネの手紙一 5:13「私がこれらのことをあなた方に書き送るのは、神の子の名を信じているあなた方が永遠の命を持つということを、あなた方に知ってもらうためです。」

同 5:14 「もし私たちが神の御意志に従って何かを願うならば、神は聞き入れてくださる。これが神に対する私たちの確信です。」ここでの「確信」にパレーシアが使われているとのこと。
ChatGPTでヨハネの手紙1 5:14を聞くと:
Καὶ αὕτη ἐστὶν ἡ παρρησία ἣν ἔχομεν πρὸς αὐτόν, ὅτι ἐὰν τι αἰτώμεθα κατὰ τὸ θέλημα αὐτοῦ, ἀκούει ἡμῶν.
怪しいのでネット検索すると<https://www.newadvent.org/bible/1jo005.htm>
(このサイトの信頼性や校定版については不明)
καὶ αὕτη ἐστὶν ἡ παρρησία ἣν ἔχομεν πρὸς αὐτόν, ὅτι ἐάν τι αἰτώμεθα κατὰ τὸ θέλημα αὐτοῦ ἀκούει ἡμῶν.
ChatGPTあっているようです。◎

同書 4:16-17「神は愛です。愛にとどまる人は、神のうちにとどまり、神もその人のうちに止まってくださいます。神はそのような方であり、私たちもまたこの世においてそのような者です。この点において、愛は私たちのなかで全うされているのであり、私たちは最後の審判の日についての確信(parrêsia)を持つことができます。」
ChatGPTより:
16節(Ιωάννην Α΄ 4:16): Ὁ Θεὸς ἀγάπη ἐστίν, καὶ ὁ μένων ἐν τῇ ἀγάπῃ ἐν τῷ Θεῷ μένει, καὶ ὁ Θεὸς ἐν αὐτῷ μένει.

17節(Ιωάννην Α΄ 4:17): Ἐν τούτῳ τετελείωται ἡ ἀγάπη μεθ’ ἡμῶν, ἵνα παρρησίαν ἔχωμεν ἐν τῇ ἡμέρᾳ τῆς κρίσεως, ὅτι καθὼς ἐκεῖνός ἐστιν, καὶ ἡμεῖς ἐσμεν ἐν τῷ κόσμῳ τούτῳ.
<https://www.newadvent.org/bible/1jo005.htm>では
16 καὶ ἡμεῖς ἐγνώκαμεν καὶ πεπιστεύκαμεν τὴν ἀγάπην ἣν ἔχει ὁ θεὸς ἐν ἡμῖν. ὁ θεὸς ἀγάπη ἐστίν, καὶ ὁ μένων ἐν τῇ ἀγάπῃ ἐν τῷ θεῷ μένει καὶ ὁ θεὸς ἐν αὐτῷ μένει.
17 Ἐν τούτῳ τετελείωται ἡ ἀγάπη μεθ' ἡμῶν, ἵνα παρρησίαν ἔχωμεν ἐν τῇ ἡμέρᾳ τῆς κρίσεως, ὅτι καθὼς ἐκεῖνός ἐστιν καὶ ἡμεῖς ἐσμεν ἐν τῷ κόσμῳ τούτῳ.
となり、ChatGPTでは16節の第一文が落ちている。ChatGPTあやしい。×

2つ目:
使徒言行録 9:26-27 「サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。そこでバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコスでイエスの名によって「率直に」宣教した次第を説明した。」サウロは自分の命を危険にさらし布教しのちにパウロと呼ばれる。
ChatGPT 使徒言行録 9:26-27のギリシア語原文は以下の通りです:

9:26:
Παραγενόμενος δὲ ὁ Σαῦλος εἰς Ἱεροσόλυμα ἐπείραζεν κολλᾶσθαι τοῖς μαθηταῖς, καὶ πάντες ἐφοβοῦντο αὐτόν, μὴ πιστεύοντες ὅτι ἐστὶν μαθητής.

