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俳句沼/俳句は難しくないよの話

俳句が好きだ。とてもおもしろい。愛おしい。頬ずりしたくなる。
出会いは大学の授業だ。俳句論とかじゃなくて、がっつり句会をやるものを受けていた。毎週、2、3の俳句を持ち寄り点数をつけ感想を言って最後に作者名を発表する。先生は現役の俳人で、ホワイトボードとかプリントとかテストとかレポートとかそんなまどろっこしい片仮名は存在しなく、真に句会をすることがその授業の(そして単位の)すべてだった。そんなストロングスタイルの空間になんかおもろそうという理由だけでひとり飛び込んでしまった私は、かなり慄いていた。でも、実はそんなに堅苦しい場でもなかったのだ。後輩の子がお菓子をくれたり、私より出席率の高い猫のぬいぐるみがいたり、氷菓が季語の歌会ではみんなで教室を出てアイスを食べたりした。購買前、ギターケースを背負った先輩たちが昼寝をする新緑のベンチで、久しぶりにガリガリくんを食べながら、趣きとは心の余裕だ、とか一人前に思ったのを覚えている。

こうして私は俳句沼にはまった。卒業制作で俳句を作るくらいに。結社とか入ろうかなとネットをサーフィンするくらいに。
でも、俳句に馴染んでこなかった私はわかるけれど、俳句ってハードル高いよね。今日は俳句をやる前の私のイメージと、意外とそうじゃなかった、という話がしたい。
深い知識で人を導くことはできないけれど、こんなに楽しんでるやつがいるなら俳句ってちょっとおもしろそうだな、となんとなく伝われば幸いです。



俳句はこわい


数年前まで、私にとって俳句とは気持ちのいいリズムでしかなかった。「池に飛び込む蛙の水音」という情景は斬新ではないと思ったし、ふるいけの、かわずとびこむ、みずのおと、と口の中で転がすとちょっと楽しい。感想はそれだけ。
小学校で俳句を習った記憶もあるけど、鑑賞の仕方というより、「夏っぽいことを言いましょう。クリア条件は575で作ること、こちらが指定した単語をひとつ入れることです。ノリで「や」「かな」などをいれるとぽいので褒めます。それでは始め。」みたいな感じだ。
大人になってからはもっと恐ろしいもので、創作はもちろん鑑賞のハードルも高かった。自分の教養や品性に審判を下されるような、むしろ断罪されるような印象すらあった。
きっと、俳句を怖がっているのは私だけじゃない。自分の顔と「才能ナシ」という文字が大きな画面に映って、深い声のナレーターさんが自分の17音を読み上げて、周りにあり得ないでしょと笑われて、いつき先生に大きな赤いばってんをつけられること。タレントさんのように悔しさを露わにすることもできず、え~むずかしいですね、やっぱりよくわかんないや、教養がなくてだめだなあ、なんて笑いながらぼそぼそ話して、赤い耳を隠す瞬間が、怖くてたまらないのだ。別にプロの俳人になるなんて考えたこともないのに、どうして想像するだけでこんなにいたたまれないのだろう。俳句とは、神様がランダムに配った才能を搭載していなければ会話に加われないもので、そんなことになるくらいならずっと責任のいらない傍観者として、何も考えずに人の作品を笑ったり尊敬したりしていたい。そっとしておいてほしい。

けれどもちろん、人を裁くための芸術なんてない。もちろんわかってたけどさ、やっぱりプレバトの厳しさは俳句を世の中に広めるためのキャッチーな演出なんだよ。いつき先生と浜田さんは断罪者ではなく、ただ、エンタメのプロなだけなのだ。私は音痴だしなんの楽器も弾けないけど、米津玄師はメロディーがすごいよね、斬新だけどキャッチーで、とか言ってみたりする。俳句だってそれくらいの楽しみ方をしていいじゃんね、と思う。「池に飛び込む蛙の水音」は斬新じゃない。でも、かわずとびこむみずのおとはなんかアゲだ。それだけでいいのだ。

俳句はバズらない


俳句の特徴は、短歌と比較するとわかりやすい。句会以前の私のように、俳句は蛙が水に飛び込むやつ、短歌はサラダ記念日を制定するやつ、と覚えている人も多いのではないだろうか。
自明だが、俳句と短歌は文字数が違う。片や5・7・5、片や5・7・5・7・7の定型詩だ。風の噂だと短歌はいまめちゃくちゃ流行ってるらしい。俳句はたぶんあんまり流行ってない。切ないけれど、短歌の方が俳句より作り手にとっても読み手にとってもとっつきやすい文学なので、仕方ない気もしている。
 人が読みやすい一文の文字数は25文字から50文字の間らしい(諸説ありまくる)。短歌が31文字とちょうどいいのに対して、俳句はちょっとくらい字余りしても20字に足りないし、もっと言うと大抵の季語は3~5音くらいは占めるので自由に使える言葉の数はさらに減る(25音のクレイジー季語もあるらしいけど)。短歌と俳句と聞くと同じくらい短いイメージがあったけれど、実は入れ込める単語の数が圧倒的に違うのだ。

