結婚進化論 〜これからは『結婚』から『多人数による期間限定共同育児同盟』へと進化する〜(【2】まで書いた)




この文章を読む時間がない人のために、大切なポイントをまとめておきました。



①結婚とは『国家を維持するためのシステム』であり、『次世代のコミュニティ・メンバーをつくるために生まれた義務』であった。



②ところが、今の日本には『結婚したくない人』『結婚できない人』があふれている。つまり、システムが崩壊している。



③そして、システムが崩壊している以上、国家の維持は難しくなっていくので福祉も縮小していくし、みんなが貧乏になる。



④ということは、「核家族が政府の援助やお金で他人の手を借りて子育てをする」という現在のやり方は無理が生じる。



⑤信頼できる人間と共同体をつくるべき。


「他人の子育てに参加し、事前に子育てを経験する。
そして自分の子育てのときはまた誰かに協力してもらう」育児の連鎖をつくる。







【0】目的:私たちがもつ結婚へのイメージと悩みを把握し、今の時代変化の影響と合わせて解決策を提示する。そして友人の助けになる。




〈メモ〉

●未来予測について語りたい。
●人は生まれつきの遺伝子などによって平等ではない以上、「努力しろ」や「しようとしない人間の気持ちが理解できない」といったスタンスはやめる。それではただのマウント行為。他者への怒りの感情で気持ちよくなってはならない。
●自分の立ち位置や能力によって他者の役に立つ文章を書く。結婚とはなにかを明確に定義し、なおかつそれが時代とともに変化していることを伝える。
●そしてそれに対してどのような行動や意識の変化をすればいいのかを具体的に書く。具体性大事。
●友人たちの助けになる文。
また、人類の苦痛の軽減のための文。
●理想型の悪いところは熱意が空回りして具体的なころまで考えていないところ。それではなんの意味もない。熱意があるのは悪いことではないが、それのみで持論を演説して気持ちよくなってるだけでは害悪。しっかりと誰でもできる、利用しうる具体的な方法まで深堀りしておく。

○設定画

○設定画

○設定画



〈メモ終わり〉




はじめまして。

アツシと申します。


この文章は、我々の人生を悩ませる存在の一つであり、よく考えてみればなんなのかよく分からんモノでもある『結婚』について研究し、その結果を発表するものです。


具体的には、

【1】私たちの抱えている不安とは→

『結婚がこわい!』

【2】その理由とは→

『お気持ち第一主義と超常刺激』

【3】結婚の定義と説明→

『結婚ってそもそもなによ』

【4】これからの時代、世の中はどうなるか→

『評価経済社会とGAFAの四騎士による世界征服』

【5】ゆえに結婚という制度はすでに崩壊している→

『結婚システムの崩壊する日』

【6】その結果、我々はどうすればよいか→

『生涯恋愛社会と共同育児』

【7】子育てについてはどうすればよいか→

『子供は親を尊敬しない』

の7段階で説明していこうと思います。



ただし、私はこの文章を法則型の視点(論理的かつ生物学的視点)で書いたため、注目型の方(感情を大事にする人)は嫌な思いをすると思うので、そういう人は気をつけてください。



【1】結婚がこわい!



結婚は素敵なモノです。

愛する人と出会い、愛し合い、それを親しい人たちの前で誓い合い、ともに生活し、子供をもうけ、育て、そして人生の別れの時まで幸せに暮らす。


それが私たちのイメージする『結婚』であり、私たちがふんわりと「こうなったらいいな〜」と願う未来の自分の姿であると思います。


もちろん、結婚式の費用だったり、子供の養育費だったり、親の同居やら住む場所やら子育てやら、現実的な悩みがつきまとうのも事実でしょうがそれでも私たちは『結婚』に対してポジティブなイメージを持っています。



