バイセクシャル→Xジェンダーの順で自認したけど、逆だったのかも

 性自認はシスジェンダー(女性)とXジェンダー、性的指向はバイセクシャルかポリセクシャル(あるいはパンセクシャル)。我ながら性別について定まっている部分がほとんどないな、と思う。
 そのことを迷子みたいだと思って少し凹んだこともあったりしたのだけど、最近自分の思考がアップデートされてきたので、これはその思考たちを一度整理しようと思った文章です。

1.どちらかの性別だけを好きになるって分からない/Xジェンダーの概念を知る

 遡れば小中学生の頃からだったんだなと思うけど、自分がバイセクシャルだとはっきりその言葉で自認したのは大学生になってからだった。
 色々な言語化を経て、バイ自認の理由は「どちらかの性別だけを好きになる感覚が分からないから」といったところに落ち着いていた。
 それは言い換えれば「どちらの性別を好きになればいいか分からない」とも似ていて、バイだと自認してからも、実際アクセクシャル(無性愛者・恋愛感情が誰にも向かない)に近いのではと思ったこともあったし、あるいは結局自分はいきなり恋愛感情に飛ぶタイプではないと思っているから、あとは男性の“カノジョ”になる自分が想像できなかったので、今後好きになりやすそうなのはそもそも友達が多い同性の方なのかなと思ってみたりもした。
 だけどレズビアンという言葉はあまりに、こう、「女」感みたいなものを強く感じてしまって、違う気がする、と漠然と思った。
 このあとのXジェンダーの話で繰り返すことになるけど、レズビアンは「女を好きな『女』」であるわけで、その頃にはもう「自分の肉体の女性性に対する嫌悪感」があると言語化して感じていた(今もそう感じている)私には、振り返ってもやはり、確かにレズビアンを自認することは難しかっただろうな、と思う。

 自分のバイ自認については、「その他」みたいだな、と思う時期もあって、「どちらの性別を好きになればいいか分からない」という自分の感覚を、冒頭でも書いたように、迷子みたいだ、と思って落ち込んだこともあった。
 少なくとも今でも、自分のバイ自認は「どっちの性別も好きになれる」みたいな積極的な恋愛感情を前提にしたものじゃないな、と思っている。

 さて、Xジェンダーという言葉に出会って自分はそれなのかも、と思ったのは、バイ自認の後、大学2年の後半とかだったと思う。
 その言葉を知ることになったのは確かジェンダー論の授業で、その授業の中で「心の性別とは何か」ということが扱われて、その問い自体も新しい発見だったのだけど、自分事として答えが出ず、Xジェンダーという概念を同じようなタイミングで知ったことで、それなのかも、と思ったのだった。
 とはいえ中性的(あるいは両性的)でありたいという信念も別にあるので、性別違和なのか自分ではっきり自信を持てなくて、未だに自分の性自認はシスジェンダーとXジェンダーを行き来しているか、その両方だと思う。

 そう、だから、性的指向の話に戻すと、男女二元論に立たないポリセクシャル(多性愛・複数性愛)やパンセクシャル(全性愛)を自認する方が適切(?)なのかもしれないと思ったこともある。特定の誰かを好きになったことがなくたって恋愛対象を自認することはあるし、男性と女性以外を好きになることも有り得るだろうな、と思えたので。
 ただそこは積極的な恋愛感情を持っていないので、恋愛(ということにした感情の、って感じだったけど)対象としてこれまで男性か女性を好きになったことがあるからバイかな、と落ち着くところだった。

 あとはバイとしてカミングアウトを繰り返してきたことも、基本的にはバイ自認で落ち着いている理由の1つなのだと思う。
 ポリセクかもしれないしパンセクかもしれないけどバイかな、というところなので、カミングアウトする機会には、自分はバイなんだ、という言葉で伝えていた。
 そうすると、相手の中で自分はバイだと認識されるわけだけど、自分をそう認識する人が増えると、あるいはそう認識してもらう機会が増えると、自分の自分に対する認識も、そう伝えた言葉で強められる気がする。
 大学の友人を中心に多分これまで50人前後とかに話したことがある(恋バナに行き詰まったりモヤモヤを覚えたりしたとき、言ってもいいかなと思うと話してしまうことが多かった)。その数だけ、自分はバイなんだという自認は強められてきたように思うのだ。

2.相対的にジェンダーを意識せずに済む瞬間を持つようになる

 ともあれ、そうして時折迷子みたいだなと落ち込むこともありつつ、自分事の恋愛は存在感が薄かったのでそれ以上何か実感や思考を深めることもできず、まあでも突き詰めなくてもいいか、くらいで過ごしていた。……のだけど、3年前くらいに友達になった友達と、1年前くらいから付き合うことになり、自分に対する認識も色々とアップデートされた。

 彼女とは(あまり恋人としての彼女という言葉を使わないので、これは人称代名詞sheのつもり)、これまで出会ってきた人の中で一番自分に似ている人だと思えるくらい、性格・趣味やこれまでの人生で辿ってきたフィールドにたくさんの共通点があり、そもそも外見の印象が似ているとよく言われるし、そこは自分たちでもそう思う。
 まあそれはそれとして、感覚として似た感じに中性的で、性別にもグラデーションがあるという前提で、グラデーションの中でもかなり近い位置にいると思う(別に、彼女も同じように感じていなくてもいいのだけど、少なくとも私はそう感じていて、そのことを嬉しく思っている)。

