見出し画像

「優生思想はダメ」と言いきることへの疑問

相模原障害者施設殺傷事件から4年の月日が経ちました。今年、改めて「優生思想」の問題と向き合いたいと思い、このnoteを書いています。

ここ1ヶ月の間に「優生思想」という言葉が語られる機会が増えたからか、昨年のこの時期に書いた『”優生思想”は誰もが持っている』というnoteを多くの方に読んでいただいているようです。拙稿を読んでくださった方がいらっしゃいましたら、本当にありがとうございます。

さて、先ほども述べましたが、ここ1ヶ月の間だけで、れいわ新選組・大西つねき氏(現在は除名処分)による「命の選別」発言、ALS女性の”嘱託殺人”の問題、そして人気ロックバンド・RADWIMPSの野田洋次郎さんによる「国家による配偶者の選定」ツイートと、様々な場面で「優生思想」という言葉が語られました。

しかし、「優生思想」というものが結局のところ何なのかという部分があいまいなままで、言葉ばかりが一人歩きしているような印象も受けます。

そもそも、「優生思想」という言葉は実にあいまいです。特に「遺伝」などの生物学的な要素に基づいて生の優劣をつけていく実践をそう呼ぶのか、遺伝的な要素とは関係がなくても生に優劣をつけていく実践をすべてそう呼ぶのか、このあたりはいくつかの見解が存在します。

わたし自身は、差別の "正当化" に用いられるロジックは遺伝的なものだけではないと考えており、私たちの生活や社会に根ざした思想であることを強調する必要があると考えているため、後者の立場から広く「優生思想」をとらえています。

ただ、近年は「良質な遺伝子」という発想がテレビなどでも軽々しく使われている印象もあるため(参考記事)、前者のような面を強調した議論も必要かもしれないと考えているところはあります。

本稿では、優生思想を「優れた生を望む思想」ともっとも広範に定義して話を進めます。そのため、以降の議論はこの定義で優生思想をとらえた場合の見解となります。

優生思想は否定できるか

最近、「優生思想」という言葉が広がっていく中で、「優生思想は良くないものである」という認識が広がっているように思います。しかし、わたし個人としては、「優生思想に基づいた差別的実践(例:生の選別行為)」は否定すべきだと思う一方で、「優生思想」という思想そのものは否定することができない(すべきでない)と考えています。

そもそも「優れた生」を望んでいくこと自体は、人間としてあたりまえのことです。たとえば、頭が良くなりたい、スポーツを得意にしたい、仕事が早くなりたい、歌が上手くなりたい、顔立ちをもっと整えたい......。こういった考え方も、「優れた生」を望んでいるとは思いますが、それをまったく否定することはできないように思います。

しかし、頭が悪いならば生きている価値はない、スポーツができないやつは死んだ方がマシ、などとなってしまえば、いくらなんでも問題があるでしょう。昨年のnoteにも書いたことですが、「私たちの日常に根ざした普通の考え方の延長にある」のが優生思想という思想のやっかいなところであり、その統一的な線引きは非常に困難です。

そこで、優生思想そのものが差別的なのではなく、優生思想が(あるレベルを超えて)”差別的”に発露したら問題であるというようにとらえていくことが必要なのではないかと思います。そして、どこからが差別的なのかということを常に問い直すことこそが必要なのであり、「優生思想」だからといって十把一絡げに否定しなくても良いのではないでしょうか。

そして、「優生思想」という思想をまったく否定してしまうことが、別の問題を生み出す危険性もあるのではないかと考えています。

「命の選別」という発言の否定をめぐって

先日、れいわ新選組・大西つねき氏が「命の選別」という発言をしたことは先ほど述べた通りですが、それについて、BuzzFeedの記事に掲載された、難病支援に広く携わっている川口有美子氏による見解は少し疑問が残るものでした。