いや、持っているべきだと私たちは思っています。



その証拠にアナタは結婚しない人生を想像したくないハズです。

「いやー結婚はね〜」と真剣に考えていないフリを友人にしながらも、その心のウチでは人生負け組とか、親に申し訳ないとか、安アパートで一人コンビニ弁当食べてる将来の自分の俯瞰とか、結婚した友人たちに対する妙な置いてきぼり感とか色々な感情が湧き上がってくる。

結婚をしない生き方とか、晩婚化とか、そんな情報を見て安心しつつも、やっぱりなんだかんだ言っても結婚がない自分の人生が考えられない。



個人化が異常に押し進められた現代においても、他人と同居し、ともに生活しなければならないという不文律のこの習慣を私たちは当たり前にもっています。

男は『自分が若い女性から相手にされるウチ』に、女は『女友達と母親からやいのやいのと言われないように』、どちらも「そろそろ結婚しないとなぁ‥」と思っているのです。




しかし「なんで結婚したいの?」と聞かれても、それに対してはっきりと答えられない。

どうも結婚そのものについて深く考える余裕もないまま、私たちは結婚というゴールに走り出しているようです。




若さという時限爆弾をかかえさせられたまま、よく分からんレースに参加させられた戸惑いと焦りをアナタも感じていることでしょう。



そう、結婚はこわいのです。




これは就職問題に関する悩みとよく似ていると思います。

大学を卒業するころ、いっせいに就職活動がはじまる。自分はなにもしていないのに、周囲はどこの説明会に行ったとか、ここのウェブ面接に参加してみたとか、なんだか置いてきぼりになったようで焦る焦る。

そして私たちはその波に流されつつ、「就職したい」という願望と同時に、「就職するのがこわい!」という感情と「就職するのがめんどくさい!」という感情が交差しながら就活に突入します。


自分の感情も整理できないまま、人生の伴侶である会社を探しに行くのです。




このように婚活に対する私たちの感情を理解するには、それによく似た就活への負の感情を理解すると分かりやすいので、『就活』、つまり『私たちと会社の関係』を解説しながら説明していきたいと思います。



でははじめに、私たちが就職(結婚)したくない理由は2つあります。

一つは『お気持ち第一主義』と、そしてそれを助長する『超常刺激』の存在です。





【2】お気持ち第一主義と超常刺激



『お気持ち第一主義』とは『自分の快・不快の感情がなによりも大事なこと』を指します。

「いやいや、自分がいい気持ちかそうでないかが大事なんて当たり前じゃん」と思われるかも知れませんが、はたしてそうでしょうか?



たとえばもし、今の日本で大地震がおきたら。

ビルがたおれ、道路が割れ、大勢の日本人が死んでしまうような大災害が起きたとしたら?



アナタはとにかく生き残るために行動することでしょう。

安全な場所を探して、目の前の水が飲めるかどうかを気にして、食料をどうすれば他の遭難者から分けてもらえるかに頭を悩ませる。


こんな修羅場の時に自分の快・不快の感情に耳を傾けている暇はありません。

生ぬるい水を飲んで、好みではない飯を食べ、やっと潜り込めた避難所では周囲に気を遣い、追い出されないようにとにかく全力でまわりと協調しようとする。



やりたいかやりたくないかなど問題ではありません。やらねば死ぬのです。



極端な状況を持ち出してきたとお思いかもしれませんが、むしろ人類の歴史の中ではこの『命の危機』は常に身近に合ったものでした。

ユヴァル・ノア・ハラリさんの【ホモゼウス】では「人類は飢餓・伝染病・戦争をついに根絶した」と書いていますが、21世紀になり科学によってようやくこの3つを遠ざけるまで(コロナは流行ってますが)、私たちは長きに渡って快・不快よりも命の危機のために行動してきたのです。





しかし現代の日本では、日常で命の危機を感じることなどありません。

私たちは都市をつくり何が潜んでいるか分からない危険な森から身を守り、分業によって野生生物を狩る手間をなくし、ワクチンと食品添加物は疫病と飢餓を遠ざけ、経済発展と世界規模の貿易システムは戦争をしない方が儲かるという状況をつくりあげました。

