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偶像を追いかけて

アイドルという職業がある。それはもはや生き様かもしれない。
世界を飛び回る人も、手の届きそうな近さで舞う人もいる。

私は、アイドルが好きである。
顔の良い女が好きだというのもあるけれど、それ以上にアイドルという概念が好きだ。

これは、アイドルについてのお気持ち表明。

僕は君に幸せでいて欲しいけど

アイドルは「恋愛禁止」という規範のもとで活動している場合が多い。異性との絡みはなければない方がいい。彼氏がいるとわかったら悲しい。

この時代に、人に「恋愛するな」という構造の方が間違っている。職業にそこまでの覚悟を求めるべきではない。人の気持ちを動かすことはできないのだから、応援してるならそこも含めて好きでいるべきだ。

そんな言説を目にして、耳にした。
アイドルの色恋は、面白いコンテンツのように取り立たされて、その子を好きじゃなかった人も好きだった人もみんな言いたいことをいう。

私は、アイドルの恋愛は知らないでいたい。

好きな人がいても、交際している人がいても、結婚している人がいてもいい。例え彼女がアイドルという仕事を、あるいは生き方を選んだのだとしても、人を好きになる気持ちを止めることは第三者にはできないはずだから。

それでも、夢は見せてほしい。
アイドルに憧れて焦がれて、発する言の葉ひとつひとつに踊らされ、向けられる笑顔の刹那に狂わされているのだ。私たちに見せない表情は、存在しないままにしていてほしい。

自分が一番好きなアイドルの恋愛や交際が公になった経験はないから、そのような機会が訪れたときにどのように心が動くのか分からない。本当に好きで好きなら許せるのかもしれないし、好きで居続けられるかもしれない。分からないけれど、多分気持ち悪く思ってしまうのではないかと思う。

好きな子しか買わないことにしている写真集を買うくらいには好きだったアイドルの熱愛を知った時に心に浮かんだ感情は、拒絶だった。好きだった部分全てが嘘に見えて嫌いになった。絶望して、動揺した。「好きならどんな姿でも応援すべき」なんて綺麗事だった。誰かと交際してるのも同棲してるのも、好きにしていればいい。だけど、それが世の中に流出するような振る舞いはしないでほしいと思った。

アイドルの熱愛なんてものは、報道されるべきではない。面白いコンテンツとして扱われるべきではない。アイドルのこと私より好きじゃない人たちがガス抜きに使っていいおもちゃじゃない。

アイドルを演じている間は、誰よりも輝いていてほしかった。誰かの救いであってほしかった。光であってほしかった。

たとえそれが、前時代的な口約束でも、アイドルは恋愛禁止でいてほしいのだ。恋人が欲しいだなんて、あの人が好きだなんて、ファンには知られないでいてほしいのだ。

どうか届かないままの星でいて

アイドルのことだいすきだから、どうか手の届かないところにいて欲しい。

大学の卒業論文でアイドルを推している人にインタビューをした。「推しと繋がれたら繋がりたいですか?」繋がるというのは、ここでは、私的に交流を持つこと。ファンとアイドルの枠組の外側で関係を持つこと。繋がりたいかどうかはファンによると思う。

大好きな人であれば、全てを知りたいと思うのはそれほど不思議なことでもないだろう。=LOVEの「だからとて」という楽曲でも「僕のエゴだとわかっても全てを知りたい」と歌われている。君は今どうしてる?何してる?笑ってる?

好きなアイドルには笑っていて欲しい。それでも、私に見せない面があって欲しい。自分の知らないところがあるから、その人のことを好きでいられる。ファンには知り得ない余白に物語があり、色気がある。

アイドルなんて、気まぐれかのように見せたいところだけを見せてくれていたら良いのだ。切り取られた一枚の笑顔から、零された一連の言葉から、からその裏側を思って考えて、その届かなさに諦めを感じつつも焦がれる、これが私たちに許されたアイドルとの距離。

昔好きだった地下アイドルと、最悪の形で二度と会えなくなったことがある。自分以外のアイドルを好きになることを許せなかった彼女と、他のアイドルを見たことを伝えてしまった私。私は幼くて、彼女も幼かった。フォローしていたインスタもTwitterもブロックされた。2年半も前のことである。もう忘れていたはずなのに、先日友人から見せられた最近の写真が頭から離れない。ステージから降りて3年近くなるのに、まだアイドルなのかと、遠ざかったからこそ余計にアイドルなのかと思い知らされた。悔しかった。


繋がれる機会があったとしても、アイドルとは絶対に繋がりたくない。アイドルは私とは違う世界に生きている存在であってほしいから。手の届かない存在でいつづけてほしいから。

