見出し画像

私のダンス経歴②中学生・高校生

中学生 都会のダンススクールがハイレベルで心が折れる


中学1年生の時、児童手当が支給されたのをきっかけに再びダンススクールに通えることになりました。

クラスの定員は満員だったのですが、経験者なのでどうにか入れてほしい、と懇願して晴れて入会させてもらえることとなりました。

ジャズヒップホップのクラスは高校生から社会人までのお姉さんが20人ほどいて最年少な上に、ターンも全く回れない未熟者だったので「落ちこぼれ」でした。

自由に歩きながら踊ってと言われても、どうしていいかわからなくて、スローな曲でダウンをズシズシ踏んでいたり、3ヶ月に一回あるテストも振り付けが覚えられず必死に前の人の後頭部を見ながら真似をしたり、挙げ句の果てに発表会では、3歩しか移動のない端っこの立ち位置であたふたしておりました。

学校では定期テスト首位かつ美術部でも賞金稼ぎの主力で「自分はなんでも器用にこなせる」と傲慢な心を持っていたが故に、学校の外では全く歯が立たないという現実を13歳の心では受け止められないでいました。

一年半がたって、もうダンスはやりたくないと思っていた頃、台湾への転勤が決まり、再び、ダンス人生は幕を閉じたのでした。

高校生 少林寺憲法部からダンスの世界へ

進学を機に東京へ帰ってきました。高校生の私は留学への憧れが人一倍強く、
留学のためにバイトでお金を貯める→お金を貯めるために夜遅くまでバイトをする→夜遅くなるなら護身術をタダで身につけたい
という思考回路を辿って、「少林寺拳法部」に入ることにしました。
(いや、他に方法があっただろうというツッコミはさておき…)

さて、入部した少林寺拳法部は全国大会常連の超強豪校だったため、朝・昼休み・放課後、土日も自主練と試合があり、みなさんお気づきの通り、留学どころかバイトの余地も一切ありませんでした。
(廊下で先輩にあったら荷物を置いて合掌礼をしなければいけない、廊下は走れ、などの一風変わったルールによるストレスで5キロ痩せて、幻覚も見えるようになっていた。)

1年生の冬、練習で靱帯を裂傷してしまったことを建前に退部しました。
(本当は1ヶ月ぐらいで治る軽症でしたが、治りたくない気持ちが強かったからか、半年ぐらい完治に時間がかかった…)


紆余曲折を経て、奨学金で留学に行けることを英語の先生に教えてもらい、2年生の夏カナダに短期語学留学をしました。

ホストファミリーは音楽が大好きで、家でも車でも毎日クラブみたいにジャンジャン音楽が流れていました。
全く英語が喋れず、ボディランゲージをするしかなかった私は、ある日、ホストシスターを変な動きで笑わせようと思い、得意のアイソレーションをクネクネやっていました。
すると私の後ろの方で「全然喋らなくて不審者だと思っていたmaoはダンサーだ!!超かっこいい!!」と、ホストマザーが歓喜のあまり叫ぶのが聞こえました。

英語も喋れないし、特技の少林寺拳法も披露する場所は限られてるけど、ダンスだったら音楽があればすぐできて、何より人を喜ばせられるのか。よし、ダンスを練習しよう。

帰国から1ヶ月後、善は急げとジャズダンスとヒップホップを習い始め、再びダンス人生の幕があがったのでした。

続きはこちら

この記事が参加している募集

#自己紹介

227,361件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?