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「ゼロ時間」へ 〜すべてが“完成”する瞬間〜

アガサ・クリスティは、「全員が(その完璧なる殺人が実現する)ゼロ時間に向かって近づいていく」と言った。

でも実際は、その言葉よりももっと深い意味で、すべてが“ゼロ時間”へ向かって、進んでいる


人生のすべてのことが、遠い遠い“過去”まで含めて、
何もかもが相殺(キャンセル)されて、“ゼロ”になる。

人生の謎。家族の意味。味わわなければならなかった境遇。どこまでもつきまとってくる“呪い”。・・

あらゆることに理解がもたらされていき、「はじめから、そうなるようになっていた」という感覚が、今ありありと浮かび上がってきている。

会計では、すべての取引の「±」がバランスするようになっている。
人は、あらゆる感情や思考の“歪み”を釣り合わせて、なんとか均衡を保っている。

そんなふうに、ミクロの局所的な視点でも、あらゆることが“ゼロ”によって統べられているけれども、それはマクロの大局的な観点でも同じ。


人生は、+や−を“強化”していくのか、それともすべてを消していくのか。

そのどちらであっても、素晴らしい。
もちろん両面があっても、等しく味わい深い。

ただ、あるとき“ゼロ”へと向かっていることを感じ取ったなら、そしてそこへ向かうことをはっきりと意識したなら、人は必ずそこに向かう「時間」へと入っていく。

それは、+や−に満ちた地上の「世俗的な時間」とはまったく異なる、もう一つの時間。
僕は、そんな「奇跡の時間」を歩んでいく。


今はまだ、その“計画”の全貌を、はっきりと解き明かすことは出来ない。

それでも確かに、自分のこの人生のさまざまな状況や、登場人物を含むあらゆる要素が、すべてが不可分に、互いに欠くことのできない「パズル」のピースの凹凸のように、あるべきものとしてここにある。

そんな感覚が、今、リアルな手触りをもって感じられる。

この感覚は、ちゃんとした言葉を使えば、すべての時空を統べる“オーバーソウル”の観点が、自分のローカルな意識に交差するときに生まれるものなのかもしれません。


***

この“痛み”が無ければ、果たせない夢があり、
それを成し遂げるには、その“痛み”の本当の解放がどうしても必要になる‥

「ヘビはその尻尾を追いかけて、自らの頭を食べるのか。」


ゼロ時間とは、あらゆるもの、すべてが“完成”する場所。

「最後にしか“完成”しない」

そのことばだけが、はじめから自分のなかにあったけれども、それはまさに、そういうことなのかもしれない。

その奇跡のような“瞬間”を果たすことが、
自分のこの人生に、結晶のように刻まれた仕事。

その感覚が、どこからともなく漂ってくる、おぼろげで曖昧な朝もやのようなものから、次第にはっきりとした輪郭あるものへと、濃密さを増してきている。

最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました!これからも、いい記事を届けていけるよう励みたいと思います🤗⤴︎