私は多分、アイドルになりたいんだと思う。
アイドルを好きになったのがあと何年早かったら、という妄想をする。アイドルの概念を一年半も寝かせつつ論じるのだって、アイドルオタクの気持ちを知りたくて卒業論文を書くのだって、「私の方が顔が良いのに」と思いながらアイドルを眺めるのだって、私と同じ出身大学の名を背負うことでそこに立っているアイドルに苛立つのだって全部そう。アイドルにはなれないって言い聞かせて諦めた私が、アイドルに手を伸ばしてしまう試みでしかない。

諦めたからこそ、手を伸ばさなかったからこそ心に残るものの重さを知っている。その重さを美しいものだとしてしまっているのも自覚している。好きで好きで憧れて焦がれて、その上で心に蓋をしたこと。

雨模様のソラリスは楽曲「届かない星でいて」で「どうか届かないままの星でいて、もしも触れられたら壊してしまいそうで」と歌う。アイドルが美しいのは、儚いのは諦めという名のその距離にあるのだと、信じている。それが例え、無意識下にはアイドル諦めるための言い訳だったとしても。憧れとちょっといびつなこの気持ちが、今日も気づかれないように。

美しいままにしておくために、アイドルはひとつ上の次元に感じているくらいがちょうど良い。だからこそ、今、何をしてるの?どこかで歌っていて、と祈るために。≠MEの「君はスパークル」はその点アイドルとファンの関係をよく歌っている。

「歌ってる君が綺麗、ちょっと泣いた」という歌詞がアイドルファンを引き込むのだから、アイドルは信仰で宗教だとは、よく言ったものだ。

生身の偶像

私はいまここに、いかにアイドルが素晴らしいか述べたが、それでもアイドルは私たちと同じ人間であり、そして多くは年下の少女である。その構造の不気味さはアイドルファンである私が魅力を滔々と語るからこそ浮き彫りになる。

アイドルを好きでない人は言う。「アイドルを推すのは歪なアイドル産業に加担すること」「生身の人間に課金して、(擬似)恋愛対象とするのは非倫理的」「アイドルを推しても意味がない」「ルッキズム、性的搾取」これらの言説に苛立ってしまう箇所があるのは、少なくとも部分的にはその発言が意味のあるものであり、つまりアイドルファンである私に刺さるものだからである。

アイドルとファンの構造は確かに宗教的であるが、資本主義に呑まれてしまっているのも事実。私がアイドルに使った数百円、数千円、積もり積もった額はおそらく百万円を超えるだろう。そのうち、いくらがアイドル本人に還元された?それはわからない。

アイドル構造が、その点で問題を抱えているのは確かである。倫理的でないと言われても、非生産的だと言われても仕方ないと思う。それでも、アイドル産業はそういうルールのもとで今のところ文化として存在し続けているのだ。

郷に入れば郷に従え、などと言う資格はない。そのムラ社会が「劣っている」としたら、それは「矯正される」べきだという主張がなされるのも分かる。(個人的にはその論理は強者の論理なので好ましく思っていないものではあるが。)

ところで、アイドル-ファン以外の人間関係間感情は、グロテスクなものではないのだろうか?偶々近くに位置取ったから好きになり、好意を行為にぶつける振る舞いは、金銭を払ってルールの上でなされるままごとよりも美しく正しいものなのだろうか?

私は、金銭が媒介することによって形式に乗るからこそ、卑近な人間関係においてなあなあで許されているところに線が引かれるのだと思う。これは、ある種の正しさである。

それでも、アイドル産業が歪なことに、アイドル産業にまつわる生々しさに、無条件に目を瞑るべきではないことも分かっているつもりである。だから、上の問いが「そうだ」と反論され、説得されるのを、心のどこかで待ち望んでいるのかもしれない。

それまでは、アイドル文化が、その構造が、確かに歪んだものだとしても、そこに敬意を払って生きていくしかない。私がアイドルに救いを求めてしまっている以上、正当な対価としての金銭を払い続けるべきであるのだ。

アイドルが、好き。

私は、アイドルが好きだ。
自分の好きなものを、人にとやかく言われるのが悔しくて、このnoteを書き始めた。

アイドルは儚い。儚いけれど、とても強い。
落ち込んでいるとき、寂しいとき、頑張りたいとき、嬉しいとき、私に力をくれる。画面の向こうで、イヤホン越しに、はたまた手の届きそうなステージで。

本当は、自分の好きなものは自分だけのものでいて欲しいけれど、アイドルは誰よりも好きだから、全員がアイドルを好きになったら良いなと思う。

このnoteを読んだ人が、アイドルを嫌いにならないことを、願って。次にアイドルを語るときは、もう少し文献にもあたりつつ書こうと思う。

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