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紫煙燻らすタイミングについてのいくつかの考察。

煙草が好きだ。
楽しい時も、悲しい時も、イライラした時も、ぼーっとする時も、右手にはいつも煙草がある。
左手で箱から煙草を取り出し、口に咥え、右手のライターで火をつけ、右手で挟んで煙を吐き出す。
これはもはや、ある種のルーティーンである。
仕事前の、仕事中の、仕事後の、話をする前の、話を聞いているときの、スタートの合図であり、リセットのタイミングであり、煙草の火を消すときは次の何かへ向かう号令でもある。
煙草は僕にとって、どのタイミングでも無くてはならない、相棒みたいなものである。
だがしかし、やたらと肩身が狭いのだ。

オフィスの近くに喫茶店がある。
1967年創業。今年で開店52年になる老舗である。
薄暗い店内ではジャズが静かに流れていて、ランチはカレーとサラダとコーヒーがついて500円(税込)。
完全に余談だがここのカレーは、昔ばあちゃんが作ってくれたライスカレーと同じ味がする。
そして何より、この喫茶店はいつでも煙草が吸えるのだ。
通わない理由がない。

いつものように、その喫茶店へ行く。
まだそんなに人もいない時間帯。
カウンターに座って、カレーのランチを注文する。
読みかけの文庫本を取り出して栞が挟んであるページを開いた瞬間にサラダが出てくる。
サラダを一口食べて皿をテーブルに置くと、カレーが出てくる。
ペースが早い。

ばあちゃんが作ってくれたライスカレーとほぼ同じ味のカレーを食べ終え、気付くと同じカウンターではマダムが2人、話をしている。
どうやら初対面らしい。
「どちらからいらしたんですか?」
「横須賀からです。父が入院したので久しぶりに気仙沼へ戻ってきました。」
昔ながらの喫茶店の雰囲気も相まって、そんな会話も店内に流れるジャズ同様、BGMのように流れていく。

マスターが、カレーを食べ終わった頃を見計らってコーヒーを出してくれる。
圧倒的な癒しをもたらすほど美味しいわけでもなく、だからといって決して不味い訳ではない、丁度良い塩梅のこの喫茶店のコーヒーがとても好きだ。
腹も膨れてそんなコーヒーを一口飲むと、やはり煙草が吸いたくなる。

ポケットから煙草を取り出す。
その時ふと、カウンターのマダム2人のことが気になった。

吸えない。

これは何なんだろうか。
僕はいま、喫煙可の喫茶店に来ていて、カレーを食べ終え、コーヒーを一口飲み、煙草を吸うにはあまりにも完璧なタイミングなのに、吸えない。
マダムが怪訝そうな顔で僕を見ているわけでもない。
灰皿も目の前にある。
なのに、堂々と煙草に火をつけることができない。
何故なのか。

例えばもし、これが居酒屋ならどうだろう。
登場人物は同じ。カウンターには僕と、初対面のマダム2人。
目の前にあるのはカレーとコーヒーではなく、焼き鳥とビール。
「どちらからいらしたんですか?」
「横須賀です。父が…」
たぶんこのタイミングで既に僕の煙草には火がついている。
さっきサラダが出てきたタイミングよりも早く、煙草に火がついている。

では同じ居酒屋のランチならどうだろう。
目の前にあるのは、そうだな生姜焼き定食としよう。
食べ終わる。満腹だ。ご飯は小盛りにしておけば良かった。
となりのマダム達も、おそらく普通盛りのご飯を多く感じているはずだ。
食べ終わった僕は、お店のお母さんが出してくれたお茶を飲む。
目の前に灰皿がある。
吸えない。
なぜだ。さっきと同じ居酒屋のはずなのに。

ともすれば、時間帯の問題なのだろうか。
ランチというのがダメなのかもしれない。
夜なら煙草に火をつけるハードルが下がる。

先述の喫茶店はお昼過ぎに閉まるのだが、もし夜も営業していて、同じ状況ならば。
日中でも薄暗い店内は、夜になるとその雰囲気をさらに増すだろう。
昼と同じアルバムのはずなのに、夜に聞く方がよりムーディーになるのがジャズの不思議なところだ。
注文は何にしよう。
あの喫茶店の夜のメニューのイメージが全くできない。ナポリタンあたりが妥当か。
お酒はきっと無い。だからコーヒーを飲む。
マダムが2人いる。初対面らしい。同じカウンターで会話をしている。
ナポリタンを食べ終える。
コーヒーを飲む。
吸えない。
どうしてもマダム達に、頼まれてもいないのに一方的に気を遣ってしまう。

先ほどの居酒屋と時間帯は同じだ。
違うのはメニューと、アルコールの有無。
アルコールがあれば煙草は吸いやすいのかもしれない。
いや、それはもう吸わずにはいられない。
しかし最近のバーなんかでは、煙草が吸えないところも増えてきた。
まったく世知辛い世の中である。

吸わずにはいられないと思う時でさえ、吸えない時がある。
吸えるシチュエーションでさえ、吸えない時がある。
これは何なのだろう。
自分に対して、モラルを押し付けているのかもしれない。
他人に対してやたらと気を遣い過ぎるところisある。

何も気にせずに吸いたい。吸いたい時に吸いたい。
誰にも気を使わずに吸いたい時に吸えるほどの異常に強靭なメンタルが欲しいと思いつつ、僕は喫茶店を出てオフィスの前の小さな喫煙所で身を縮こませながら煙草に火をつけた。

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