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すきぴとの心中をやめにした話

言葉という得体の知れないものに命を賭して肉薄したい。近頃の私は、その欲求で死にそうになっていた。
こんなに愛しているのに、どうして私の書く文章はつまらないの?悪い大人にひっかかったヒロインの顔をして鼻を啜りながら、許さないんだから、とハンカチを握りしめる。狭窄した視野が捉えたのは凡庸で極端な単語だった。

私、言葉と心中したい。それを生涯の目標としたい。

この間、生まれてからの時間のほとんどで敬愛している作家さんの、未読だった本を読んだ。お花屋さんに憧れる女の子の話と、亡くなった猫と物書きのお母さんの話だ。
この人の本を読むときはいつもそう。明確なFAQはないのに、圧倒的な解が目の前に立ち現れる。まばたきの度に鱗がぱちぱちと溢れるような。温かい物が食道をすとんと落ちてきてお腹と地面が近くなるような。
私は愛されている、と思った。言葉に愛されている。

違ったのだ。言葉に愛されるということは、いい文章が書けることだけではなかった。才能を切り札に選出されて神がかった表現を生み出し続けることだけではなかった。その人の文章をごくごく読んでいるとき、私の生命は完全に受容されていて、私も言葉のことを完全に受容していた。私と作者ではなく、私と言葉が、なんの相対もなく、ただ、ふたりきりになる。
愛は結果論じゃない、かもしれない。瞬間にのみ宿るのか?その錯覚、その真実。

やめやめ、心中はやめだ。
だってあいつは私を愛しているから。
それに、よく考えたら言葉って概念だから、私が死んでも死なない気がする。私が死んでも言葉って生き続ける、めちゃくちゃ当たり前のことじゃん。なんで気づかなかったんだろう。誰か言うてくれよ。それほど切迫していた。

私は愛されている。
なんて響きだ。言葉に愛されている。なんて満たされるのだろう。甘いため息が出る。世界が輝いて見える。新聞社に勤めていなくてよかった。もしそうだったら、「私は言葉に愛されています」という訳のわからない号外をそこらじゅうで配っていただろう。
そっか、だって、言葉はみんなを愛しているのだから、私のことも愛しているに決まっているか。あ、今ちょっと嫉妬した。他の人よりちょっと多めに愛されたいから、私はやっぱり文章を書くだろう。文章でお金を稼ぎたいな、というゆるい気持ちも変わらずにある。
きっとこの先、愛し合うが故にぶつかることもあるでしょう。ほんとは私のこと愛してないんでしょ!?と八つ当たりすることもあるでしょう。それでも言葉と私の逢瀬を阻むものはないのだ。なんてったって愛し合うふたりなのだから。えへへ。

これは慢心だろうか?私の文章はこれからどんどんつまらなくなるだろうか?でも、私は自分のために文章を書いているから、自分のために文章を書くと言うことは、それを読むあなたのことを心の髄で肯定しているということだから、別に大丈夫か。
もちろんこんな文章を書く私ってばとても気持ち悪いなという気持ちもある。若さ故の大袈裟?鳥肌がたつ? でも、自分に必要なことをひとつひとつ獲得しているのだ、それ以外に自己を確立する方法がわからないのだから、仕方ないじゃんね
断言は救いだ。
断言はたぶん救いじゃない。
そうやって強くなってきた。

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