たゆまぬ科学の発展の末、ついに人類は長い間夢見てきた『平和』を手に入れたのです。




その結果、私たちは俗に言う『命のありがたみ』を忘れてしまいました。

当たり前ですよね。

清潔な水が蛇口をひねれば手に入る日本で水の大切さが分からないのと同じように、平和で豊かな現代で、「毎日命があることに感謝しなさい」と言われたってムリな話です。




この平和で豊かな現代社会での暮らしは我々に大きな変化をもたらしました。

戦争中は生き延びれるかどうかで頭がいっぱいですが、逆に平和になれば命に対する注目度が下がるように、社会が豊かになるにつれて自分の『今の感情』に注目しだす余裕が生まれたのです。



そして我々の関心が『命』から『感情』へとシフトした結果、人類史上初の『自分探し時代』が到来したのです。



『自分』とはなにか?『生きる意味』とは?そんな哲学的な悩みを誰もが持ち出し、拠り所のない不安を感じながら、「これが自分の生まれてきた理由なんだ!」と言えるストーリーを探そうとする。



そしてSNSで「海外でボランティアしてます!」と現地の子どもたちと笑顔で写っている写真や、「小さい頃母を病気で亡くし、それがきっかけで医者を目指すことにしたんです」というインタビューを見ると、なんだかその人が素敵な物語の中で生きているような感じがして羨ましく感じる。





「一度きりの人生、なにか特別なことをしたい!」

「自分も誰かのために熱く生きたい!」

「生きている実感がほしい!」





平和になってやるべきことがなくなった今、『何者かになりたい若者』たちは自分がしなければならないこと探しに躍起なのです。


なんだか定年退職後の老人みたいですね。

役割がなければ人は生きていけないのです。





このような『しなければならないこと』探しの結果、我々は『お気持ち第一主義』となりました。

自分がなにを感じているか、それが好きなのか嫌いなのか、目の前の人がいい人なのか嫌な人なのか、それを知るために我々の感情センサーは常にビンビンになったのです。



しかしそれは二次的な作用を及ぼしました。

その感受性の高さゆえ、我々はほんの少しの不快感にさえ耐えられなくなってしまったのです。




そしてその不快感とはつまり、『人間関係のわずらわしさ』です。

いくら仕事だとしても、嫌な相手とは一緒にいたくない。その人の言動や振る舞いにものすごいストレスを感じてしまう。

その結果、少しでも嫌なことがあるとすぐにやめてしまう。もしくはやめたいと思い詰めてしまう。




このような状況を高齢の方は「嫌なことがあるくらいで仕事をやめるなんて、今の若者は仕事をなめてる!」と思われるかもしれませんが、彼らは『仕事をなめてる』のではありません。むしろ彼らは仕事(コミュニティへの貢献)に熱心すぎる結果、人間関係をナアナアのままやり過ごすことができないのです。




「仕事は全力でやりたい!単なるお金稼ぎに時間を使うなんて耐えられない!」




これがお気持ち第一主義の人たちの考えです。

それにともないバイトの募集要項にも、「成長できる場!」「大切な仲間たちとかけがえのない思い出をつくろう!」と、まるで大学のサークルの募集チラシのようなフレーズが並ぶようになりました。


今度マックへ行ったとき、バイト募集のチラシを見てみてください。俗に言う『マックジョブ(誰にでもできる仕事)』ですらこの調子なのです。

このあたりの世代の感覚の変化については尾原和啓さんの【モチベーション革命 稼ぐために働きたくない世代の解体書】が分かりやすいと思います。





話が少しズレましたが、要するに今の平成世代の人間は自分たちの存在理由のために全力でコミュニティに協力をしようとしている。

そしてそれゆえに自分に対して少しでも嫌な態度をとる人の存在が理解できない。なんでそんなひどいことを言うのか?いくらお客様だからって、いくら先輩・上司だからって、いくら雇い主だって、自分の感情を傷つけていいハズがない。ああ、やる気がなくなってしまった。相手がいい人ならいくらでも仕事するのに!





