おだやかな洗脳の手順

あなたは兵士でした。なぜ過去形なのかというと,現在はもう戦争が終わっているからです。現在あなたは,とらわれの身です。終戦直前に,戦争の捕虜として敵国に捕まってしまったのです。

捕まったとき,どのような拷問をされるのか,あるいは形だけの裁判をして厳しい労働をさせられるのか,またあるいは狭い牢に長い期間閉じこめられるのか……と想像していました。戦争をしていたときに,相手の極悪非道ぶりを目にしていましたので,どのような目に遭ってもしょうがないと,半ば諦めてもいました。

ところが,あなたが連れて行かれたのは,とある集落でした。その中にしばらく住むようにと言われたのです。集落の周囲には金網が巡らせてあり,兵士の姿も見えます。しかし,住んでいる人々は,昔からその土地に住む地元の人々のようでした。人々はあなたの国の言語も片言ですが話すことができ,生活には何の支障もありません。

毎月一定額のお金も支給され,集落のお店で買い物もできますし,散髪をすることもできます。理容室の男性とは,何度も通ううちにずいぶん仲良くなりました。

週に一度の面会

集落の中で生活する分には,何の苦労もありません。しかし,毎朝9時からは集落の外れにある軍の施設に行って指示に従うようにと言われていました。

最初は,きっと拷問を受けて自分の国の軍事状況などを吐かせようとしているのだと警戒していました。でも実は,そうではありませんでした。担当者はあなたと会話を交わし,普段の生活の様子を尋ねるだけでした。昼には自宅に帰ることができますので,大した負担ではありません。

普段の生活は何不自由なく過ごし,朝には施設に行って雑談をして帰ってくる,そんな日々が続いていました。

文章を読む

ある朝,施設に行っていつものように担当者に会いました。すると,こんなことを言われ,1枚の紙を渡されました。

「この文章を,口に出して読んでもらえますか?」

その紙には,あなたの国の政治制度の欠点が箇条書きで10項目,挙げられていました。たとえば「人々の経済的な格差が大きい」「社会階層が固定化している」「政治的な意思決定に時間がかかる」「経済市場の浮き沈みが激しい」といった内容です。確かに,あなたの国の欠点として,以前から言われていたようなことが並んでいました。

そして,政治的なシステムが異なるこの国では,これらがないといわれているようなことばかりです。あなたはそのこともよく知っていました。あなたは「自分に何かをさせようとしているな」と思い,「イヤです」と拒否しました。

すると,担当者は「そうですか」と言って,次のように言ったのです。

「口に出さなくても良いので,目で追って読んでください」

あなたは「それならいいか」と思い,目で追って読むことにしました。

書き写す

そのまま,自分の国の政治的な問題について書かれた文章を目で追う日が続きました。戦争になる前から,その欠点はよくわかっていたことばかりです。でも,人々はその政治体制の中で幸せに暮らしていました。いや少なくとも,あなたはそう思っていました。

ある日,施設の担当者が「今日は,この箇条書きを書き写してみましょうか」と言いました。「口に出さなくても構いません。こちらの紙に書き写すだけでいいですよ」と言うのです。

それだけでいいのか,と思ったあなたは,箇条書きの内容を鉛筆で新しい紙に書き写す作業を始めました。

毎朝,箇条書きの項目を書き写して,昼になると何不自由ない生活に戻っていく日々が始まりました。家の周囲の人々はいつもやさしくしてくれて,食べるものにも身の回りのことにも苦労のない日々でした。

口に出す

まるで写経のように,文章を書き写す日々が続いていました。書き写す文章の内容は少しずつ過激になっていきましたが,あなたは毎日の作業の中でそれをあまり気にすることもありませんでした。とにかく書き写して,昼には家に帰るのです。戦争中は日々の食べるものにも困っていたのに,ここではお腹いっぱい食べることもできるのですから。

するとある日,施設の担当者は「そろそろ読み上げてみますか?」と紙を1枚,目の前に出しました。箇条書きが10項目,書かれています。

あなたはその内容に目をやります。「人々の経済的な格差が大きい」「社会階層が固定化している」「政治的な意思決定に時間がかかる」……なんだ,ふだん書いている内容よりも,よっぽど穏やかなことばかりじゃないか。

あなたは「いいですよ」と言って,担当者の前で10項目を読み上げました。

こうして日々の課題は,書くことから読み上げることに変わっていったのです。

録音する

ある日のことです。「今日は,読み上げる声を録音しても良いですか?」と担当者が尋ねてきました。

毎日文章を読み上げていたあなたは,「いいですよ」と答えます。でも少し心配になって,「どの文章ですか?」と聞き返します。それに答えるように,担当者が紙を差し出します。「人々の経済的な格差が大きい」「社会階層が固定化している」「政治的な意思決定に時間がかかる」……いつも声に出している文章よりも,よほど穏やかな内容です。あなたは安心しました。

こうして,読み上げた声を録音する日が始まります。自分で録音した声を,あとで聞き直すのです。

録音した声を一緒に聞きながら,担当者は「もう少し抑揚をつけたほうがもっと良くなりますよ」なんて言ってきます。確かに言われるとおりに読んでみると,それらしい雰囲気になるのでした。「うまくなりましたね」と言われ,あなたは少し嬉しい気分になりました。