また、短歌と俳句は詠む対象そのものが全く違ったりもする。
俳句の大きな特徴のひとつは、身体感覚の表現だ。景色が見える。音が聞こえる。においがする。こんな味、こんな肌触り。場面を瑞々しく写実して、読み手はそれを追体験する。これはコツさえ掴めばめちゃくちゃ楽しいのだけど、如何せんビジュが地味だ(水の音とか、夏草とか、おもろいけどインスタ映えはしないかもしれない)。
対して、現代短歌は主観的な叙情を歌うのに適した形をしている。先述の一文の長さもそうだし、俳句より口語を使うハードルが低い。季節を限定しなくてもいい。言葉選びで世界観を出すのにも、世相を斬るのにも、ちょっとした大喜利をするのにも、短歌は楽しいツールだ。沓冠とかいう飛び道具も使える(これは和歌のやつだっけ)。連歌とかいう最強アクティビティもできる。アイドルさんもホストさんも芸人さんも短歌を作るのは、現代リアリズム短歌が、脳内言語に近い芸術だからじゃないだろうか。
短歌はズルい。読んだあと心がさらさらして、スキップしたくなる。何もない道ばたに会釈さえしてしまう。ほんとうに正直なことを言うと、私は句集と歌集では読み終わるまでの時間が全然違う。俳句より短歌の方がずっと読みやすい。

でも、それでいいんだよ。それがいいんだ。
これだけ好き放題に言っても、やっぱり私は俳句という芸術に特別な光を感じる。
例えば、俳句は文字数の縛りが強すぎて1文字で全てが決する。そこに痺れるのだ。
「菜の花や月は東に日は西に」という俳句がある。私はこれを読むと、圧巻の菜の花畑、その頭上左右で雄大に沈む太陽と慎ましく現れた月を想像する。目の前にはさざめく黄色、あっちの空は穏やかに赤く、こっちの空は底知れぬ紺、天穹にはまろやかなグラデーション。天文的な時間の流れさえ感じるし、異様で、わくわくする。でも、実際にそのシーンを見ても、私にこの句は作れない。私がそれを描くときはまず、菜の花畑とか一面に春の色とか、たくさんの菜の花が咲いている、という表現に注力すると思う。すると、月と太陽が同時に現れた空模様は諦めざるをえない。菜の花畑とまったく関係のない東の月と西の日を取り合わせれば広大な空間に複数の菜の花を配置できて、加えて複雑な色彩も描けるなんて考えつきもしないだろう。切れ字を入れているから菜の花の存在感がなくなることもない。憎いね。私が作ったら「眼前に広がる菜の花昇る月」とかになりそうな情景を、与謝蕪村はこんなにもリズミカルに軽々と、イメージの余白をたっぷり含んで描くことができているのだ。蕪村やりよる、さすが教科書に名を残す勢の本気は違うよな。

俳人に限ったことではないけど、芸術の著名の人は、しばしばこうやってイメージを支配する。他人の脳に自然と入り込むなんて神様みたいだなと思う。名句があんまりすごくなさそうに見えるのは、たぶん、切り口が綺麗すぎて斬られたことに気づかない的なあれなのだ。お前はもう死んでいる宣言もしてくれないから、そのことに気づきもせず平然と生きてしまう。

俳句は難しそう


完全に私見だが、俳句は意気込んで読むと難しい。行きたい喫茶店があるからおともに選ぶくらいがちょうどいいと思う。
そういえば私は流行りの日本語ラップが好きだ。韻とかサンプリングとかクラシックとか何もわからないけど、それでも知性のシャワーを浴びているだけで楽しい。俳句もそれくらいでいいんじゃないかな、と思う。尽力して相手に良いものを届けることが優しさなら、ラップも俳句も同じくらい優しいし。

