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ナイキのCMそのものに隠された「否認するレイシズム」

〔要約〕
ナイキが公開したCMをめぐってはネット上で様々な意見が飛び交い、特に人種差別の存在を否定するような声(例:日本人が差別をしているように見える)には、多くの否定的な考察がされてきた。その中には、そういった声が日本社会の「否認するレイシズム」の表れであると主張する記事もある。しかし、ナイキのCMやその姿勢について考察すると、スポーツの持つ加害性の否定、ナイキ自身の加害という事実の無視、さらには自己責任論の強化など、ナイキのCMにも「否認するレイシズム」が内包されていると考えることができる。すなわち、ナイキのCMを肯定することもまた「否認するレイシズム」への加担となってしまう構造があり、この点が「否認するレイシズム」の問題の根深さであると考えられる。


ナイキのCMをめぐるさまざまな声

ナイキが11月28日に公開したCM『動かしつづける。自分を。未来を。The Future Isn’t Waiting. | Nike』をめぐって、インターネット上でさまざまな意見が飛び交いました。YouTube の動画についた評価も、高評価と低評価がどちらも非常に高く、多くの人の関心を集めていることは間違いないでしょう。海外のニュースでも取り上げられており〔参考〕、少なくとも、ナイキの「反差別マーケティング」は成功したと言えそうです〔参考〕。

このCMをめぐって、Twitter上での意見の広がりを分析した鳥海不二夫さんの記事によると、ツイートの中身は大きく3つのグループに分かれていたと言います。簡単にまとめておくと、1つ目が「日本人が差別をしているように見える」等、CMへのネガティブな声のグループ。2つ目が「感動した」等、CMへのポジティブな声や、1つ目の差別否認を批判する声のグループ。そして、3つ目が「NIKEは中国で強制労働問題を抱えている」等、ナイキそのものへの批判の声〔参考〕のグループです。

そして、この1つ目のグループのような声、特に「日本における人種差別を否定する」ような声については、さまざまな角度から問題視する声があがっています。

例えば、フォトジャーナリストの安田菜津紀さんの記事では「集団的ナルシシズム(collective narcissism)」という概念を持ち出しながらこの問題を論じています。文筆家であり「ネット右翼」についての多くの論考がある古谷経衡さんの記事では「崇高な日本人」史観という概念が登場します。

いずれの記事も「自らの加害性を否定し、反省しようとしない心性」を考える上で有用な論考です。

ほかにも、ライターの堂本かおるさんの記事は「そもそも暴力や暴言など直接的かつ分かりやすい差別だけでなく、社会の仕組みに取り込まれてしまった制度的差別、構造的差別(systemic racism)が蔓延していることを忘れてはならない。」と警鐘をならしています。

さらに、ITジャーナリストの篠原修司さんの記事では「このCMで描かれているストーリーが『リアルな実体験に基づいたストーリー』であることは受け止めなければいけません。」と論じられています。また、Twitter上では「NikeのCMに不快感を感じるのは、心当たりがあって自分が責められてるように感じる人たち」という見解も広く支持を集めていた印象でした。

「否認するレイシズム」

そんな中、現時点でわたしが最も印象に残っている記事は、社会学者のケイン樹里安さんの「話題のナイキ広告で噴出…日本を覆う『否認するレイシズム』の正体」という記事です。

記事の前半では「否認するレイシズム」の実態や事実を丁寧に確認しています。そして、後半では「ちぎりとられたダイバーシティ」とも呼ぶべきダイバーシティ・マネジメントの宣伝手法の危険性と「否認するレイシズム」の関係を考察し、次のような点を指摘しています。

 つまり、企業によるダイバーシティ・マネジメントとは、利益を生み出す「飼い慣らせそうな多様性」ばかりを称揚すべき「多様性」として選別し、そこから利益を生み出す一方で、企業にとって利益の源泉として見出されないマイノリティの搾取・抑圧・排除を実行する際に、企業が自己保身をはかるために「選別されたマイノリティ」を「盾」にすることがありえるのである。...〔中略〕
 したがって、「日本社会でNIKEを身にまとうことは、もはや反レイシズムのプロジェクトに参加する契機」であるかもしれないが、ほかの社会問題や差別現象に加担する契機にもなりえる。

〔出典〕話題のナイキ広告で噴出…日本を覆う「否認するレイシズム」の正体(現代ビジネス)p.6 ※太字は筆者による
 したがって、現代日本社会においてNIKEの広告が訴求力をもったこと自体が批判の対象とされるべきである。
 なぜなら、NIKEの広告の訴求力を生み出したものこそが、「否認するレイシズム」を含めて日本社会の日常生活に浸潤したレイシズムと、それを支える不平等・不公正であるからだ。