作文を書く

またある日,施設の担当者は「今日は作文を書いてみましょうか」と言ってきました。毎日の同じ作業に少し飽きてきていたあなたは,「いいですよ」と答えます。作文の題目は,あなたの国の政治システムの欠点と改善方法を述べよ,というものでした。

あなたは「よし,書くか」と,原稿用紙に向かいました。これまでいっぱいこの手の文章を読んだり書いたり話したりしてきたのですから,書くことは尽きないように思えました。

「書いたものを読んでみましょうか」と担当者が言います。あなたは,声にを出して自分の作文を読み上げます。すると担当者は「もう一度読んでみてください。それを録音しましょう」と言います。

次の日の夕方,近くの食堂で夕食を楽しんでいると,ラジオからあなたが文章を読み上げる声が聞こえてきました。驚いたあなたは周囲を見回します。すると店の主人がこちらにやってきて,「聞きましたよ!素晴らしい意見じゃないですか」と褒めてくれました。

解放

捕虜になって何年が経過したのでしょうか。ある日,施設に行くと担当者から,「あなたは解放されます。おめでとう」と言われました。母国に帰ることができるようです。

嬉しい反面,これまで良くしてくれた近所の人々にもお礼を言わなければと思いました。そのことを伝えると,「それはできない。今すぐにここを出ることになっています」と担当者は言うのです。

最後に別れの挨拶ができないことは残念に思ったのですが,あなたはその集落を出発する軍用車に乗り込みました。

帰国

あなたは,数年の捕虜生活から無事に帰国しました。家族にも再会することができ,久しぶりになつかしい故郷の様子を目にし,多くの人が帰国を歓迎してくれました。両親は,涙を浮かべて出迎えてくれました。

実家の近所に住んでいる友人が声をかけます。

「捕虜になって大変だったんだろう。昔からあの国の人たちは,本当に残酷だと言われているからね」

その言葉を聞いたあなたは,なぜか怒りがこみ上げてきました。むっとして,反論したい気分になってきたのです。

「何を言っているんだ。あの国の人たちはそんな人たちじゃないよ。それに,この国の政治体制は欠点ばかりじゃないか。あの国のほうが,数段優れたところがあると思うよ」

あなたの言葉を聞いて,周囲の人は言葉を失ってしまいました。なぜならそれは,以前はぜったいに,あなたの口から出てくるような言葉ではなかったからです。

洗脳

「洗脳」は,“brainwashing”に対応する言葉です。

これは,もともと中国語だったものを英語に翻訳して広まった単語です。それは,朝鮮戦争の時代のことです。朝鮮半島で捕虜になったアメリカ兵士の多くが,帰国後に共産主義にとても寛容な態度を示すことがありました。その様子を描いた論文や書籍が出版されたことから,洗脳(brainwashing)という言葉が注目されるようになりました。

ただし,実際の洗脳のプロセスは,こんなに穏やかなものではないことも多そうです。捕虜が集団で生活していることもあるでしょう。そこではもっと暴力的であったり,集団の圧力があったり,薬物を利用したり,寝不足にさせたり,従わないものに対する暴力といった,もっと強制的に行動させるようなやり方を取る可能性もあります。

私が学生時代を過ごした1990年代前半は,大学の中で新興宗教の宣伝や勧誘が頻繁におこなわれていました。そして「洗脳」のやり方についてもまことしやかに語られていました。それは,今回書いたような穏やかな方法ではありません。もっと短期間に,無理やり考え方を変えてしまうようなやり方です。

しかし,もちろん目的によりますが,ここまで書いたような穏やかなやり方でも,その人の考え方や態度を変えていくことはできるのかもしれないのです。

コミットメントと一貫性

いったん行動をすると,その行動に一貫した行動をし続けようとする傾向があります。最初は荒唐無稽な意見だと考えていても,実際にそのことを口に出したり書いたり,実行したりしているうちに,その意見に合致するような態度に変わっていく可能性があるということです。

これは,ロバート・チャルディーニが著書『影響力の武器』のなかに書いていた,コミットメントと一貫性の話です。そして,前半に書いた洗脳の様子も,チャルディーニの本に書かれていた内容を大幅に脚色したものです。

やり始めると

そんな洗脳のプロセスなんか,今の生活には関係がないと思うかもしれません。

クラウドソーシングサイトで,割のいいアルバイトを見つけました。某国や某政党の問題点をSNSに書き込むという,簡単なアルバイトです。「政府に反抗する書き込みを見つけて反論を書き込んでいきましょう」「今の政権を敵視する外国勢力に抵抗しましょう」「首相の悪口を書き込むアカウントを報告しましょう」……いや別に,今の政府に対して何も思ってはいませんよ。隣の国への反感も特にありませんし,世の中のことにもたいして関心はありません。そもそも,政治にも興味はありません。あくまでもこれはアルバイトにすぎないのです。簡単な作業である程度お金がもらえるのですからいいじゃないですか。ここでアルバイトに申し込んで,いっぱい書き込んで,お金を稼ごうと思っています。

ああ,そうですか……。


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