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第三章1989年後半~1991年 トレーナー活動期第十一回 日本代表チーム帯同 1989年 南米遠征

「平壌から6月26日に帰国し、ワールドカップ予選も終わったし代表帯同もこれで終わりか・・・」
「結構ハードだったな・・・」
「でも、大変だったけれど良い経験ができたな」

北朝鮮で敗戦し傷心と共に帰国して、何か心の中にポッカリと空虚感ある日々を過ごしていたら

サッカー協会から

「代表が南米遠征に行くから7月6日から30日まであけといて」

と連絡があり

「ワールドカップ予選終わったし、代表って解散じゃないの??」
「南米遠征??」
「何のために??」

確認したところワールドカップ一次予選通過することを想定して、二次予選に向けた強化目的の遠征だったそうです

「一次予選敗退してしまった今、必要??」

なんて思いましたが、サッカーの強いブラジル・アルゼンチンに行けるチャンスはそうそうないと思い帯同することにしました

ヨーロッパ遠征ではユーロ88‘を観戦する事ができ、今回は南米選手権決勝を観戦できる特典付きで、なおかつブラジル代表とテストマッチまで組まれていました

帯同スタッフ、選手は

約一ヵ月間、選手20人をスタッフ6名、マッサージ、テーピングなどは野﨑一人で対応するという悪夢の再来です

成田からロスアンゼルス経由サンパウロまでのフライト

当時の代表は今とは違い飛行機移動はエコノミークラスでした・・・
そして、その機内でとても辛いことが起きました・・・

エコノミー3列シートの真ん中
両サイドに横山監督・落合コーチ
ロスまでの約10時間、緊張でほぼ「背筋を伸ばして、気おつけ」状態で過ごしました・・・

ロスでトランジットのため機外に出るときに

「あれ・・」
「体がうまく動かない・・」
「普通に歩けない・・」

監督とコーチに挟まれて体がカチコチになってしまっていました(笑)

ロスからサンパウロまでも約12時間

またほぼ「背筋を伸ばして、気をつけ」状態アゲインでした・・・
「まだ立ちっぱなしの方が楽かも」でした・・・

サンパウロからリオまで、また飛行機に乗りやっとホテルに到着できました

が、しかし次の日に遠征前半の滞在地であるアルゼンチンに飛行機で移動しました

「この二日間でどんだけ飛行機に乗って移動してるんだ・・」

時差もあるし体はガチガチだし・・・
南米遠征は最低のコンディションでスタートしました・・・

アルゼンチンの宿泊先はドイツのスポーツシューレみたいな施設で

そこは、共同トイレ、共同シャワー部屋にはベッドがあるだけ・・・

「もしかして刑務所??」
「なにか悪いことした??」

的な場所でした(笑)

広い空間に簡易的な間仕切りがしてあるだけの部屋 もちろん各部屋カギはなし
共同洗面所
共同シャワー
トリートメントルーム
当時、移動用ベッドもなく床の上にマットを敷いてトリートメントしてました

アルゼンチンは、国民の数より牛の数が多い国らしく朝、昼、晩の食事時には毎回ステーキが山のようにプレートに乗っていました・・

最初は喜んでいた選手たちも、さすがに三日目位からはステーキには殆んど手を付けていませんでした(笑)

アルゼンチンでは9日~13日まで中1日で3試合というハードな日程をこなし

9日  エストゥディアンテス・デ・ラ・プラタ 1‐2●
11日 ボカ・ジュニアース 2-2△ 
13日 インデペンディエンテ 0‐2●

通算一分け二敗という成績で終わり約一週間のアルゼンチン滞在を終わり、14日にブエノスアイレスからリオに向かいました
そして遂に16日には南米遠征の目玉の一つであるコパ・アメリカの決勝ブラジルvsウルグアイを超満員のマラカナン競技場で観戦です

