大帝ポペAの公演『今宵、分裂する世界と癒着するいくつかの嘘』を観て

2019年2月24日に、大帝ポペAの公演『今宵、分裂する世界と癒着するいくつかの嘘』を観た。千秋楽。

会場は並木坂にある続Rude Bar。前回訪れたのは、2018年1月26日に上演されたポークパンダ三歳実験ライブ『猿のたけなわ』だった。こちらの企画・構成は、今回の『今宵、分裂する世界と癒着するいくつかの嘘』で演出を務めた井上ゴム氏。あれからもう1年以上が経つのか。

『猿のたけなわ』と同じように、『今宵、分裂する世界と癒着するいくつかの嘘』も会場を生かしたBarが舞台となって戯曲だった。(会場が先だったのか戯曲が先だったのかわからないけど)。

本作を見て思うところは色々とあったんだけど、これを読み解いていくキーワードとしては、本の名前にも使われている「分裂」が適切なのではないかと考えている。

分裂しているのは何だ

「分裂」とは何かを考えるにあたり、まずは「何」が分裂しているのかを考える必要があるだろう。それは「世界」なのか「お前」のどちらが分裂しているのかという問題だ。

本作は全部で1時間半ほどであったが、開始から1時間ほどまでは、それほど大きな展開は見られなかったように思う。バーの店員1人とお客が2人。お客の1人は店員のことが好きだが、店員はバーのマスターと結婚していることを知ってしまう。それをもう一人の客がいじる。演出にシュールさはあるものの、割と定石通りにラブコメのプロットをなぞっていると感じた。それが開始から60分。振り返ってみれば、麻弥がたくちゃんと「異常に偶然に頻繁に出会う」も「分裂」への伏線だったのではないかという気がすれば、それはあくまで伏線である。

物語を破壊的に進行させてしまうのが、麻弥の双子の妹「ミキ」の存在だ。ミキはたくちゃんとセックスフレンドの関係にあったが、そのミキに対する麻耶とたくちゃんの認識が異なっている。

たくちゃんは、ミキと「ただれた関係」になったのはちょうど東日本大震災の起こった日だと言っている。帰宅難民になったたくちゃんがミキの家に泊まったのがきっかけだった、と。

一方で麻弥は、その前にミキは死んでいると話す。ミキの葬儀が終わった後、東京から熊本に戻るために空港で飛行機を待っているときに被災したと言うのだ。

普通に考えれば、双子の姉であるはずの麻弥が妹の死んだ時期を忘れるわけがない。ましてや、東日本大震災をその直後に体験しているという強烈な体験があるのだ。しかし一方で、たくちゃんも東日本大師山菜が起こった日にミキとただならぬ関係になったという強烈な記憶がある。しかもたくちゃんが決定的なのは、東日本大震災の1年後に開業した東京スカイツリーの前で撮った写真が手元に残っていという部分にある。

ここでは、通常では絶対に起こり得ないことが起こってしまっている。それは一体なぜか。

前半戦の60分では特に何も大きな事件は起こらなかったが、奇妙な現象が二回起こった。それは、麻弥とたくちゃんがそれぞれ一回ずつ、別の人物として立ち現れたということだ。その変化は僕たち観客には自明なものであるが、舞台上では誰か一人しか気づかない。

そしてその伏線が最後につながってくる。どうやらこのバーは「出る」らしいという情報がある。それもただ「出る」だけではなく、どうやらこのバーは違う世界と空間を共有しているらしい……と。(余談だが、この「僕らの今ここ」の世界と何やら奇妙な異世界が混じり合うモチーフは、『猿のたけなわ』にも出ていたものだと思う。)

最後にこの情報が挿入されたことで、僕らはこの演劇に一応の説明をつけることができる。この演劇世界では、どうやらえ演劇の中の実世界とは別の、何やら異世界が存在しているらしい。だから作中に人が入れ替わったりするし、ミキの死期もずれて認識されているのだろう、と。

そして話は最初に提示した「分裂」の話に帰ってくる。分裂しているものは、一体なんなのか。私たちは、演劇空間は非日常が許される空間だと解している。これは別に演劇空間に特有のものではなくて、映画だって漫画だってアニメだって、おおよそフィクションと呼ばれるものの中では、不合理的な現象も、フィクションだからあり得るのだろうと納得してしまう。この時点で、分裂しているのは「世界」だという認識になる。

しかし同じ現象が実生活の中で起こったらどうだろうか。たとえば僕がミキの死期を正確に記憶していたとして、僕にはその死期を証明する証拠もある。しかし他の人が、僕に対してそれは間違っていると言ってくる。こちらの正当性を証明しようとしても納得してくれない。このとき、分裂しているのは「お前」だ!と叫びたくなってしまうだろう。世界が分裂しているわけはない、そう考えるのが普通だ。

しかし、お前が分裂していると主張することは、ひとつの危険を孕んでもいる。

分裂しているのは、自分の方ではないのか?

そんな問いが自然と頭をもたげている。

自分の、あるいは「お前」の知覚や記憶がずれているとき、分裂しているものは結局のところ一体何なのだろうか。それは究極的にはわからないし、知覚の主体たる自分の中では別にどうでも良い問題だ。あるいは、同じ問題を別々の地点から観測した結果だとも言えるだろう。そんな意識を戯曲の中に感じた。

そのほか

続Rude Barは非常に良い箱で、実際のBarの設定を生かしながら、ギャラリースペースなどでよくある変形舞台ではなく、普通に第4の壁を感じながら(?)観劇できる。しかも終わった後に、お客さんを交えての二次会をはじられる。

残って飲んでいきたいところだったけど、次に用事が控えていたので終演後は少しだけお話して帰った。この場所でまた上演されるときは、ぜひゆっくり残って飲んでみたい。

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