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ちょっとだけ、呑みたい気分

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※ 痛く重い表現が含まれているので苦手な方はページバッグを推奨します。


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20歳になってから1年が経過した。

この1年はずっと年齢が「大人」を主張してくる恐ろしさと「ハタチ」という初々しさに縋っていたような気がする。


21歳になり、ソワソワしている。
大人の大先輩に言うと怒られてしまいそうだが、この年齢の響きをきくとなんだか「遂に大人の階段を登ってしまった…」という気持ちになる。


実際はまだ、大人歴ほんの1年。
「よーいドン」のピストルが鳴り響いてからたった数分の息が荒くなってくるところを「頑張れ」なんて言葉でつつかれながら、必死に足掻いてる最中なのだろう。

まだ何もわかっていない。だからこそほんの些細な日常の出来事が大きくのしかかり、その都度ゴールにむかって走り続けているような気分になる。

それが正解なのかどうか模索しながら今日も生きている。


そんな体験のうちのひとつ、
「大人の特権」を利用した。

お酒を呑むこと。

親が酒呑みなのにも関わらず、私は普段お酒を呑まず、たまに呑んでも1杯で眠たくなって満足してしまう。
(これが「酔い」と言うのかどうかはまだ分からないけれど。)

しかし、今日は3杯も呑んでしまった。
それはそれは珍しい話。眠くなることもなく、活発に呑むことができた。

親は「やっとこっちの世界にきてくれたか。」なんて喜んだけど、私は少し怖かった。

「アルコール」に頼ってしまっているのではないかとおもったから。

悪いことだとはおもわない。
むしろ、程よいアルコール摂取であれば体に良いと言う話は何度も聞いたことがあるし、
3杯で体に害を及ばさないことは分かっている。

特権により、頼り口が増えること。


「大人になる」ってもしかしたらこういうことなのではないかとおもってしまった。




だとしたら、私は今まで何を頼りに生きてきていたのだろう。

自分の心とのうまい付き合い方が分からず、誰を頼ればいいか分からず、誰かに頼ろうとするも、結局1歩引いてしまうのが私。

大人になるにつれてどこか成長してきているように思えていたけれど、根幹は何も変わっていない。



中学生の頃、いじめにあい、先生から理不尽なことを言われて不登校になった経験がある。

その頃の私は頻繁にパニック ※ASDの影響 を起こし、ほとんど自意識のない状態で階段から転げ落ちて怪我をしたり、親に秘密で自分の手首に刃物を突き刺したりしたが、痛みを感じることはなかった。

きょうだいからも当時の私は例えるなら
猛獣のようで、優しさなんてミリ単位も存在しておらず、ただただ怖かったと話を聞いている。

ただ、当時の友人からはずっと優しく明るい温厚な印象だと話を聞くので、上手に外面とほんとの私を使い分けることができていたのかもしれない。

その頃の記憶はほとんど捨ててしまったが、刃物に触れたとき、そうすることで
私が「ここに存在している」という事実に胸を撫で下ろしたかったのかもしれない。そんな気がする。

頻繁にパニックを起こしていた私が少しづつ丸くなってきたのが高校に入学した頃、
新たな環境に足を踏み入れたことで目の前が少し明るくなったことを覚えている。

それでも辛いことが重なり、耐えられなくなる度にパニックになり、物を壊すことがあった。

しかし、以前のように自傷行為をすることはピタリと止まり、私自身も安心していた。

もしかすると(私の特性は変わらずとも、)
「新たな環境」という場所があの頃の頼り口で、安堵する生活をおくることができていたからかもしれない。



だが、それから数年たった今、私は再び手首に刃物をあててしまった。

今の私。21さいの私。大人になり、本格的に夢に向けてスタートをきり、ずっと走っている。苦しいところにいるのは間違いない。

それでも私は幸せだ。そう信じている。

だって私には夢がある。もがくことができる環境がある。共に夢を追ってくれる親友と、道を質してくれる恋人、傍で支えてくれる家族がいる。

この環境には「頼る」ことができていない。
一体なぜなのだろう。


きっと全ては私の中にあるプライドが巻き起こしたもの。大人になってきたからこそ、無茶しても平気だとどこか油断していたのかもしれない。

ここ数日、体調不良が続いている状況をうけとめきれず、ストレスを感じる出来事に直面し、「自分がどうにかするしかない。」と大きな責任感を背負って戦おうとした。

その問題は私が体調を崩して休んでいる間に
案外あっさりと片付き、1人で足掻いていただけだったのだと、心にポカンとした穴が空いた。

自分の心に耳を傾けなかったから
理由のない(と思っていた)涙を毎日流し、戸惑う自分に納得がいかず、ここまできてしまった。

あまりにショックだし、情けない。

こんなメンタル状況で「大人」であろうとすることなんて絶対にできない。

周りの人にすごく申し訳ないことをした。


ただ、前回の自傷と違ったことがひとつだけ。とても痛かったこと。
一瞬刃に触れただけで震えて、軽いかすり傷と水膨れのようなもので済んだ。


それは今幸せで、ちゃんとここに立つことができている証拠なのかもしれないと、そう思う。


そんな状況だったからこそ私は「アルコール」という言葉に敏感になり、大人の特権に縋った。
そんな気がするだけ。


うまい生き方が分からずにいるから、
これは私なりの息抜き、縋り方の正解ではないとおもう。

まだまだ葛藤して生きるしかない。
そしてお願い。
未来の私はこうなる前に頑張れますか

もう多くの人をがっかりさせないでいられますか

「今日はちょっと呑みたい気分」という大人は
ここに縋ることで、今日も生きていけてるのかな。

それが心地いいのだとしたらそれはきっとすごく上手な生き方。

「大人になる」ということはそういうのも含めて、上手に生きていけることなのかもしれない。

お酒に縋るときくと少し寂しい気もしてしまうが、ここに立ってちゃんと息してることがほんとにすごいことなんだと思う。

私が今後どう歩いて、どう生きるか
自分なりのほどよい休憩と、息の仕方。
どうかどうか見つけてね


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後書き

この記事では人によってはASDは周りに悪影響を及ぼすものと捉えられてしまうような出来事を綴ってしまいましたが、私はそうは思いません。
日常生活に支障がでてしまうことはとても苦しく、自分が今後も向き合わなければならない問題だと危惧しています。
しかし、私がASDだったからこそ「文章を書く」ということを通して自分の境遇から同じ立場にいる方や当事者と関わりがある方の心にほんの1ミリでも響いたらいいなと感じています。
自傷行為をしてしまうとき、私の場合はパニックになったときのほんの一瞬の出来事でほとんど記憶がありません。「衝動」です。自分でもわけが分からないし、ひどく後悔をしてしまいます。だからこそ、似た状況の方がいたときにほんの少し寄り添うだけで、心が軽くなると思います。
疾患とうまく向き合って生きる方法は21年生きていても分からないし、次パニックになったときに自分が何をしてしまうのか、私も家族も恐れている問題です。
だからほどよく脳みそを冬眠させて自分の心に耳を傾けるのが今の私の近い目標です。
世の中には疾患がなくても辛い想いをしている人が大勢いると思います。
だからこそ今日もここに生きてるだけで特別なことだとおもいます。
ひとりひとりが自分らしく前に進めますように。
拙く、ぐろい、しんどい文章をここまで読んで下さってありがとうございました。

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