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映画やドラマに本とあれこれ その3

書籍『反逆の神話』

「誰がカートコバーンを殺したのか」
冒頭のこの一文にすっかりやられてしまい、昼休みに会社を抜けて購入した本。

これはパンク少年だった筆者が、冒頭のカートコバーンを筆頭に、パンクロックやヒッピー文化、フェミニズムやBLM運動といった、既存体制を打ち負かすための運動=カウンターカルチャーが何故、当初目的としていた既存体制の打倒を成し遂げることなく逆にその思想を骨抜きにされ、ファッション(商品)として組み込まれてしまうのか、その仕組みについて説明する本である。

カートコバーンは、「自分は商業主義への反逆者である」という自意識と、自分の音楽及び生き様がその商業主義のメインコンテンツとなってしまったこととのギャップによって殺されたわけだが、筆者はその名ばかりの反逆は実は商業主義の単なる一形態に過ぎないと喝破しており、彼はそもそも商業主義の子供として生まれたわけで、決してその敵なんかではなかったという。

というのも、全てのカウンターカルチャーは自分を他人と差異化し、その趣味の良さをひけらかすための道具だからである。

みんなが持っているもの(商業的なメインカルチャー)は”ダサい”が、自分を含む特別な人しか持てないもの(反逆的なサブカルチャー)は”カッコいい”のだ。
人は誰しもが『特別な自分』を信じているために、”ダサい”ものではなく”カッコいい”ものを手に取ろうとし、産業はよりお金を稼ぐためにカッコいいサブカルチャーに投資を行っていく。

この結果、特別な人のためのカッコよかったサブカルチャーは、みんなが知っているダサいメインカルチャーに変化していき、空席となったサブカルチャーの地位にまた新しいメインカルチャーの種が植え付けられ、商業のためのサイクルが回されていくのである。

僕は、体感的に気づいていたけれど認めたくなかったことを理屈付けて説明されてしまい、目からウロコな反面、悲しい気持ちになってしまった。
これだと、ロマンスを信じて生きたカートコバーンがただの馬鹿みたいだからだ
また筆者は、カートコバーンに対してこう言っている。

何故すべては幻想かもしれないと考えなかったのか。オルタナティヴもメインストリームもない。音楽と自由との関係も、裏切りなんてものもないのだ。ただ、音楽を想像する人間と、音楽を聴く人間がいるだけで、素晴らしい音楽を創れば人は聞きたがるものなのだ

確かに、すべては幻想かもしれない。

ただ、人はその幻想のために生きることも死ぬこともできるのだ。
例えその実態が商業・資本主義の操り人形だったとしても結局のところ、幻想を持たないカートコバーンの音楽は美しくともなんともないのだと僕は思う。

書籍『ラブホテル進化論』

ラブホテル。

それは日本が得意とするガラパゴス文化の一つであり、日本の風俗や住宅事情に合わせて歩みを止めることなく変化し続けてきたレジャー施設である。この本は、当時神戸大学院生だった筆者が博士課程でそんな日本の誇るラブホテルについて書き上げた論文を再構築したものだ。

僕がラブホテルがどんな場所か知ったのは、中学に上がるか上がらないかくらいの頃だったと思う。

それは、地元の国道を西に走って田園地帯に差しかかったところに、仏壇の香炉に立てた一本の線香のように建てられたマンションに似た建物で、最上階に黄色い文字で掲げられた『ZIP』という看板が目を引いた。
子供の頃からずっと何の建物なのか訝しんでいたところ、同級生から「あれはラブホテルといって、セックスをするところなんだぜ」と教えてもらったのだ。
その瞬間から、ラブホテルの持っていた怪しさは妖しさへと変貌し、謎に包まれた異世界への扉として僕の眼に映るようになった。

それから時が経ち大人になると、ラブホテルの発していた妖しげな魅力は消えてしまい、僕は胸の高鳴りもなくタッチパネルで一番安い部屋を選び、真顔のまま七色に輝くジャグジーバスに浸かり、淡々と手先しか見えない小窓で鍵のやり取りをする(一度フロントのおばさんが、そこから顔を出して話しかけてきたときはさすがに驚いたが)ようになったのだが、この本を読んでみると「そういうものだ」と受け入れてきたラブホテルの常識が、よく考えてみると謎だらけだったことがわかってきた。

