私にとっての「いつも通り」がわからない
双極性障害の躁でも鬱でもない状態とは
「だいぶフラットになった?」
主治医に躁状態を抑える薬を出されて、毎週聞かれるセリフ。
双極性障害になってから、自分で心と体の調子を数値化している。
平常時を50として、鬱気味になると30、20と数値が下がっていき、躁状態になると70、80と上がっていく。
「50くらいになった?」主治医に聞かれる。
1月の地震の影響がかなりあって、躁状態になった。
そこから自分の体調を客観視できないでいる。
そこから平常時に戻るように薬をやめたり、変えたり、量を増やしたり。
そして毎週の通院で、主治医に「平常状態かどうか」を見定められ、毎度聞かれる。
ところで、平常な状態、50の状態、フラットな状態とは、どんな状態なのだろう。
昂ることもなく、鬱々と落ち込むこともない状態なのだろうか。
今の私は毎日図書館や、コワーキングスペースに出かけて、いろいろ作業をしている。
気持ちは少しずつ落ち着いてきている。
だが、主治医からすると私はずっと躁状態。
フラットな状態と聞かれても、困る。
平常の意味、フラットの意味
いつもと同じであること・・・。
私にとっての「いつも」がわからない。
仕事をしていれば外出はするし、買い物もする。
買い物のせいでお金を使いすぎる、浪費癖ももう病気なのか、元来備わってしまったものなのかわからない。わからない。
起伏がないこと。平であること。
起伏といえば感情が思い浮かぶ。
感情の起伏がない人は冷たい人だと思われる気もするけど、
感情の起伏がありすぎる人は双極性障害だというのか。
ちなみに起伏の意味も調べてみる。
高くなったり低くなったりしていること。
盛んになったり衰えたり、さまざまな変化があること。
なるほど。
双極性障害持ちには震える言葉が並んでいる。
高くなったかと思えば、一気に急降下。
高い間は気分爽快、急降下はできればしないで欲しい。
しかし今最も震えて恐ろしく感じるのは、
「起伏がない状態」、「フラットな状態」。
毎日変化があって、それが日々の彩りに感じている。
これがないとなると、時間が止まってしまっているようで。
主治医は私に何を望んでいるのか。
スマホを見て、家から一歩も出ず、時に昼寝をするような1日を望むのか。
(まあ、医師に望みなどないかもしれないが)
私にとってのいつも通りとは、
日々いろんな方に出会って、新しい知見が得られる。
やりたいことがあれば、やってみる。
そういうやったことを通じて、自分が何を感じるのかを観察する。
それが私にとってのいつも通りのはずだけど、
躁の状態が「いつも通り」と認識しているのならば、
私にとっても「いつも通り」とは何なのだろう。
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