俳句の解釈は、意外と広がっている。例を出してみよう。

 風邪心地世界の端に引っかかる

これは児玉硝子さんという方の句で、これが紹介された『俳句いまむかし』で選者の坪内棯典はこう語る。

「この気分、よく分かるなあ。私も風邪を引くと、世間や家族に少し距離ができて、ポツンと頼りなく自分がいる、そんな感じになる」

私は逆だった。
下品なジャンル分けを敢行すると、私は生きづらい方の人だと思う。昔からそうで、精神科の病名をつけてもらったりもしているけど、あんまりしっくり来ない。苦しい気持ちなのは私だけじゃなくて世の中の人はみんな何かしら抱えているらしいから、普段から、自分はいま病的に苦しいのか?苦しくないのか?という問いに悩まされ続けている。偏頭痛という概念を知らない人は、頭が痛いときに手を挙げて保健室に行けるだろうか? 風邪はあなどってはいけないから、不謹慎なのは重々承知だが、風邪に苦しむとき、私は苦しむことを疑う苦しみのないことが嬉しかった。不調に悪寒や吐き気や頭痛という名前がついていて、一言でみんなに伝わるのが便利だった。この薬を飲めば治る、というほぼ確実な希望が、涙が出るほど嬉しかった。
風邪心地であると、普段は仲間にいれてもらえない世界の、端っこの方に、引っかかることができるのだ。
私の読み方は編者の稔典氏とは真逆のもので、もしかするとまるで情感をまるで読めていない見当違いなものかもしれない。でも、だからなんなの?と思う。作品がある。鑑賞が生まれる。それを手助けできることはあっても、邪魔できるものなんてあるだろうか?
芸術を自分の都合で消費してはいけないなら、オマージュなんて生まれようがないし、それが禁止されたら世界の営みはすべて止まってしまうよ。
私はこの句が好きだ。勝手に自分の状況と重ねあわせて、好きな俳人と解釈が合わなくてもやっぱり好きだ。その勇気さえ出せば、世界のなんだって好きになることができる気がする。

俳句はおもしろい


ここまで愛を語ったけれど、ダメ押しで終わりにします。

現代の私たちの目には、「バズった文章」が留まることが多くなる。この文章には大抵、共感がある。ツイートも、小説も、哲学書も、もちろんnoteも、拡散の鍵は共感と新たな知見のバランスだ。認知の上澄みをすっきりと提示してくれるような文章。すぐに思いつくもので言うと、無知の知なんかはバズったワードの最たるものじゃないだろうか。何かを深く考えたり、スポーツや表現活動を深めるとき、人間は自分の無力を知ることになる。知を怠けてどんどん堕落していくあの取り返しの付かないイメージに馴染みがあるから、無知の知と聞くとあれねあれ!知ってる!とすんなり受け入れることができるし、それまで自分が感じていたことに言葉をつけてもらえるのは嬉しい。脳に映える。

そういう、書き手と読み手が寄り添い合う共感の表現は豊かな気持ちになれるからたくさん摂取したいのだけど、でも、それしか目にしない自分にずっと疑問もあった。共感をくすぐられる快感に終始して、物事をわかった気になっているだけでいいのだろうか?ジャックポットの比喩表現に身を投じて、全体化と個別性のシャトルランで汗を流して、言語野だけが肥大して、表現と現実がオーバーラップする瞬間で人生が埋め尽くされたら、そんなのって健全だろうか。現実を小説みたいと表現するときに、心のどこがずきんと痛まないだろうか。勝手にエモを吹き込む前に、まずは情景そのものを愛せよ。帰納も演繹も必要ない、言葉を尽くしたら台無しになる言葉を、私はもっと鑑賞したい。私の目に映るものはあるあるネタの複合体じゃなくて、偽物なんて存在しない、ほんとうの、この世界だから。
解釈の及ばない瞬間が好きだ。大自然の中に居るとき、善悪や俯瞰はもちろん、歴史も激情も役に立たない。満員電車や喫茶店で正面の人を見るときも。単一の、暴力みたいな具体性に立ちすくみ、美しいとかしか呟けなくなるとき、呆けながら、人間とはやはり芸術がなければ生きていけないのだと考える。そのあとに、やっぱり善悪や激情だってないと困ることを思い知る。

俳句は写実の芸術だ。菜の花畑がある。月は東に、日は西にある。風邪を引く。世界の端に引っかかる。古池がある。蛙が飛び込んだ水の音がする。柿を食う。法隆寺の鐘が鳴る。たったそれだけ、それだけしか喋らない。私はそこに激しい寂しさも滂沱の愛おしさも宇宙も歴史もすべて含まれることを知っていて、けれど、そんなものまるでないみたいに、それだけしか喋らずにいてくれることが、こんなにも嬉しいね。

ドトールでケチャップ抜きのホットドッグとアメリカンのスモールサイズを頼む。梅田サイファーと韻踏合組合のセッションを最小音量で流しながら、捻典老の『俳句いまむかし ふたたび』を読む。みんなが、然るべきタイミングで然るべき俳句に出会えたらいいな、と毎日思う。

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