では今から、みなさんが疑問に思っているだろうラブホテルの秘密をお教えしよう。

1.奇抜なネーミングについて

『べんきょう部屋』、『と、いうわけで。』、『クジラの花嫁』…、ラブホテルには奇抜な名前が付いていること多々ある

これは何故かというとラブホテルはその性質上メディアでの宣伝が難しく、アイキャッチによる訴求が重要になり、話題性がそのまま広告の役割を果たしたためである。

宣伝ができないために健気に身体一つで自分の存在をアピールすることしかできず、止むを得ずネタに走った名前をつけて、誰かの噂話にでもなって存在を認知してもらえれば良いというわけである。ちなみにこのようなネーミングは地域性が現れてくるもので、関東圏ではあまり見られず関西圏に多いらしい。

ちなみに僕が一番好きなホテルの名前は、兵庫県にある『暴れ狸の鬼袋』である。

2.無駄に充実した設備について

ラブホテルは通常のホテルと違って、大画面のテレビで映画を楽しむことができたり、カラオケを歌ったり、酒や料理を手軽に注文できたり、一見セックスとは関係のない設備が充実していることが多い。

これは1985年の風営法の改定により、回転ベッドや天井の鏡張り、浴室のマジックミラーといった扇情的な仕掛けの設置が禁止されたラブホテルがどうにか他のラブホテルと差別化を図るために導入していったものらしい。

その昔ラブホテルが行ってきた扇情的な仕掛けとは、部屋に敷かれたレールの上を亀の形をしたベッドが縦横無尽に走り回ったり、メゾネットの二階部分に透明の浴槽が設置されていて一階の天井から入浴の様子を眺めることができたり、コピー機が内蔵されて大事なところの魚拓が取れる椅子が設置されていたり、どう考えても利用者、特に女性を置いてけぼりにした摩訶不思議な装置の数々であった。まったく意味がわからない、もはやコントのようなラブホテルが乱立されていたのである。

一度、風呂場の壁の全面がガラス張りになっており部屋から丸見えになっているホテルを利用したことがあるが劣情が煽られることはなく、僕はただただ惨めな気持ちになってしまった。

3.報われない酒について

これはラブホテルに入る前に「飲みなおそう」という名目で買われたコンビニのビールが、何故か飲まれることなく放置されてしまう現象のことである。

僕らは「セックスしよう」と直接的にラブホテルに誘うことがはばかれる際に、「ゆっくりできるところで飲みなおす」という言い訳を作ろうと儀式的にお酒を買うわけだが、本当に酒が飲みたいやつなど一人もいない。大抵の場合、ソファーに座って缶を開けてすぐに風呂場探検やアメニティチェックの時間となって、いつの間にやらベッドに雪崩れこみコトが始まってしまう。

その結果、敬意を払われることなく下心を覆い隠すためだけに買われた酒は、朝が来るまで二人の情事を見せつけられることになるのである。
このように供養されない酒たちが、今夜も日本のどこかのラブホテルで、その助けを待っている。

ドキュメンタリー『神の数式』

素粒子の謎に迫った学者たちに関するNHKのドキュメンタリー。

神が創造したこの世界の理を解き明かすため、素粒子の正体を数式によって表現しようとした物理学者たちのお話である。

彼らはずっと、神が創造した世界は神様らしく、まったく美しい数式によって成り立っていると信じていた。しかし、いくら計算を重ねてもあまりに美しすぎる従来の数式から導き出される答えは、『素粒子は重さを持たず、光の速さで拡散してしまう。故に、この世界では何も形を持って存在することができない』という現実とかけ離れたものだった。式は正しいはずなのに、世界が存在しし得ない結論が導き出されてしまう。科学者たちは頭を抱えた。

この問題を解決したのは、見ていても難し過ぎてよくわからなかったがどうやら、その美しい従来の数式にバクをもたらす、到底神が作ったとは思えない汚らしい物体の存在が証明されたことだったらしい。

その存在は証明の50年以上前から示唆されてきたが、完璧である神の存在を証明するためにあるはずの数式が、その神様のエラーのようなものを証明してしまうことになるため、かの有名なホーキング博士はそれが存在しない方に金銭を賭けることまでしていたようだ。

つまり、世界は完璧すぎると成り立たず、逆にその完璧さが崩されることで初めて成立するものらしい。となると、僕らが生きているこの世界はすべて、連続された予期せぬバグから生まれた不完全なものだということになる。

完璧さは存在し得ない。存在し得るということは、僕らの不完全さの証明でもあるのだ。
だからなんだという話なのだけれど、なぐさめの言葉にはなるのだと思う。

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