見出し画像

【書評】『非認知能力』

はじめに

本記事では、小塩真司編著『非認知能力』(北大路書房, 2021)を出発点として、「非認知能力」という概念について筆者(私)の考えた点を記していきます。

おことわり
筆者は心理学者ではないため、内容に誤りがある可能性があります。また、筆者の私見を多く含んでおり、中には本書に含まれていない議論もあることをご了承ください。

まず、本書の題となっている「非認知能力」という言葉は、認知能力ではないもの(「非」認知能力)という非常に広範な概念を指し示しています(参考)。その中でも、①「よい結果」をもたらすと考えられており、②教育や訓練によって伸ばすことができる心理特性が非認知能力に含まれるとされています(p.9)。本書の序章では、非認知能力について「何かの課題に対して懸命に取り組み、限られた時間の中でできるだけ多く、より複雑に、より正確に物事を処理することができる心理的機能」(p.2)とまとめられています。

本書では、誠実性、グリット、自己制御・自己コントロール、好奇心、批判的思考、楽観性、時間的展望、情動知能、感情調整、共感性、自尊感情、セルフ・コンパッション、マインドフルネス、レジリエンス、エゴ・レジリエンスという十五の心理特性が取り上げられ、そのそれぞれについて、①その心理特性とは何か(定義や測定)、②その心理特性の基礎研究(もたらされる結果)、③その心理特性の介入研究、④その心理特性の教育の可能性、という四つの観点からまとめられています。

総じて言えば、十五の心理特性の近年の研究動向をレビューした本としては大変優れていると思います。一般向けを意識しているからか、かなり噛み砕いて書かれているので、とても読みやすいです。「非認知能力」という概念に興味がない人であっても、幅広い心理特性について勉強したい人が最初の一冊とするのに良い一冊ではないかと思います。筆者も大変勉強になりました。

さて、以下では本書を参照しながら、五つの論点について述べていきます。

1.非認知能力は本当に「よい」ばかりの特性か

本書で取り上げられている心理特性は「よい結果」をもたらすとされているものばかりです。しかし、これらの特性が本当に「よい」ばかりなのかは考える必要があるでしょう。本書を記された心理学者の方々もおそらく同じ見解だと思いますが、よいとみなされるような心理特性にもたいてい悪い面はあるということを多くの心理学研究が示しています

本書の中でも、たとえば誠実性は「高すぎることによる問題が生じる可能性もあります」(p.28)と指摘されています。具体的には、誠実性が高すぎることで豊かな感情経験が抑制されること(Layton & Muraven, 2014)、簡単な仕事のパフォーマンスが低下すること(Lee et al., 2011)などが指摘されています。

では、高すぎなければ問題がないかというとそうとも言い切れません。例えば、誠実性は不適応とも関連の深い「完全主義」と正の相関がある(p.257)ことが指摘されています(Stricker et al., 2019)。誠実性とは端的に言えば「まじめ」ということですが、この社会で生きていく上でまじめが必ず良いというわけではないことは私たちの実感にも合います。まじめに頑張る人が完璧を求めてうまくいかずに落ち込むなど、まじめさが損になる場面もあるのではないでしょうか。

他にも、本書でも取り上げられていますが、自尊感情は Dark Triad の一つでもある「自己愛」と関連することが広く知られています(e.g., 小塩, 1998)。アメリカにおいて、自尊感情を高めようとしたことで、自己愛も高まり、かえって不適応が生まれてきたということをトウェンゲ・キャンベル(2011)が『自己愛過剰社会』という本で指摘しています。

また、これは心理学の研究ではありませんが、最近放映された「ハートネットTV」という番組では、好奇心が高すぎることで、かえって学校になじめない「浮きこぼれ」の子どもたちが取り上げられていました(参照)。「好奇心は猫をも殺す」というイギリスのことわざが本書でも紹介されていますが(p.64)、好奇心も高いことが必ず適応的というわけではなさそうです。

以上の議論から見えてくるのは、非認知能力が「よい結果」をもたらすからといって、それを高めようとすれば「副作用」がついてくる可能性がある(p.257)ということ、あるいは、よいとされている心理特性でも場合によっては不適応的になる可能性があるということです。


