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不十分、完璧

「〇〇は対策として不十分である」
「〇〇は△△がないため不十分である」
このような主張は、政治、SNS、ゼミ、記事など、様々な分野・機会で見られる。「不十分」という言葉は、相手や対象を評価する際に用いる。

しかし、「不十分」と連呼されると、一つの疑問が生じてきた。この言葉を用いている人たちは、何をもって、あるいはどのような条件が備わっていたら「十分」だと見なすのだろうかということである。対象を批判するためだけに、「不十分」という言葉を安易に使ってはいないだろうか。本来、批判は目的ではなく手段のはずである。つまり、今の状況をより良いものにするためになされる行為ということだ。

「〇〇は対策として不十分である」どのような策なら十分と言えるのだろうか。〇〇を埋める策が講じられた結果、全体として内部矛盾を孕むような状態になったり、そもそも机上の空論になったりしていないだろうか。また、「〇〇は△△がないため、不十分である」となったとき、△△の部分が解消されれば十分なのだろうか。

逆に「十分〇〇した」というのも考えものだろう。それは一面的な認識に過ぎないかもしれない。例えば、費やした時間、投じたお金の多寡、あるいは人的資源をどれだけ投じたかなど。これらのどれかひとつを切り取るのではなく、これらの要素を必要かつ十分に含めることが求められるように思う。

大切に扱わなければ、言葉はその力を削がれてしまうだろう。

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