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「良い人」は「悪いこと」をしない?

三谷幸喜の作品『12人の優しい日本人』をリモートで読むという企画がYouTubeで公開されています。

あらすじ
これは「日本にもし陪審員制度があったら…?」という物語。
ある裁判の陪審員として、仕事も性格も裁判へのやる気も全く異なる、12人の一般市民が集められた。
評決は全会一致が原則である中、最初の決で12人全員が「無罪」に挙手。呆気なく審議終了・解散となりかけたところ、陪審員2号が「話し合いたいんです」と意見を「有罪」へと翻す。
いざ話し合いが始まってみると、理由があやふやな人・参加意欲の乏しい人・付和雷同な人・意固地すぎる人・・・。議論するたび、有罪無罪の決をとるたびに各自の考えは二転三転。
事故か? 事件か?
一人の男性の死を巡って、良くも悪くも日本人らしい12人の激論が始まった。

この作品で描かれている人びとが「日本人らしい」かどうかは別として(個人的にはステレオタイプ的な印象を受けた)、出てくる登場人物を見ていると「あぁ、こういう人確かにいるな」という気持ちになるし、物語としても白熱したシーンが多く、とてもおすすめの作品です。

「良い人は、人を殺さない」

ところで、『12人の優しい日本人』の中では、陪審員として殺人の有無について話し合うシーンが随所にあるのですが、その中に「あの人は“良い人”だから、人を殺さないはず」といった意味合いの理由が述べられる場面があります。

ここで「良い人」と言われているのは、直接的に関わりがあるというわけではなく(知人だったら陪審員にはなれないので)、単なる第一印象やその人に関する表面的な情報を根拠にしたものです。

「そんなもので人を裁けるのかよ」とツッコみたくもなりますが、実際の生活に置き換えれば、ふつうの人は、第一印象をはじめとした多くの表面的な情報を根拠にして、他人のことを判断していることは否定できません。

実際、テレビで殺人事件などの報道があった際に、過去の知人や近隣住民が出てきて「まさか、そういうことをする人には見えませんでした」なんて言ったりする場合も少なくないでしょう。

「殺人をするんだから、悪い人」

ところが、『12人の優しい日本人』という作品は面白いことに、同じような形で意見を述べるシーンの中に「あいつは殺人をした。そんな人に同情できますか。」といったことが語られる場面もあります。

様々な証拠をもとにして「殺人の事実がある」と考えたことで、その人に対する評価が「悪い人」になったのです。「良い人→殺人してない」だったものが「殺人した→悪い人」といった形になったことで、人物に対する評価が変わったとみることができると思います。

結局、殺人があったのか、なかったのか、ということはネタバレになってしまうので控えますが、ひとまず、被告が「殺人ではない」という空気感のときには「善人」として、「殺人である」という空気感のときには「悪人」として扱われる傾向にあったというのがおもしろいところだと思いました。

「行動」と「人間」の”善悪”

さて、この話を踏まえて考えたとき、はじめに指摘した「”良い人”は”悪いことをしない”」という考え方は本当に正しいのでしょうか。「良い人」だと思われていても、悪いことをしていると分かれば「悪い人」へと評価が変わる。この考え方に基づけば、悪いことをする人の中には、悪い人だけでなく、まだ悪いと判断されていない良い人も含まれてしまうことになります。

このようにして考えていくと「良い行動」や「悪い行動」と「良い人」や「悪い人」というものを直線的に結びつけるのは、そもそも難しい(上に、妥当ではない)のではないかと考えられます。

心理学では「対応バイアス」と呼ばれる概念があり、これは「ある行動を本人の内的な特性のせいにしやすい」ということですが、人間としての良し悪しと行動の良し悪しを単純に結びつける発想は「対応バイアス」と言っても過言ではないと感じます。

政治哲学者ハンナ・アーレントは、ナチスによるユダヤ人迫害のような「悪い行動」のことを「凡庸な悪」と呼びました。この「凡庸な悪」という発想は、ユダヤ人を迫害した人というのは、根本的な悪人だったというわけではなく、「思考や判断を停止し外的規範に盲従した人々によって行われた陳腐なもの」だったのではないかと指摘したものです。