2.非認知能力には相反する特徴をもった心理特性が含まれる

本書内では、取り上げられている心理特性同士が似ているということが何度か指摘されています。いわゆる「ジャングル誤謬」の問題は、非認知能力について論じるときに避けては通れない問題だと感じます(参考)。例えば、本書内で言及があったものを挙げておくと、誠実性、グリット、自己制御・自己コントロールという三つの特性、情動知能と感情調整、レジリエンスとエゴ・レジリエンスは非常に類似した心理特性といえるでしょう。また、レジリエンスの構成要素には楽観性が含まれていますし、セルフ・コンパッションの構成要素にはマインドフルネスが含まれ、エゴ・レジリエンスの構成要素には好奇心が含まれています。このように、本書で取り上げられている心理特性は類似している部分が多くあります。

一方、数は少ないものの、相反する特徴をもっている心理特性もありそうです。例えば、セルフ・コンパッションは「自己批判」をネガティブな反応として概念化していますが(p.197)、その一方で、問題解決においては「批判的思考」の意義が指摘されています(5章)。セルフ・コンパッションの「自己批判」は「人(自分)」に対する批判で、批判的思考は「物事」に対する批判であるという反論はあり得ると思いますが、たとえば自分の提案した意見に対する批判的な見方は自分への批判ではないので「自己批判」ではないと言い切れるかと言われると、その切り離しは意外と難しい場合もあるのではないかと思います。

その他にも、例えば目標追求をめぐって、グリットは「目標をあきらめにくい」心理特性とされています(p.31)。一方、楽観性に関しては(粘り強い目標追求との関連も指摘されていますが)、柔軟な目標調整との関連が指摘されています(p.111)。目標をあきらめないことと目標を柔軟に調整することは両立しうる特徴ではあるものの、場合によっては相反する特徴と言えるのではないでしょうか。

そして、批判的思考と自尊感情の間には明確に逆転した関連がみられています。加藤他(2018)の研究において、思春期の自尊感情の低下に批判的思考態度の獲得が関わっていることが明らかにされています(p.88)。この結果を素直に解釈するならば、批判的思考を高めようとすることで、自尊感情が低下していく可能性があります。

以上の議論から、同じように「よい結果」をもたらすとされている心理特性であっても、相反する特徴を持ち得ると考えられ、これはある心理特性を高めることが別の心理特性を損なう可能性を示唆していると言えそうです。これらの心理特性を同時に育成することができるのかも疑問です。


3.非認知能力は本当に高めるべきものか

本書で取り上げられている心理特性は「よい結果」をもたらし、介入によって高められることは本書で紹介されている通りです。しかし、だからといって、その心理特性を高める必要があるとは限らないように思います。

たとえば、楽観性が低い(≒ 悲観主義が高い)人の中にも成功する人がいることが明らかにされており、適応的な悲観主義として「防衛的悲観主義」という特性が研究されてきました(Norem & Cantor, 1986)。楽観性が高いことが「よい結果」につながるからといって、楽観性が低いことが「よい結果」につながらないとは限らないわけですが、これは他の特性にも言えるでしょう。

別の角度から言えば、ある心理特性が低いとしても、別の心理特性の高さによってカバーできる可能性は十分にあります。例えば、好奇心は高いが、色々なものに興味を示すためグリットは低いという子がいるとしましょう。好奇心の高さによって学業達成や主観的幸福感が賄われているとして、この子にグリットを高める介入が本当に必要と言えるでしょうか。2. の議論とも重なりますが、粘り強さが高まっても、かえって好奇心が損なわれる可能性もあるでしょう。

また、心理特性によっては単純な高低ではなく質的に考える議論も必要です。例えば本書では、自尊感情への介入について「自尊感情を高めること自体を目的とするのではなく、結果として高く安定した自尊感情をもつ人間に変化・成長していくための人格的基盤を充実させるもの」(p.187)であるべきだと論じられています。これは前述した『自己愛過剰社会』の反省を活かした議論でしょう。また、レジリエンスの個人差に関しては「質的な違いとして理解すべき」(p.238)と論じられています。人それぞれ異なる「逆境の乗り越え方」を尊重するというのも重要でしょう。