9:27:
Βαρναβᾶς δὲ ἐπιλαβόμενος αὐτὸν ἤγαγεν πρὸς τοὺς ἀποστόλους καὶ ἐξηγήσατο αὐτοῖς πῶς ἐν τῇ ὁδῷ ἑώρακεν τὸν κύριον, καὶ ὅτι ἐλάλησέν τε αὐτῷ καὶ πῶς ἐν Δαμασκῷ ἐπαρρησιάσατο ἐν τῷ ὀνόματι τοῦ Ἰησοῦ.

サイトより
26 Παραγενόμενος δὲ εἰς Ἰερουσαλὴμ ἐπείραζεν κολλᾶσθαι τοῖς μαθηταῖς: καὶ πάντες ἐφοβοῦντο αὐτόν, μὴ πιστεύοντες ὅτι ἐστὶν μαθητής.
27 Βαρναβᾶς δὲ ἐπιλαβόμενος αὐτὸν ἤγαγεν πρὸς τοὺς ἀποστόλους, καὶ διηγήσατο αὐτοῖς πῶς ἐν τῇ ὁδῷ εἶδεν τὸν κύριον καὶ ὅτι ἐλάλησεν αὐτῷ, καὶ πῶς ἐν Δαμασκῷ ἐπαρρησιάσατο ἐν τῷ ὀνόματι τοῦ Ἰησοῦ.

同書 9:28-29 「サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって完全に安心して自分の考えを表すようになった。」(完全に安心してがパレーシア(完全なる確信の中で)を訳し分けたもの)
ChatGPT
28節: ἔρχεται τε καὶ ἐκπορευόμενος καὶ πορεύεται μετ' αὐτῶν εἰς Ἱεροσόλυμα, (←パレーシア以降が欠落)
29節: καὶ ἐπαὶρετο καὶ τολμῶν λαλεῖν καὶ διελέγετο πρὸς τοὺς Ἑλληνιστάς· οἱ δὲ ἐπεχείρουν ἀνελεῖν αὐτόν.

上記サイトより
28 καὶ ἦν μετ' αὐτῶν εἰσπορευόμενος καὶ ἐκπορευόμενος εἰς Ἰερουσαλήμ παρρησιαζόμενος ἐν τῷ ὀνόματι τοῦ κυρίου,
29 ἐλάλει τε καὶ συνεζήτει πρὸς τοὺς Ἑλληνιστάς: οἱ δὲ ἐπεχείρουν ἀνελεῖν αὐτόν.
ChatGPTは言葉の欠落が多い。×

3つ目:

エフェソの信徒への手紙 6:19-20「私が福音の神秘を言葉によって大胆かつ自由に伝えることができるようになるためであり、その鎖につながれた使者として、私が語るべきことを確信を持って(meta parrêsias)語るため」

ChatGPTにきいた:
19節: καὶ ὑπὲρ ἐμοῦ, ἵνα μοι δοθῇ λόγος ἐν ἀνοίξει τοῦ στόματός μου, ἐν παρρησίᾳ γνωρίσαι τὸ μυστήριον τοῦ εὐαγγελίου,

20節: ὑπὲρ οὗ πρεσβεύω ἐν ἁλύσει, ἵνα ἐν αὐτῷ παρρησιάσωμαι, ὡς δεῖ με λαλῆσαι.

上記サイト
19 καὶ ὑπὲρ ἐμοῦ, ἵνα μοι δοθῇ λόγος ἐν ἀνοίξει τοῦ στόματός μου, ἐν παρρησίᾳ γνωρίσαι τὸ μυστήριον τοῦ εὐαγγελίου
20 ὑπὲρ οὗ πρεσβεύω ἐν ἁλύσει, ἵνα ἐν αὐτῷ παρρησιάσωμαι ὡς δεῖ με λαλῆσαι.
問題なし◎