これも「悪い人」と「悪い行動」というものを直線的に結びつけない発想という意味で、ここまでに指摘したことと重なります。

「悪いことをする人は悪いに決まっている」「良い人は悪いことをしないに決まっている」といった信念から抜け出すことは難しいものです。ただ、こうした価値観からの脱却は、これからの社会に欠かせないように思えます。

「誤情報の拡散」と「善意」

情報の流れるスピードが速い現代社会において、誤った情報が拡散されるというのは深刻な問題の一つです。とにかく、猛烈なスピードで拡散が進む上に、その誤情報を訂正することが難しいのです。そして、「ファクトチェック」の動きは日本でもみられますが、拡散された元情報ほどは拡散されません。

ところで、災害時・緊急時に広く拡散される誤情報の問題を扱う中で、近年は「善意」による拡散の問題が指摘されることが増えてきました。

詳細は上記の記事に譲るとして、これらの記事が示唆していることは「良い人」が「悪い行動」に加担する可能性があるということだと思います。

「”善意”で誤情報を拡散する人」は「悪い人」か?

ところが、こうした行動は「善意で誤情報を拡散する」という「悪い行動」であると解釈された上で、「悪い人」がすることのように扱われている印象を受けます。たとえば、以下の記事。

加藤はさらに踏み込み「実際に知識がなくて、善意を持っているだけで『あの人、こうらしいよ』『この県でこういう人、出たらしいよ』『この人は感染したらしいよ』みたいに言っている人は本当ダメですよ!」と叫んだ。

ただ、こうした「悪い人」が「悪いことをしている」という発想ではいつまでもこの問題は解決しないように思います。なぜなら、人というものは基本的に自分のことを「良い人」だと思いたいし、まさか自分が「悪い行動をしている」とは思いたくないようにできているからです。

こうした「善意」に言及していることの本質は「善意」が悪いということではありません。むしろ「善意」を持っているような「良い人」であっても「悪い行動」に加担するかもしれないから、どんな人も自分の行動と向き合えという話ではないでしょうか。

つまり、この問題を自分と切り離せる人は一人もいないのではないでしょうか。誰かを「悪い人」と見立てるのは問題の本質から離れてしまうように思います。

差別と「正義」

以前、「優生思想」という差別に関連する問題の一つを題材にnoteを書いたことがあります。大して特別なことを書いているわけではないものの、相模原障害者殺傷事件の裁判のこともあってか、自分のnoteの中では多くの方に読んでいただけているものの一つです。

この記事の中では「内なる優生思想」というものを扱いながら、われわれが「優生思想」から逃れられない存在であるということを指摘し、次のようにまとめました。

差別や偏見の問題は「私たち」の問題であり、私たちの日常の延長にある非常に身近な問題です。

やまゆり園事件から3年が経った今もほとんどこの社会は良い方向に変わっていません。しかし、ここであきらめずに繰り返し考えていかなければならない問題であると思います。これは私たちの問題だからです。

ここでも、自分が「良い人」という信念を捨てることの重要性を感じます。自分のことを「差別をしない良い人」という捉え方をし続ける限り、優生思想という問題の本質にはたどり着けないのではないかと私は考えています。

また、最近も、さまざまな「差別」の問題が指摘されるようになっていますが、その中では「歪んだ正義」の問題が指摘されるようになってきました。

これまでと同じような文脈で解釈しましょう。「悪い行動」につながっていった正義のことを「歪んだ正義」とみなし、自らの持つ「正義」とは切り離す(自分が「歪んだ正義」である可能性は疑わない)ような解釈をとっていないでしょうか。

無論、そういう行動が良いと言いたいのではありません。ただ、結局のところ、どんな人の正義であっても「歪んだ正義」になり得るということは否定しようがなく、自分を省みずに他人を批判することで問題が解決するわけではないのは、他の話題とも重なるところではないかと思います。

まずは「自分」を。

誤情報の問題にしても、差別の問題にしても、どこかの「悪い人」がやっているとは限らないし、自分という「良い人」にもそれに加担してしまう可能性があることを認識しておく必要があると思います。

だからこそ、月並みな意見ではありますが、他人にあれこれ言う前に「自分」のことを省みることから始めるのが大切だと思います。他人の「悪い行動」を責めたくなったときも、自分が「悪い行動」をとっていないかできるだけ深く注意すべきでしょうし、他人の「人格」を責めないように注意すべきでしょう。「悪い人」とは限らないですから。

以上、自戒の念もこめて書きました。

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