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「多様性の理解」って、何が分かっていたら「理解」なんだ? 「理解ある」友人の言葉

 「理解増進」とか、「国民の理解」とか。
 セクシャルマイノリティに関する法案のあれこれだとか、今年はオリンピック関連でもよく目にしたり耳にしたりする言葉だ。

 だけどここで言う「理解」って何なんだ、曖昧なままの定義では達成されているのかどうかなんて判断できないまま、いつまでも「理解」を待つことになるんじゃないか……。

 そんなことを時々思う。
(LGBT法案や同性婚については個人的には、制度が先行して理解が後から追い付けばよいのでは、と思っている。というか前者は理解を促すための制度化そのものだけど……)

 そして、このトピックに関して思い出す友人との会話があるので、この記事ではそれを紹介したい。

 私は性別違和があり、性自認が固まっておらず(というか「少なくともシスジェンダー=自認と身体の性別が一致している状態ではない」という状態で固まっている)、そういう意味でも性別がほぼ同じひとと付き合っている。
 そのことを伝えている友人のひとりは、大学以来の付き合いで、ほぼ唯一の男友達だ。サークルと学部・学部内の専攻まで一緒だったので、もしかしたら大学時代に一番一緒にいた友達だった。大学二年生か三年生のとき、当時はバイ自認だったのだけど、何かのタイミングでそのことをカミングアウトしていた。
 パートナーと付き合い始めたのは私が休学を経て一年遅れで社会人になってからだったけれど、その頃でも定期的に一緒にご飯に行こうと誘っていて友達付き合いが続いており、一番初めに付き合ったことを報告した相手だった。

 文学部だったのでジェンダー関係の作品が教材として挙げられることもあるし、彼は自分でセクシャリティについてある程度調べているとも言っていた。それに何より付き合いが長いことの安心感や、パートナーができたことを感慨深く思う彼が話題を振ってくるのもあって、報告した後も私とパートナーとのことはしばしば話題に挙がった。

 そういった中で、理解ある友達で助かる、みたいなことを伝えたとき、彼の返しにハッとしたのが、「まあ否定してないだけで理解してるっていうのもあれだけどね」という言葉だった。
 前置きが長くなってしまったけれど、この言葉が今回紹介したかったものだ。
 さて、前述の通り、その友人はマイノリティ当事者ではなく、ただセクシャリティについてある程度自分で調べたことがあるとは聞いていた。知識を持っているという意味で「理解」していただろう。
 けれど、そうしてセクシャリティについて調べたかどうかを「理解」と呼ぶかと言われるとそうではない気がする。きっと調べたことを知らずに同じように肯定的な反応をもらっていても「理解ある友人」と思っていたはずだ。

 私はバイであること(大学時代)やパートナーがいること(ここ3年ほど)を、話題の流れによっては友達に隠さずカミングアウトしてきて、「理解ある周囲」に恵まれてきた、と思っている。最近では妹にもカミングアウト済みで、理解ある妹、と思っている。

 だけどその周囲の友人や妹がしてきたことって、何だ?
 ただ否定せずに「そうなんだね」と言ってくれたこと。
 特別な人ができたことを祝福してくれたこと。

 それだけで本当に、じゅうぶんだった。

 あるいは、「同性愛に対する理解」という言葉があるのなら、「異性愛に対する理解」とも言えるはずだけど、そのときの「理解」って何だ?
 同性婚に「国民の理解」が必要なら、異性婚は「国民の理解」がなされているはずだろう……って、これはちょっと話題が逸れる気がするのでやめるけど。

 とにかく、こうして考えてみて私が思ったのは、「それが間違っていたり劣っていたりするわけではないものとして認識する」というくらいのことを「理解」と呼んでいるのかな、ということだ。
 だから例えば「二次方程式の理解」なんて言うときの「理解」より、「多様性の理解」と言うときの「理解」の方が、「理解度」みたいなものはとても浅いのではないだろうか。

 でも確かに、LGBT法案が国会提出されずに終わったときの「理解に欠ける」議員の方の言葉なんかを見てると、それくらいの「理解」さえしてないんだろうな、と感じてやるせなくなる。

 間違っていたり劣っていたりするわけではないと認識すること。それを「理解」とするならば、「多様性の理解」というときの「理解」とは、「否定しないこと」で済んでしまうのかもしれない。
 簡単なことなのに、と感じたからこそ、それが簡単ではない人々の意識はどうしたら変わるのか、重く難しい問題だと思ってしまった……。
 私がパートナーと家族になるには、そういった人々の「理解」を本当に待つ必要があるのか、とも疑問に思う。

 ただ色々な人がいて、自分も「色々な人」の一員である、ということ。
 セクシュアリティに限らず、個人が持つあらゆる要素の中でマイノリティであるかもしれない要素なんていくらでも可能性があって、例えば左利きであること、例えば車椅子で生活していること、といった目に見えるものから、アレルギーがあるとかそういう、機会がなければ目に見えないもの、それから和食が苦手、米が苦手、みたいな困り事まで無限にあるだろう。
 そのどれかには当てはまるかもしれないんだから、あらゆるマイノリティの問題は自分事じゃん、と私は考えている。
 ある要素でマジョリティと異なる誰かを否定しないことは、ある要素でマジョリティと異なる自分を否定しないために必要なスタンスではないのか……。
 まあ、そうしたスタンスが共有されることまでいくと理想論かもしれないけれど。でも個人の考えとしては、心からそう信じている。

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