〔出典〕話題のナイキ広告で噴出…日本を覆う「否認するレイシズム」の正体(現代ビジネス)p.7 ※太字は筆者による

「否認するレイシズム」と「現代的レイシズム」

ところで、ここで紹介された「否認するレイシズム」とは、いわゆる「現代的レイシズム(modern racism; McConahay, 1986)」と呼ばれているものと非常に近い概念です。

現代的レイシズムは、「黒人は劣っている」という露骨な人種偏見の表出がタブー化してきた現代社会の中で生まれてきた偏見の形であり、一般に
(1)黒人に対する差別は既に存在しない
(2)人種間の格差が現存するのは、黒人が努力を怠るためである
(3)よって黒人が差別に対して抗議するのは不当であり、
(4)こうした抗議を行うことで黒人は不当な特権をせしめている、
という4つのひと繋がりの信念に基づくとされています〔参考〕。

こうした考え方の背景にあるのはアメリカでの黒人に対する人種偏見の研究であり、日本の場合には少し違った形になる可能性が高いと思います。特に、日本の場合には(1)についてアメリカとは異なり、過去の人種差別も否定する傾向があるのではないかと(個人的には)考えています。

さらに、今回のナイキCMでみられた「否認するレイシズム」は(1)のような「差別の否定」のみが強く反映された偏見の表出であり、現代的レイシズムが想定する「”マイノリティ特権”の否定」よりも「差別性への自覚」の問題が大きいと考えられます。そのため、「否認するレイシズム」と「現代的レイシズム」を完全に同一視すべきではないとも感じます。

ただ、人種問題に限らず、女性、障害者、あるいは在日韓国・朝鮮人に対しても同様の形での偏見が存在することが示されてきました。社会心理学者の高史明さんはそういった事実を踏まえ、現代的レイシズムは「現にマイノリティが何らかの特権を得ているという事実ではなく、むしろマジョリティの一般的な心理傾向を反映したものであることが示唆される」〔参考文献〕と指摘しています。こうした認識は、今回の「否認するレイシズム」にも通じるものではないかと考えています。

すなわち、「否認するレイシズム」が広く表出された背景にあるのは、マジョリティに一般的にみられる何かしらの心理傾向ではないでしょうか。強い差別性や攻撃性といった要因、あるいは「実際に多くの日本人が日本で起きている人種差別を認知していないという事実」だけでは説明できない部分があるのではないでしょうか。そういう意味では、彼らを安易に「悪魔化」せずにその背景を探っていくことが、今後の課題になると思います。

ナイキのCMそのものにある「否認するレイシズム」

さて、今回のナイキのCMは「差別に苦しみながらも、スポーツによってエンパワーメントされた例」を非常にていねいに描いていた印象はありますし、それ自体は非常に評価されるものです。ただ、逆に考えると「スポーツ文化によって起こってきた差別」を無視しているとみることはできないでしょうか。

ナイキはスポーツ製品を扱う企業であり、スポーツ業界のことを悪く言おうとはしません。「前向きな変化を促すスポーツの力を賞賛」したいとも語られています〔参考〕。しかし、現実には、スポーツによってエンパワーメントされていく事例もある一方で、スポーツ現場の中での差別に苦しんでいる人もいるはずです。

結局、今回のCMでの「スポーツ」の加害性を無視する姿勢は人びとの「否認するレイシズム」と重なっているように思えます。結局、ここには「自分たちのことは悪く言いたくない・言われたくない」という共通点が存在してしまっているように思います。

先ほど紹介した、ケイン樹里安さんの同記事の中では、「そもそも差別とは「自分もやりかねない」ものとして捉えたほうが適切である」(p.5)という言葉がありました。これは、「差別否定」を行った層にも言えることでありながら、同時にナイキにも言えることではないでしょうか。

さらに、先ほど紹介した「現代的レイシズム」を構成する信念の中には、「人種間の格差が現存するのは、黒人が努力を怠るためである(2)」というように、人種差別の問題を個人の努力に帰属してしまう信念が含まれますが、この点についてもナイキのCMは問題があると言えるように思います。