当初、大西氏が謝罪し、撤回したことについては「ああいう言葉を動画で発信できるというのは本心であり、そうした生命倫理観は簡単には変えられないと思っている」と疑いの念を抱き、すぐ除籍すべきだと思っていたという。

「でも、ああいう考え方をしている人は世の中に結構います。反駁し、論破するための練習問題を解くつもりで山本代表はすぐ切ることをしなかったのではないかと思う。対話しようと考えたのかもしれない」と処分が遅れた理由を推測する。

出典:れいわ新選組の迷走 大西つねき氏の「命の選別」発言に党内からも批判 なぜ除籍処分は遅れたのか(BuzzFeed)

川口氏の見解を整理すると、大西氏の優生思想は「簡単に変えられない」ものであり、「反駁し、論破する」対象となっているように思います。しかし、本当にそうなのでしょうか。ここでは、大西氏自身の考えを読み解きながら考察してみたいと思います。

大西氏にインタビューを行った、ジャーナリスト・伊藤博敏氏は次のように述べています。

「命の選別」という言葉の捉え方はともかく、「老人」の生を守るために、「若者」の生(時間と収入)をないがしろにしていいのか、という訴えが、れいわ新選組という政党から簡単に排除されたのは、残念なことだ。

出典:大問題となった「命の選別」発言、大西つねき氏が本当に伝えたかったこと(現代ビジネス)p.5

変な言い方に聞こえるかもしれませんが、大西氏が否定しているような「『老人』の生を守るために、『若者』の生をないがしろにする」という行為は、ある意味で優生学的な実践です。すなわち、大西氏の発言の真意をたどれば「反優生思想」とすら言えるかもしれません。

しかし、大西氏が使った「命の選別」ということばは、逆に「『若者』の生をないがしろにしないために、『老人』の命をないがしろにしていい」かのように聞こえるのも事実です。

私は、そういう二分法的な議論の仕方こそが問題だったのではないかと考えています。つまり、上記のどちらでもない第三の道を探るのが政治の役割ではないかと考えています。

このような「現実的には誰かを犠牲にするしかない」という議論は大西氏の発言以外でもしばしば見てきましたが、2020年にもなって「誰かを犠牲にする」という短絡的に考えることこそ「現実的ではない」という認識が必要だと思います。答えのない問いを熟慮していくのが政治のあるべき姿です。

また、伊藤氏による同記事の中で、大西氏は「タブーは良くない。『いってはいけない言葉がある』というのは危険です」(p.3)と述べていますが、大西氏の使った「命の選別」という言葉が多くの "マイノリティ" にとって、どれほどの影響を与えるかについてあまりにも無頓着だったと言わざるを得ません。

私が大西氏の「命の選別」発言に対して批判的に考えているのは以上の二点です。つまり、政治の役割は「老人」と「若者」のどちらか一方しか助けられないかのように語ることではなく、第三の道を探ることではないかということ、そして政治には「使ってはいけない」言葉があるということです。

しかし、「優生思想」という言葉を使って "差別的” というレッテルを貼ってしまったために、問題点がはっきりとしないまま終わり、さらには対話の機会をも喪失してしまったのではないかとみています。言い方は悪いですが、大西氏が「優生思想」をますます極端にさせていくことを危惧しています。

優生思想という論理による「排除」をこえて

ところで、れいわ新選組から大西氏が「優生思想」という論理によって政党から "排除" されたということについても、個人的には悩ましく感じています。優生思想に基づいた "生の選別行為" の多くは、その本質に「排除」の構図が存在しているからです。

優生学的な実践の文脈における "排除" は多くの場合 "生きる権利の否定" であり、たしかに大西氏のような「政党からの排除」とはまったく次元が異なります。しかし、このような形で「反優生思想」が排除を肯定する論理となるならば、いずれ、優生思想をもった人の "生" を否定していくようなパラドキシカルな「反優生学的実践」が登場していくことも危惧しなければならないような気がしてなりません。

