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偏愛diary ―電話ボックス―

誰にでも、人には言わないけれど、どうしようもなく惹かれてしまう少し偏った「好き」はあると思う。

あまりにもマニアックでニッチだと、噛み砕いて説明しないとよく伝わらない。説明する機会もあまりないかもしれない。

ここでは、あえて偏った好き「偏愛」を深掘りして、なぜ好きなのかを考えて言葉にしてみようと思う。

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私は、電話ボックスが好きである。少しレトロな緑色の公衆電話が好きというわけではなく、電話ボックスのあの空間に、どうしようもなく惹かれてしまうのだ。

広い公園に居た電話ボックス。透明でかわいい



初めて電話ボックスが気になるようになったのは、コロナ禍1年目の2020年の秋の初めだった。

雨の日の帰り道、電話ボックスを使っている人がいて、中と外との温度差で少しだけガラスが曇っていた。

それまでにも電話ボックスが使われている場面を見かけることはあったけれど、ガラスが曇っていたのは初めてで、モザイクがかかってよりプライバシーが守られている印象がした。


そんなことを考え始めたら、あの空間がたちまち気になるようになってしまった。今では街で見かけると、そこだけ空間がトリミングされている感覚になる。

無限に続いている外界を、電話をする行為・時間のためだけに全て同じ寸法で切り取られている。

そして、「電話をする」という行為と、ぴったり人1人分の空間が1:1で対応している。


行為と空間が1:1で対応しているものは他にもある。例えば、証明写真機とか、試着室とか…。けれど、それらは壁や他の建物に側面が触れている。

一方電話ボックスは側面をどこかに寄せて設置されていることもあるけれど、道路の脇や公園の脇などに、なんだか突然現れる。その独自性がたまらなく不思議で、健気に誰かを待っているかのような佇まいに惹かれてしまう。

駐輪場の側に居た電話ボックス。ぽつん、としていて可愛い




また、以前窓と扉について考えたことを書いた記事で、"窓は内から外への一方通行な印象がある"と書いた。



一方、電話ボックスは外から内への一方通行な印象がある。

電話ボックスの外側にいる《3人称》の時は、全面ガラスの内側の様子がありありと見えてしまう。

けれど、内側へ入って電話をかけている《1人称》の時は、電話をかける行為と内容に意識が向いて、外の様子はあまり気にならないのではないだろうか。

その《3人称》から《1人称》への自動的な切り替えが、ガラス張りの空間で可能になっているという点も、電話ボックスの独自性だと思う。

また、ガラス張りの空間だからこそ、電話ボックスの向こう側まで見えることも特徴的だと思う。確かに電話ボックスを見ているのに、同時にその向こう側の景色も見ているのだ。証明写真機や試着室では、それは出来ない。


雨の日、すりガラスのようになった電話ボックスは、外から見るとよりプライベートな空間という印象を持ったけれど、中にいた人は実は、ガラスが曇っていようがいまいが特に変わらなかったのかもしれない。


そんなことをぐるぐると考えながら、今日も電話ボックスの横を通る。



この記事を書いた人:keina
コーヒーとフィルムカメラが好き。

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