立錐の余地もないマラカナン競技場

客数148,065人を飲み込んだマラカナンは競技場全体が波打っていて、まる巨大な生き物のような雰囲気でした

結果は49分にブラジルのロマーリオがゴールしブラジル四回目の優勝で、試合後は大騒ぎ競技場全体が跳ね上がっていました

試合中から一階席で観戦していた日本代表チーム御一行様の上に二階席から正体不明の液体が降り注いでいました

「この液体は???」

アテンドの人に尋ねたら

「いろんなモノだよ(笑)(笑)(笑)」

不吉な予感

もしかして

「オシッコ??」

アテンドの人
「その確率が一番高いね(笑)(笑)(笑)」

「マジか・・・・」

「宿舎に帰ったらすぐにシャワーを浴びねば!!」

確かに立錐の余地もないほど満員で、トイレに行けなかったような・・・

お祭りのような南米選手権決勝が終わり、
18日 クリチーバ   0対1●
20日 ジョインビーレ 1対1△ 得点 黒崎選手 17分
23日 ブラジル代表  0対1● 得点 ビスマルク 74分
27日 パルメイラス  1対0○

4試合を中1日、中2日、中3日と過密日程で行いました

18日のvsクリチーバにはその後帰国しヴェルディに加入する三浦知良選手が出場していました

試合の合間、練習グラウンドが取れなかったのでリオの海岸でダウンする選手たち

そして今回の南米遠征のメインイベントは、23日に南米選手権を優勝したブラジル代表との親善試合がやってきました

試合前日に英気を養うために日本料理屋さんで食事をしていると

ブラジル人スタッフが配膳のたびに
「明日は6対0でブラジル」
「8対0でブラジル」
「遂には10対0でブラジル」

などなど
サッカーではあまりお目にかかれない点差でブラジル代表が勝利すると超上から目線で予想していました・・・

我が日本代表チーム御一行様は反論ができず苦笑いでかわすしかありませんでした・・・

会場はヴァスコ・ダ・ガマのホームである4万人弱入るサンジャンヌアリオで約2000人の観衆の中で行われました

メンバーは、カレッカ、ドゥンガ、ベベット、ロマーリオ、などなどの一週間前に南米選手権で優勝した試合に出場していたブラジル代表選手たちです

前半はシュートの雨をキーパー森下選手が神がかり的なセーブ連発で0点に抑えましたが、前半から8人を入れ替えメンバーを落とした後半は、選手たちがアピールするために前半より全体の流れがスピードアップし前半以上にヒヤヒヤするシーン多く、いつやられるのかな?という感じでした

74分、のちにヴェルディーに加入するビスマルクにゴールを割られ0対1の敗戦

試合記録が無いので何とも言えませんが、シュート数はすごい数打れましたね

試合よりもすごいと思ったのが試合が終わって宿舎に帰りテレビをつけると沢山のサッカー番組を各チャンネルでやっており、弱小日本代表から1点しか取れなかったブラジル代表vs日本代表の試合を論評していました

詳細はポルトガル語なので分かりませんが、ほぼ全チャンネル内容は一緒で

・日本代表に1点しか取れなかったブラジル代表の不甲斐なさへの批判
・ブラジル代表が雨のように放ったシュートを神がかり的に防いだ森下選手への賛辞
・試合中に(後に浦和レッズ監督になる)チッタ選手を負傷退場にしてしまった井原選手への批判

などをコメンテーター達が、まさに≪口角泡を飛ばす≫とはこの事かと言わんばかりにエキサイトして激論していました

約一か月の南米遠征を終え

「やれやれ、やっと帰国か!」
「でも、またまた両サイドを監督、コーチに挟まれたまま24時間帰るのか・・・」

がしかし、グッドニュースが飛び込んできました

なんと帰国の飛行機がエコノミーからビジネスクラスになりました!!!

地元のコンダクターさんの頑張りと、当時ブラジルを襲っていたハイパーインフレのおかげで円がブラジルレアルに対して最強に強かったからだったそうです

「確かに、選手がホテルで両替したら帯付きの札束をもらってたな」

来るときは監督、コーチに挟まれた真ん中の席から解放されてユッタリと帰国できたことは、この一ヵ月頑張ったご褒美だったのではと思えました(笑)(笑)(笑)

1989年代表活動もこれで終わりか・・・
と思いましたが帰国すると、あと4試合組まれていました

それらはまた次回

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