 このように、ギリシア以来の元の意味の生命を危険に晒してでも恐れず真理を話すという人間を対象としたパレーシア。
 ギリシア時代から新たに加わった意味は神への信仰と信頼。フーコーはニュッサのグレゴリウスを引用する:最初の人間はどのようなものだったのであろうか?「その人間は、衣服を纏わず、自由な確信とともに神の顔を見つめ、・・・「ただ主のもとにのみ無上の喜びを見出していた」」。このことから「心の開示、無媒介の現前、魂と神との直接的コミュニケーション」(pp419)がパレーシアの神とのかかわりの核としている。

 そしてフーコーはパレーシアと神秘主義の結びつきについて次のように分析している:「パレーシア」は「神の愛への信頼、最後の審判の日に神が人間を迎え入れるやり方への信頼」(pp424)。この信頼を根拠に「パレーシア的な極は、キリスト教の大いなる神秘主義的伝統の起源にあったものであると私には思われる」と示唆しています。これが一つ目の極。ここまではわかりやすい。
 次回はパレーシアがネガティブに受け取られた例をまとめます。(この話題は執筆しているうちに議論が多くなってきたので後回しにして偽ディオニシオスを先に取り上げました。同年9/24追記)
 ChatGPTは検索用の文章を出してもらって、それで検索かけてオリジナル文を確認する必要があります。また、写本、翻刻の校訂版についても気になりますが今はスキップします。
Life is mystery.

【ネットで読める関連文献】
フーコーのパレーシア 相 澤 伸 依, 東京経済大学 人文自然科学論集 第 130 号 (2011-02-23)
フーコーにおけるパレーシアと預言者の真理陳述  塚越健司, 専修人間科学論集 社会学篇 Vol.4, No.2, pp.89~9,2014
M. フーコーにおける「自己への配慮」藤田博文, 社会学評論 59(3) 493
対話を通して現れるもう一人のわたし : フーコーの 「パレーシア」を手掛かりに 渡邊 陽祐 , 臨床哲学のメチエ. 2017, 22, p. 211-269
ミシェル・フーコーにおける古代の霊性 ー自己への配慮、パラスケウェー、パレーシアー 桑原旅人, 言語情報科学 = Language and information sciences 16 251-265, 2018-03-01, 東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻
パレーシアステースとしての企業家 : 小倉昌男にみる企業家的真理ゲーム  伊藤博之, 筈井俊輔, 平澤哲, 山田仁一郎, 横山恵子,  日本ベンチャー学会誌, 37: 11-24. 2021-03
ミシェル・フーコーにおける言語と自由の問題   柴 田 秀 樹,  関西フランス語フランス文学 22 巻 (2016)
ミシェル・フーコーの倫理学(1) 一一「自己構成的主体」の概念についての試論一一関良徳, 一橋研究 21 (4), 107-131, 1997-01-31, 一橋研究編集委員会
ミシェル・フーコーの倫理学 (2 ・完) -「自己構成的主体」の概念についての試論- 関良徳, 一橋研究 22(3) 25-45, 1997-10-30
ソクラテスの遺言-ミシェル・フーコー『真理の勇気-自己と他者の統治Ⅱ-』-abrasan365’s diary2016-01-18
長期連載エセー『「自己への配慮」と詩人像』(十七)その二, 小林稔 詩誌「ヒーメロス」25号、10月25日発行
キリスト教における結婚観と修道士の出現(十二)その2、小林 稔 個人詩誌『ヒーメロス』20号2002年3/25
【古代中世言語をやっている人ゆえのつぶやき】ドイツ哲学者ニーチェの本職は古典ギリシア文献学だったことがあまり知られていない件 ヤシロ note 2019年7月20日
解放への志向.思想家の沈黙 -フーコーと真理のケームー 周藤真也 ソシオロゴス1999血23
フーコーの現象学 「解釈」をめぐって 慎改康之 『現代思想』第 25 巻第 3 号掲載論文 (1997)
「障害者」の主体形成に見るアイデンティティ・ポリティクス  北島 加奈子, Core Ethics Vol. 16(2020)
物語るロマネスク霊性 - 池上俊一著 『ヨーロッパ中世の宗教運動』(2008年)




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