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僕は君を(もしくは僕を)忘れないでいるために。

その日の東京は、とても天気が良かった。

日差しも風も春の匂いがする、まるで新生活の始まりを思わせるような朝。
窓を開けて部屋の空気を入れ替える。
たまたまつけたテレビには、ゲストにイッセー尾形さんが出ていた。
子どもの頃に一度公演を観に行ったことがある。
2日後に迫ったライブのリハーサルのために、池袋にあるスタジオへ向かう。
バンドメンバーは4人全員、気仙沼高校の同級生。
卒業してからちょうど1年が経ち、僕らは19歳になっていた。

セットリストを決め、本番の流れ通りに演奏を始める。
何曲か演奏をこなして、次の曲の演奏が始まってすぐ、僕の左手にいたギターが演奏の手を止めた。
機材の調子でも悪いのかと、僕らは演奏をそのまま続ける。
彼が何か言っている。
演奏がうるさくて聞こえない。
僕らが演奏を止めて、ようやく彼の声が聞こえた。

「揺れてない?」

スタジオの天井に吊り下げられているスピーカーが左右に揺れている。
その揺れを認識した直後、どんどんと揺れが大きくなっていく。
スタジオの扉は防音のためにかなり厚く作られているから、開かなくなったらたまったもんじゃない。
ドアを開けると、他のスタジオにいたバンドマン達も慌ててスタジオから飛び出してきているのが目に入った。
外に出ると、周りの高層ビルが折れるんじゃないかと思うくらい、左右にゆっくりと揺れていた。
首都高速の鉄橋はものすごい音を立てて軋んでいる。

これほどの揺れだ、震源はこの辺なのだろうと思ってTwitterを開く。
そこで目にした情報は、震源が宮城県沖であること、マグニチュードは7.9(のちに8.4、8.8に訂正、その後9.0となる)、そして、岩手、宮城、福島の沿岸に大津波警報が出されているということ。
海からすぐ近くに住んでいる家族とは、すでに電話が繋がらなかった。

スタジオの人に事情を話し、スタジオにあったモニターにUstreamで生中継されていたNHKを映してもらい、情報を得られるようにしてもらう。
日が暮れるにつれ、様々な情報が入ってきた。

千葉の石油コンビナートで火災。
仙台市の荒浜に、200〜300人の遺体がうちあげられている。
福島第一原発で冷却用の非常用電源が使えず非常事態。
鳴り止まない緊急地震速報。
そして、ふるさとが現実味のないほどの炎に包まれている映像。
テレビからは「壊滅状態」という言葉が何度も繰り返される。

外を見ると、向こう側の道路が見えないほどの人が歩いている。
近くのコンビニの棚からは商品が消えていた。

揺れを感じたスタジオで僕らは高校の同級生の名簿を作成し、ブログとmixiに公開した。
連絡が取れた人の名前の横には○、津波の前に連絡は取れたがその後連絡が取れていない人の名前の横には△、死亡が確認された人の名前の横には×をつけることにし、一覧で安否が確認できるようにした。

ようやく動き出した始発の電車で、池袋の近くに住んでいた当時の彼女の家へ向かう。
一夜明けて、テレビではさらに多くの情報が流されていた。
あとぽぽぽぽーん
あのCMを図らずとも完コピして口ずさめるようになっていたのは僕だけじゃないはず、もはやあの頃の僕らのアンセムだった。

1週間ほどしたあと、同級生の名簿には奇跡的に全員の名前の横に○がついた。

その後も東京でやれるだけのことをした。
情報をまとめて発信し、「いま戻っても足手まといになるだけだから」と、気仙沼へ戻ったのはその日から3週間が過ぎた頃だった。

当時は本気で、そう思っていた。
やれるだけのことをしているつもりだった。
でもいま思い返してみれば、帰らない理由はそんなことじゃない。

怖かった。
何も見たくなかった。
信じたくなかった。

あの時の後悔が、今も残っている。
泥かきだろうが、瓦礫運びだろうが、なんだって出来たはずだし、何もしなくても家族と一緒にいるだけでも良かったはずなのだ。

あの時気仙沼に帰らなかったことを、僕は今でも後悔している。

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毎日、嬉しいことも、悲しいことも、ムカつくこともたくさんある。
目の前の山積みの仕事も、色んな締め切りも待ってはくれない。
そんなことを8年間、毎日続けてきた。
毎日生きてきた。
全てを忘れずにいるなんて、絶対に無理だ。

それでもこの後悔と、あなたが生きていたことは忘れたくないから、毎月11日には集まる。
「memento mori」なんて仰々しい名前を冠した屋号を掲げて仕事をする。

街が良くなることなんて、僕にとってはただの結果でしかない。

いつでも僕にとっての全ては、僕が君を(もしくは僕を)忘れないでいるためなのだ。

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