なにかに縋って生きていたかった。
恋愛関係についてのあの頃の下書き。
特定の人間たちの視界に入れたくなくて、ずっと下書きに残していたものたち。時効になっていてくれ、どうか。
過去の未熟な眩しさを、諦め半分憧れ半分に供養することにしたのは、その青さがもうどこか他人事になってしまったから。
2020/04/28「寂しさの暴力」
失恋の傷のままに書きなぐった青さのようななにか。「好き」の感情の定義は学べないままで、人との距離感に臆病になってそれを大人なのだと言い聞かせた。
2020/12/13「『恋人』」
アイドルという名の信仰に染まっていたころ。どんな愛もいずれ冷めてしまうのだと、どんな夢もいずれ醒めてしまうのだと知った。その知見は、寂しくも美しかった。
信仰を失った今のわたし
思えば、気がついた頃から年単位でなにかに夢中になっては飽きてを繰り返してきた。アーティスト、クラスメイト、ソシャゲ、アイドル、イベント。熱狂的に盲目的にハマって、1年前後でスパっと目が覚めて。冷めたあとはその対象の名を耳にするだけで苦くて酸っぱくて少しだけ甘い感情が心を過ぎる。2016年に好きだった楽曲たち、2018年に救われていた偶像たち。かさぶたを剥がすように時々触れては痛みを快感と錯覚する。
直前に妄信していたのは、とある地下アイドル。先の下書き供養でいうところの恋した人。その呪いが、祈りが解けてから早くも9ヶ月が経ち、人に嫌われたり、好かれたりしながら生きている。ほどほどに人を好きになったり、人と距離を置いたりしつつも、年単位の信仰に狂わされることはなくなったなと感じた。
人生における今の私が、もう青い春じゃなくなったからなのだろうか。穏やかな季節と言う点では夏でもないよななんて思いながら。
春的ななにか
好きな季節を問われたら迷うことなく夏だと答える。寒さに弱くて暑さには強い体質も理由のひとつだけど、夏は儚くてなんとなく無敵でいられる気がするから。その刹那の無敵さは春と名のつく青さに勝る。
秋は寂しい季節だという。だんだん寒くなる季節だからだろう。秋であることが言い訳になるような寂しさなら、冬の寒さにも春の花粉にも夏の儚さにも寂しさの責任転嫁をしてしまえばいいのに。寂しさの影で鮮やかに視覚を味覚を刺激してくる。
寒さは身体的にも精神的にも厳しい。この街の冬は、頼んでもいないのに芯に響く痛さを教えてくれた。クリスマスのイルミネーションや、誕生日を迎えることへの期待、お正月の晴れやかさみたいに恋が華やぐ季節でもあるけれど。
出会いと別れの季節、花粉の時期、なんとなく毎日眠い。気が滅入るから春は好きではなかった。今年の3月は比較的安定しているけれど、これは成長なのか、それとも今年はまだ春になっていないだけなのだろうか。前者だと嬉しい。
自分の心理状態を季節に重ねるとして、穏やかなものは春だと思った。いや、3ヶ月も幅のあるものに重ねるのは無謀だったのかもしれない。少し言えそうなのは夏のように儚く、秋のように鮮やかで、冬のように華やか、そのような「恋」あるいは信仰はもはや存在しなくなっているということ、今の対象への自分の心理状態は春のようだということ。3月のようにまろやかで、4月のようにあたたかく、5月のように爽やかなもの。
緩やかに、でも確かにある愛情や恋情がたとえ鮮やかでも華やかでもないものだったとしても、儚いものではありませんように。
対象との距離が近すぎる物事について、人は文章書くことができないと聞いた。こんなに滔々と信仰について語れるのはきっともうその域にいないということ、そういうことなのだろうか。ほんの少しの寂しさを、まだ寒い冬の名残と、飛び始めた花粉のせいにして。
連想ゲームのネタにしますね。