実際のところ、最近「優生思想」が話題となったいくつかの話題では、そうした発言や実践をした個人に対して、ネット上では大量にネガティブな発信があがっていました。中には、冷静な批判にとどまらないような "非難” や "人格否定" もありました

残念なことに「優生思想」という言葉もまた、この社会の中では、ある意味で "差別" や "攻撃" を肯定し、誰かの "生” を否定するようなロジックとなりつつあるように思います。

もちろん、すべての「反優生思想」が "冷静な批判” である必要はなく、怒りの声をあげることを否定するつもりはありません。しかし、だからといって「優生思想」に対する批判が、そうした個人の社会的な排除に向かってしまえば、それは「優生思想」と同根なのではないかと思ってしまいます。

もちろん「寛容社会」を作っていく上では、他者を排除するような言説や思想に対して「不寛容」である必要があるのではないかと思います。しかし、優生思想に基づいた "差別" の線引きが難しいことを考えれば、そうした「不寛容」は非常に恣意的なものとならざるを得ないことには注意が必要です。

そして、優生思想に対して不寛容だからと言っても、個人を排除しなければならないわけでもないと思います。言い換えれば、優生的な思想や言説に不寛容であったとしても、その個人には寛容であるべきです。それこそが、本当の意味での「反優生思想」なのではないかと思います。

繰り返しになりますが、優生思想は私たちの日常や社会に根ざしたものであり、別の言い方をすれば "社会的に構築される" 思想と言えるでしょう。最近になって優生思想が広く注目されているのも、様々な社会の状況が関係しているからだろうと私は考えています。

だからこそ、どうしてそのような言説や思想が出てきたのかという "背景" に注目し、どうすればそうした思想に至らずに済むのかということを考えていくことが必要なのではないかと思います。先ほどの、大西氏の発言の背景を読み解くような実践もその一つですし、相模原障害者施設殺傷事件において植松氏と向き合い続けた多くの方の活動もその一つでしょう。

つまり、「優生思想と向き合う」ということは、優生思想を一切否定して「排除」することではなく、優生思想が発露された背景を読み解きながら、差別的な思想に至らない道を模索することではないでしょうか。

優生思想との "共生”

私は、これまで「優生思想と戦い続けなければならない」と考えてきました。ある意味で「優生思想」を敵とみなしてきたわけです。しかし、最近では、どうやって優生思想と "共に生きる” かを考えることこそが必要ではないかと思っています。

「共生」のあり方についてこれまでの議論と重ねながらまとめると、私たちが向き合うべきは「優生思想」という思想だけでなく、優生思想が発露されてしまう背景や社会そのものであり、そこでは「個人の否定」を行わないことが必要ということです。単純に敵視するだけではなく、丁寧に解きほぐしていき、どうしたら差別的に発露することを防げるかを考えていく実践こそが「共生」です。

また、ある個人の "優生思想" を変えたいと本気で考えるならば、まず "欠如モデル” 的に優生思想をとらえることから脱するべきではないかとも思います。たとえば、ある個人が優生思想を発露するのは「正しい知識が足りないから」と捉えて、”ファクトチェック” を重ねても、その人の思想を変えることはできず、かえって強固なものとしてしまうように思います。

優生思想が発露される背景には、多くの場合その人なりの「正しさ」があり、それをすべて否定されてしまったときに、何かを変えるというのは難しいことです。ここでも「共生」的に、すなわち、その個人の思う「正しさ」をすべて否定するのではなく、その思想の根底にあるものを丁寧に解きほぐしていく実践こそが必要ではないかと思います。

最後になりますが、本稿は「内なる優生思想」という考え方を尊重し、自分自身の優生思想やそのとらえ方と向き合うことを目的に書きました。ただ、同時に、読んでくださった方が「優生思想」の問題と向き合う際の一助になれば嬉しく思います。長文をお読みいただき、ありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?