見出し画像

読み物としての料理本

ぼくが料理をするのは自炊ではなく炊事であるから、毎日のように台所に立つが、こと自分ひとりの分を作るとなると途端にやる気がなくなる。
自炊というものは自分のためにするのであって、家族のためにするというのは炊事であるから家事の一環なのである。
もちろんぼくによる解釈ということなのだけど。

まぁそれはある意味もっともな話しで、ぼくの場合、料理は自炊から始めている。でもラーメンとか食わせておけば腹の虫はおとなしいものなのだから、なにも面倒な煮ものや(実際にはそう面倒でもないのだけど)揚げものなんかをやる必要もない。
後片付けのことなど思えば食器の類はできるだけ汚したくない。
でも家族に食わせるとなると、これは話しが違う。
旨いと唸らせねばならない。
それでこそ台所に立つ意味があるというもので、そのためであれば少々の汚れものや面倒ごとは厭わない。
要はモチベーションの問題だ。

そんなぼくが料理をする上でのバイブルとして、あるいはひとつの戒めとして長年読み返しているのが檀一雄さんのこの著書である。
檀一雄さんは「火宅の人」などを書かれた小説家であり、また女優の檀ふみさんのお父さんである。
自ら放浪癖があると仰るだけあって、実に世界中の様々な場所を訪れておられ、またそこで見知り、また味わった料理の数々をご自身の手で再現されている。
そのいくつかを本書で書かれていて、レシピももちろんだが読み物としておもしろい。
まぁ文筆家が書くのだから当然といえば当然だが、短編であるからさっと読めてしまう。

本書からひしひしと伝わるのは檀一雄さんの異常ともいえる料理愛だ。
この人は本当に料理が好きなんだろうなと伝わるのである。
特別変わった食材を使うわけでもないのだけど、手間暇を惜しまず、ともすれば凝りすぎと思えるほどの丁寧さで調理していく。

この間もちょっと書いたが十年とか台所に立っていると、大さじ一杯などはいちいち計らないようになる。
実際そんなに厳密になる必要などないのだけど、まぁ作業ひとつひとつが雑になるのは否めない。
では大さじ一杯を計れば丁寧なのかといえば、もちろんそういうことではないが、先のモチベーションの話しと同じで、心構えや愛の問題なのだと思う。
料理に対する愛があれば調味料ひとつにしてもいい加減な気持ちで放り込むようなことにはならない。
そういうものは得てして最後の味にも少なからず影響するのだと思うのである。

ともすれはおざなりにもなおざりにもなる日々の炊事を、もう一段高めて「料理」に昇華するために本書を読み返す。
なんだか大袈裟だが、それくらいのモチベーションがないと、本来がものぐさなぼくは炊事など続かないのである。

さてタイトルのとおり。
本書は読みものとして面白い。
池波正太郎さんの食に関する著書は外食のため、本書は自身の手で作るため。

今日も自分のため、家族のために台所に立つ男性諸氏(女性にも勧めたいが檀一雄さんの、ちょっと鬱陶しい拘りが邪魔するような気がする)
是非とも本書を手に取り、炊事を楽しんでいただきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?