というのも、ナイキのCMは「差別やいじめを受ける3人の10代の少女が、サッカーを通じてつながる。自信や楽しさを手に入れながら、悩みを一緒に乗り越えていく」ストーリーであり〔参考〕、これは、差別を個人の問題に帰してしまっているのです。それは、ナイキのCMのタイトルである「動かしつづける。自分を。未来を。」という言葉にも表れています。

こういった観点から考えたとき、ライターの堂本かおるさんの記事でCMに対する否定的な反応を取り上げる中で「『スポーツが得意なら乗り越えられるが、苦手な者はどうする』といった見当違いなものまで見受けられた。」という言及がありましたが、これは見当違いというよりも、差別を自己責任論化してしまったことの陥穽を指摘しているようにもみえます。

すなわち、あのCMが「スポーツが得意なら乗り越えられる」というメッセージ、あるいは「スポーツによって差別を乗り越えるべきだ」というメッセージを持ってしまっているという問題です。この声をあげた人がどういった認識をもっているのかはわかりませんが、このCMによって少なからず現代的レイシズムに関わる信念が強化されてしまう状況は示唆されます。

ナイキCMへの異議

以上の議論を踏まえると、ある個人が、スポーツによってエンパワーメントされて差別に立ち向かえるようになったというストーリーは否定されるものではなくても、それが差別と立ち向かうための方法として適切かという点は考える必要があると言えます。

レイシズムにとどまらず、差別の形態は多様であり、その戦い方も多様です。だからこそ、ナイキのCMを全否定したいというわけではありませんし、すぐにそうすべきではないとも思います。少なくとも、これも一つの「反差別」の戦い方とは言えるでしょう。

しかし、ナイキのCMのような戦い方が「否認するレイシズム」を含んでおり、さらには自己責任的な信念の強化を起こしている可能性は決して否定すべきではないと思いますし、むしろもっと問題視すべきことだと思います。

正直に言えば、自分個人としては「差別問題をスポーツで解決しようとするな」と言いたいとも感じています(そのため、自分はナイキCMに対して、どちらかといえば否定的です)。

また、自らもさまざまな「差別」の加害者であるはずのナイキが、差別の被害者に向けて「バリアを打ち破れ」という広告を出す "気持ち悪さ" も感じています。

だからこそ、どこかナイキのCMやその姿勢を手放しで賞賛する(あるいは明確に否定しない)風潮には、正直に言って疑問を感じざるを得ません。

「否認するレイシズム」の根深さ

最初に、ナイキのCMに対して「差別否定」をするネット上での声を問題視する指摘を紹介しました。「集団的ナルシシズム」や「崇高な日本人観」によって加害性を否定し、自分たちのことを反省しないという問題、構造的差別を否定しているという問題、実体験をもとにしたストーリーを無視しているという問題、などなど。そして、こうした実態を「否認するレイシズム」という観点で整理して考察した記事も紹介しました。

ただ、こうした指摘は(完全にとは言わずとも)少なからず今回のナイキのCMや姿勢にもあてはまると考えるべきではないかというのが本稿の主張です。明らかに言えるのは、ナイキはこのCMを出す上では過去に自分たちのしてきた差別には目をつぶっているし(事実の無視)、差別を個人の問題に帰結させ(構造的差別の否定)、ナイキという企業を支える拠り所である「スポーツ」の差別性には目をつぶっています(加害性の否定)。そしてこうした状況を総合すると、結局「ナイキのCMやその姿勢もまた『否認するレイシズム』を含んでいる」と言えると考えられます。

ただ、「ナイキのCMは差別的だからダメだ」と断罪したいのではありません。繰り返しになりますが、今回のCMには良い面と悪い面があります。だから、すぐにどうこうと言いたいわけではありません。

自分の知りうる限りでは「ナイキのCMは素晴らしく、差別否定の声は良くない」という声が多かったものの、あのCMには明らかに悪い点もあり、しかもそれは「差別を否定する声」とさほど変わらないという点を無視してはなりません。それこそが「否認するレイシズム」への加担です。

この点こそが、今回表面化した「否認するレイシズム」という問題の根深さだと思いますし、ナイキのCMが持つ差別性にも向き合うことが「否認するレイシズム」という問題を理解する上で重要なことのような気もします。そして、ここに、高史明さんが言ったような「マジョリティの一般的な心理傾向」のヒントがあるのではないかというのが現在の個人的な見立てです(本稿では深い考察には立ち入りません)。

ケイン樹里安さんの記事とも重なりますが、私たちはあのCMを手放しに賞賛せず、適切な距離感をはかりながら、差別問題と戦っていく必要があるのではないかと強く感じています。

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