 自分と似ている彼女といると、相対的に自分の性別を意識せずに済む。それがたいへん快適で心地よいので、自分自身の性別についての意識というものは既に自覚していたよりもずっと、重大で根深い感覚だったのかも、と思ったのだ。
 彼女といるときのフラットさというか、いい意味の波立たなさは、他に同じ種類の快適さや違和感を思い出すことができない。
 なくなったときに初めて気付く、とは大切なものを失ったときによく言うからこれは少し違うかもしれないけど、不在からしばらくして思い出して存在していたことに気付く、という感覚はそれに結構近かったかもしれない。
 とはいえ例えば、セクシャリティのことを話せる男友達とは、自分たちのジェンダーやセクシャリティの違いを前提に、その垣根なく客観的にあれこれ話すことができて、それはそれでとても楽しい時間だったりするから、性別に対する自分の態度は都合いいんじゃないかと時折思えて、自信を持ちづらいところではある(まあ、パートナーと友達に求めたくなるものは違うとか、言いようはいくらでもあるのだけど……)。

 とにかくハッと気付いたように思ったのは、私の中では実は、性指向よりも性自認に対する違和感が先行して存在していたのでは、ということ。
 Xジェンダーという概念を知るまでは、自分を男だとは思わない、というところから考えを進められなかったから、そして性自認よりも性指向(恋愛)の方が話題になりやすいし身近だから、自認は性指向が先だった。

 でも、自分の性別を意識したくない、自分の性別を定義しかねる、という感覚がずっとあったからこそ、「どちらかの性別だけを好きになる感覚が分からない」し、「どちらの性別を好きになればいいか分からない」と思ったのではないか……と、振り返ってみれば、そう思えてきたのだ。

 そこからもう少しぼんやり考えていて気付いて、とても腑に落ちたのが、バイという性指向は、性自認を問わない、ということだった。これは別にバイに限らないことなのだけど。
 でも例えばホモセクシャルとヘテロセクシャルは、自分の性別と相対的に、同性・異性と定義づけられるセクシャリティだ。レズビアン・ゲイは「女性を好きな『女性』」「男性を好きな『男性』」と、その人の性自認まで内包する言葉だと言える。
 だけど、バイは「両性を好きになり得る(ひと)」なので、その人の性自認までは内包しない。
 自分がレズビアンだというのはしっくりこなかった、と先ほど書いたけれど、この点こそが、自分がバイを自認してきた大きな理由かもしれない、と納得したのだ。

 とはいえ、そのままぼんやりと思考を進めていると、やはり自分は恋愛対象の性別も特定されない人間である気がして、パンセクとかかもしれない、と思えてきたりするのだけど。
 そもそも私は付き合っている彼女の性自認をちゃんと聞いたことはないのでここをパッと定義することができないし、まあどの性自認であっても構わないので、そうするとポリセクシャルかパンセクシャルが適当なんだろうかと考えてみたりもする。
 あるいは彼女もXジェンダーだったら同性愛と呼んでいいんだろうか? ただ私自身がXジェンダーとシスジェンダーとで揺らいでいるので、……いや、でも彼女もその2つで揺らいでいたら……?
 と、そんな感じでまた考えてしまうことが増えたのだけど、ここまで来ると、最早、本当に……、決められない感というか、決めなくていい感も強い。

 多分つまり、「誰を好きか」が決まった以上、「どの性別を好きか」というアイデンティティで悩む必要がなくなったというか、ただ一人の誰が好き、をもとにどの性別を好き、と考えることの逆転感というか……。色々と一周回っている感じがする。
 少なくとも最早「その他」で「迷子」みたい、と自虐感を覚えなくてよくなったので、それはいいことだと思うのだけど。

3.いつかまた何か腑に落ちて納得して嬉しくなりたいので、とりあえず今後も引き続き

・自分の中でまず単語として自認したのはバイセクシャルだったけど、きっとXジェンダー的な性別違和が先行していたからこそバイを自認することになったんだろうなということ。
・そしてバイセクシャルは自分の性別と相対的に同性・異性と定義するわけじゃないからしっくり来ていたんだろうなということ。

 色々思考はまとまらないのだけれど、そしてきっとこれからもセクシャリティは決まりきらないけど、上の2つを発見できたのは結構大きいことだった。

 実際にこうして言語化されなくても自分の内側は変わらないようにも思えるけど、納得して、間違いじゃなかったな、と思えたりするのは嬉しいことだし、その嬉しさは言語化したことで自分の内側に生まれるものだ。
 それに、内側にあるものは変わらないとしても、言語化してある状態とそうではない状態とでは、自分の内側をどう見るか、どう見えるかは全然違ってくる。
 納得して安心して、これから迷わないで済むということは(いや、結論は出ていないのですが)自分にとっていいことなので、こうして文章にして強固なものにしておきたい。

 私にとってあらゆるカテゴリとは、自分が自分で選ぶものであって、自分が何者かを把握して安心したり誇りに思ったりするためのものだ。
 そして、決まりきらなくても把握できた気分になったので、その点に関しては、だいぶ心配しなくて良くなった感覚がある。
 それを嬉しいなと思うし、いつかまた別の何かを発見して嬉しくなれるかもしれないから、まだ結論が出ていない部分は、これからもぼんやりと頭の片隅に置いておこうと思う。

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