つまり平成世代の人間は対等で気を遣い合う『友人関係』は理解できても、『先輩後輩関係』『上司部下関係』を理解できない、興味がもてない。

これは我々が結婚に対してノリ気になれない理由と同じではないでしょうか?

自分の友人レベルに良いやつならまだしも、異性に対してはいまいち信用が置けない。





お金目当てじゃないのか?

途中で浮気されて捨てられないだろうか?





どうせ結婚するなら、人生のパートナーと共に暮らすなら、相手に尽くしたい、チームとして協力しあいたい。尊敬できる相手と愛し合いたい。

だから「結婚生活の途中で、相手に嫌な態度をとられたらどうしよう」と悩んでしまう。

そんなことがあったら関係性を解消したくなる。でも友人関係ならまだしも夫婦関係だし、それも子供なんてできたら…!





このように生真面目な態度と高すぎるハードルゆえに、お試しで結婚してみて、合わなかったら離婚という手がとれない。

結婚というメンツ、自分の子どもが欲しいという利己的なメリットだけでは結婚ができない。

どうしても相手を人間扱いしてしまう。責任を全部背負おうとしてしまう。




真面目で全力すぎる。

だから結婚がこわい。




これが『お気持ち第一主義』がもたらした新たな人間関係の構築へのハードルの高さです。

要は理想が高すぎるんですね。

適当に相手を選んで、適当に結婚生活を送って、適当に子供を育てることに耐えられない。



そんなことのために自分の人生があるわけじゃない!

そんな中途半端なことをするくらいなら、そんな取り返しのつかないことをするならアイドルとか、船の擬人化(もしくは剣の擬人化)と恋愛ごっこをしてたほうがマシだよ!と平成世代が思うのもムリはありません。





しかし、このようなわずらわしさを避ける毎日を選んだ結果、私達は流動食しか食べられなくなってしまいました。

流動食とは、『我々が人生において感じる喜び』から『不快に感じるノイズ』をとりのぞいたモノであり、まさしく『ポルノ』のことです。





よりわかりやすく、より早く、より楽しく、より美味しく、より簡単に。科学の発展とたゆまぬ企業努力の結果、私たちの日常はポルノだらけになってしまいました。

「どうすれば消費者はドーパミンを出すのか?」という研究のもと、我々の感情は企業によって完全にハックされたのです。

それが悪いことだと私には言い切ることはできませんが(より楽で楽しい商品と生活を求める消費者がいるため)、その結果、私たちはタンパク質を食べるかわりにタンパク質風味の食べ物を食べ、狩りをするかわりにスポーツ観戦をして、恋愛をするかわりに二次元キャラに惚れ、友達と語らうかわりに実況動画を見る生活を送ることに対してもう違和感も感じなくなりました。






逆に言えば、そういったポルノではない行動に対して、わずらわしさを感じてしまう。そして少しでもノイズを感じるともう嫌になってしまう。



私自身、スマホを持ち歩きだしてから本を長時間読めなくなってきました。


じっくりと読み進め、反復し、自分のなかでこねくり回して消化するという作業が面倒くさくてしょうがないのです。
それなら寝っ転がりながらスマホでyoutubeのお笑い動画を垂れ流してゴロゴロする方が楽で楽しい。


このように、一度味わうとそれまで自然としていたことが面倒くさくて退屈で味気なく感じてしまうモノがポルノであり、これを『超常刺激(自然界に存在しない刺激)』とも言います。