そして、もう一点考えるべきことは、非認知能力はそれ自体が個人の「個性」であるということです。この点から言えば、非認知能力を学級集団で高めようとする介入は、学級成員ひとりひとりの個性を奪う行為と言えるかもしれません。外的な働きかけで非認知能力を高めようとすることは、本書の言葉を借りれば「その個人のパーソナリティを否定することにもつながりかねない」(p.28)のです。

別の言い方をすれば、「子どもの多様な特性をそのまま受け入れ、子どもに合わせて環境や育てる側が変わっていくという発想も必要」(西田他, 2019)と言えるのではないでしょうか(同様の議論として平野, 2021)。このように子どもの多様な非認知能力をそのまま受け入れるという発想は、「適性処遇交互作用」や、近年のポジティブ心理学の「強み」モデルの発想に通じると思います。


4.非認知能力の向上を教育の目的とすべきか

仮に、非認知能力を高めることがよいことだとしても、それを教育の場で行うべきかについては議論の余地があります。

本書では、非認知能力に介入する意義として、人生の様々な場面でよい結果をもたらすという「汎用性」を挙げています(p.254)。また、文部科学省の示している学力観である「学力の三要素」を踏まえると、たとえば「知識・技能を活用して課題を解決するために必要な思考力・判断力・表現力」は批判的思考などと関連が深いですし、「主体的に学習に取り組む態度」は好奇心や誠実性をはじめとした多くの非認知能力のニュアンスが含まれているといえるでしょう(p.2)。

そもそも、教育基本法は第一条の教育の目的として「人格の完成」や「心身ともに健康な国民の育成」を挙げていますし、第二条の教育の目標でも多様な態度(非認知能力と関連していると考えられる)を育てることを挙げています。近年は教育基本法が示してきたような個人志向的教育目的よりも、「人材」という言葉に代表される社会志向的教育目的が強まっている印象はありますが(参考)、社会からの非認知能力の需要もまた高いように思います。非認知能力という概念が教育分野で人気を集めたのは、こうした点も背景にあるのかもしれません。

一方、教育の場において非認知能力を高めることは、前述したように個人のパーソナリティを否定することにつながりかねず、いわゆる「ダイバーシティ教育」とは反するようにも思います。教育現場で「このような非認知能力が望ましい」という教育を行うことは、そのような非認知能力を持っていない者への否定的認識の高まりという「暗黙のカリキュラム」を含む可能性もあるでしょう。特に、非認知能力が教育現場で「評価」の対象となるならば、非認知能力が個人間の競争材料となることも懸念しなければなりません。また、ただでさえ忙しい学校現場において、認知能力の育成が手薄になる懸念も見過ごせません。

別の観点から言えば、よい性格を増やそうとすることは、悪い性格の淘汰と表裏一体ですし、いわゆる「積極的優生学」(優良な個人を増やすことによって集団の質の向上を図ること)の思想とも重なっています。大人が子どもの知的能力にとどまらず、人格までもコントロールしようとすることが本当に望ましいのか、私たちはよく考えなくてはならないと思います。

また、「人格の完成」という言葉に含意されている「完成された人格」とは、本当に非認知能力の「高さ」を意味するのかということも考察の余地があると思います。例えば、誠実性が高いということだけで人格的に完成した状態といえるでしょうか。それだけでは不十分なのではないかと思います。むしろ、状況に応じて「誠実性」を発揮したりしなかったりといった判断ができる、あるいは誠実性を発揮する程度が強すぎず弱すぎないといったことが、真に完成された人格なのではないかというのが筆者の個人的な考えです。

これは、アリストテレスの「フロネーシス」の考え方に着想を得ています(日本語の文献として土屋, 2018)。本稿ではこれ以上の考察をしませんが、単に能力を高めて終わりというのは教育の目的として不十分ではないかと思っています。


5.非認知能力は本当に「よい結果」をもたらすのか

本書は、非認知能力がさまざまな「よい結果」をもたらすという実証研究が示されていますが、最後にこの点を疑ってみたいと思います。まず、本書で紹介されている研究は短期的な(横断的な)関係を見たものがほとんどであることには注意が必要です。心理特性と、主観的幸福感や精神的健康、学業達成などとの単なる相関関係を「よい結果」の証拠とみなしてよいかには議論の余地があるでしょう。長期的な研究が今後の課題です。