友人との語らいや、恋人との触れ合い。水の美味しさやシンプルな味付け。狩りの成功や太陽の暖かさといった、ホモ・サピエンスの脳が予期していた快楽の限界をはるかに超えたドーパミン出力を一度にあたえてくる超常刺激に私たちは勝つことはできません。


ゆえに何度もスマホを取り出しSNSをチェックしてしまう。頭が痛くなってもゲームを遊び続けてしまう。おもしろくないのにyoutubeの動画をボーと見続けてしまう。



そしていつのまにか一日が終わってしまう。






この状況はもはや麻薬であるアヘンが蔓延していた19世紀の中国と同じでしょう。

アヘンは使用すると多幸感があるため、寝っ転がったまま「しあわせ〜」となれる。
しかし依存性があり、やめると禁断症状が出る。
その結果19世紀の中国では人口の1%である400万人がアヘン中毒でなにもできなくなってしまった。





麻薬であるアヘンは国家間において流通が禁じられましたが、現代ではもはや身の回りのものすべてがアヘン化していると言っても過言ではありません。

我々が刺激を求め、退屈を嫌った結果、そのどれもが私たちの日常からほんの少しのわずらわしさすらも奪い去り、手軽で後腐れのない快楽漬けの生活を用意してくれるスーパー商品と進化を遂げたのです。

こんな状況で結婚なんてクソ面倒な事をわざわざしたいはずがない。




なぜなら人間関係なんてどんなに仲がよい親友同士であってもわずらわしさが生じるものなのに、いきなり異性を一人選んでソイツと暮らしてソイツと子供をつくって育てろなんてハードルが高すぎだからです。

つまり、普段の『超常刺激』という流動食暮らしに慣れた私たちには、戦前のご近所付き合いレベルの関係性の濃さはあまりにも厳しい。





かと言ってネットで事前に予習しようとしても出てくるのは圧倒的に負の情報ばかり。

「結婚してから態度が豹変した」とか「子供が生まれてから暴言をはいてくるようになった嫁」とか「借金残して逃げた夫」とか、どれも面倒くささとわずらわしさを助長してくるばかりで、もっと分かりやすく結婚と家族という幸せなイメージを与えてくれない。




家族モノの代表である【クレヨンしんちゃん】には「安月給!」「なんだと!!」とみさえとヒロシが夫婦喧嘩をするシーンがコミカルに書かれていますが、あんなことを実際にパートナーに言われたら言い返すどころか心にダメージを負って関係を解消したくなるハズです。


最後にはしんのすけの介入がはいって、「すまん言い過ぎた」「ううん、私の方こそ」とやっぱり家族っていいよねというオチがツキますが、果たしてそこまでして関係性を維持する必要があるのでしょうか?





創作物に言っても仕方がないことですが、そんな頻度でみにくい言い合いをする関係性ならば、さっさと離婚したほうが互いに良いのでは?と考えてしまいます。

つまり、【クレヨンしんちゃん】の夫婦喧嘩テンプレというのは『喧嘩する時もあるけど子はかすがいで仲直り。よかったよかった』ではなく、『どれほど嫌なことを言われても子供のために自分の受けた嫌な感情を我慢して、関係性を義務感で続けなければならない』というメッセージを発信してしまっているように見えるのです。





これは介護問題とも似ていると思います。

自分のしていることに感謝をしてもらいたいのと同じように、相手がしてくれることに感謝すべき。
それが友人間の暗黙のルールですが、家族間での介護ではそれがなぜかウヤムヤにされる。


「家族だから」という義務感で自分の労力がして当然のことのように判断されてしまう。
同様に夫だから、妻だからと自分の持ち出しの苦労に100%の感謝がない。
どこかこれぐらいしてもらって当然と相手は思っている。