幼少期の非認知能力から様々な「よい結果」への影響について調べたメタ分析(Smithers et al., 2018)では、これまでの研究の質が低く、長期的な効果についての検討は不十分であり、「よい結果」への効果もまばらであることが指摘されています。非認知能力という概念は「よい結果」をもたらすという前提条件がありますが、現状はエビデンスが乏しく、特性によっては「よい結果」をもたらさない可能性さえも示唆されています。近年の心理学は「再現性の危機」が問題視されていますが(池田・平石, 2016)、非認知能力に関する知見も決して他人事ではないと言えそうです。

ただし、このことをもって「非認知能力に介入する価値がない」というのは早計でしょう。これまでの研究は非認知能力の効果を過小評価している可能性も考えられるからです。

例えば、グリットはメタ分析の結果、学業達成に及ぼす影響があまり大きくないことが示されています(Credé et al., 2017)。しかし、グリットとは目標達成における「車のエンジン」のようなものであり、それ単体ではあまり意味がないという指摘があります(Matthews, 2021)。言い換えれば、単独の特性では効果が小さくとも、複数の非認知能力が組み合わさって効果を発揮する可能性があるGutman & Schoon, 2013)ということです。さらに、介入についても複数の特性をターゲットとして介入した方がよい効果をもたらす可能性が指摘されています(Smithers et al., 2018)。複数の特性の間には、場合によっては単純な加算関係ではなく「期待×価値理論」のような乗算的な関係(Nagengast et al., 2011)もあるかもしれません。

本書は各特性ごとに「よい結果」や介入を概観していましたが(例外として、社会性と情動の学習は多くの非認知能力を対象としている)、以上の議論から示唆されるのは、複数の特性にまたがった「よい結果」の検討や介入の検討もまた必要ではないかということです。

なお、本書では「よい結果」について考える際の注意点も五つ挙げられています(pp.6-8)。その中では、「よい結果」の中に両立し得ないものがあること、万人に「よい結果」というものはないということ、そして個人の独自の「よい結果」は研究に含まれにくいという点などが指摘されています。これらの指摘は「よい結果」とされているものが本当に「よい」のかを疑う必要性を示していると思います。こうした根本的な問いも教育に応用する上では考慮すべき点でしょう。


おわりに

筆者は「非認知能力」という概念に対して、あまり良い印象を持っていなかったため、本書を手に取るかどうかはかなり迷いました。ただ、尊敬している心理学者の先生方が執筆されているということもあったので、批判的な気持ちになりながらも手にとり、最後まで読みました。

総じて、十五の心理特性に関するレビューとしては優れていると感じたものの、各特性についてのポジティブな話がほとんどであり、1. で紹介したような非認知能力の「ダークサイド」についての記述や、3. 4. で述べたような非認知能力への介入を疑問視する類の記述は決して多くなかった印象です。また、5. で記したような先行研究の限界についての記述などもあまりない印象でした。

非認知能力を高めるべきか、という問題は本稿の議論以上にずっと複雑な問題だと思います。長期的な効果のエビデンスの欠如も問題ながら、教育学的な議論(教育哲学や教育内容学)も不足しているという印象があり、私たちは、この「非認知能力」ブームを少し警戒しなければならないようにも感じています。

特に、心理学を学んできた一個人としては「よい性格だから伸ばした方が良い」と一言では言えない部分を感じており、それがこの書評の執筆動機でした。非認知能力として紹介された心理特性には魅力を感じますが、本書評で記してきたようにその「良さ」と教育的な「介入」の意義については考察の余地があると思います。

最後に、本書の編著者である小塩先生の言葉をお借りして、本稿を終えたいと思います。

心理的な特性は、それぞれに長所と短所をもつ。であるならば、それぞれの特性をもつ個人が長所を発揮することができるような、多様な環境を社会が用意することもひとつの方法であろう。そうすれば、誰もが自分なりの居場所を見つけ、自分の長所を発揮することができるであろう。そのような社会を、豊かな社会と言うのではないだろうか。(小塩, 2019: 5


*カバー画像出典
https://www.sukusuku.com/contents/qa/143200

*論文の出典は省略(リンク埋め込みで代替)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?