なぜならそこに関係性の解消が存在しないからです。
一度家族になってしまえば、一度子供をつくってしまえば、もはや関係性を気軽に解消できない。




逆に言えば友人同士のようなある種の緊張感がないゆえに、相手への敬意を失いやすい。

平和であれば命のありがたみを忘れるのと同じく、あって当たり前のモノは注目されにくいのです。




「これが友人に対してだったら恩に感じてくれるハズなのに!」




というふうに、こんな投資効率の悪い関係性に時間を投資するのは非効率に見える。



それほど我々の『お気持ち第一主義』は強くなっています。

逆に漫画【スパイファミリー】のような、血の繋がりもない人たちが擬似家族として団結してしあう方が自然に感じるし、まだ身近に思える。





なぜなら彼らの関係性は、血縁があるから互いに一緒にいなければならないという『家族という義務感』ではなく、互いに必要だから助け合うという『友情に近い相互奉仕』だからです。



戦乱のさなかであれば家族というのは誰よりも頼りになるコミュニティでしたが、平和になれば逆に「家族は助け合わなければならない」という社会的通念が足を引っ張ってくる。

そう、平和な現代において家族とはもはや頼りになる絆ではなく、気軽に断ち切ることができない鎖になってしまったのです。


このように書いていると、「もう家族なんて面倒くさくてわずらわしい関係は捨てていいんじゃない?
超常刺激だ、アヘンだなんて脅すけど、二次元だって可愛いし(かっこいいし)、実況動画だって楽しいじゃん!自分は今の生活で満足だよ」と思われるかもしれません。





しかし、この『お気持ち第一主義』と『超常刺激による感情マッサージ』の行き着く先は、『自分を傷つけない世界に引きこもり続ける人生』だと思います。

そしてそれは、他人とのコミュニケーションという、自分を傷つけるかもしれない危険なモノは誰もやらず、用意されたバーチャル世界の中で各自が自分のためにセッティングされた快楽に浸る『永遠のアヘン中毒』の人生です。




事実、そういった生活に私たちは足を踏み入れています。twitterのミュート&ブロックをはじめ、身の回りから不快なものを排除していくことに私たちはなんら罪悪感はありません。
むしろネットを通して無限に提供される娯楽をいかに厳選するかに気を取られているのです。

そんな生活の延長線である『永遠のアヘン中毒』の人生の実現はそう遠くないでしょう。それがいつになるかは、VRの一般普及が分岐点だと思っています。





VRとはつまり、現実世界のめんどうくささ、わずらわしさなどのノイズをすべて取り除いた究極の楽園へ行けるどこでもドアです。


自分にとって都合のよい世界で、都合のよい異性が、都合のよい会話をしてくれる。

ストレスフリーで予定調和の楽しい世界。

私はそれを夢の世界、『ドリームランド』と呼んでいます。
 

それが実現するのがいつかは分かりませんが、そんなバーチャル世界を提供する企業か個人は必ず生まれるハズです。




なぜなら、それが人間の本能に根ざしたものだからです。それがビジネス目的かクリエイターの気質ゆえかはわかりませんが、それを追求し、作品化していく人が現れ、多数の消費者から称賛を得るのは目に見えています。
現に男性向け女性向け問わず、魅力的な異性がチヤホヤしてくれるゲームにハマっている人は大勢いるからです。





そういったニセモノの喜びを良しとしない美意識や美徳がない限り、その欲望とそれを叶える超常刺激は無限に拡張していきます。そしてその最後に待っているのは、朝から晩までゴーグルを顔にはめてボーとしてる毎日を送っていると思ったら、「いつの間にかおじいちゃんになっていた」「いつの間にかおばあちゃんになっていた」と気づくあっという間の人生です。

私はそれはまずいんじゃないかと思い、「ニセモノはいらない」と自分の作品の中で主張しているのですが、それはいわばアヘンの中毒性に逆らえと言ってるようなモノなので「ウーン。現実的じゃないかなぁ」と悩んでいます。






とにかく、そんな夢の世界、『ドリームランド』が実現すればそこから帰ってくる人はいないでしょう。
なぜならそこから帰ってくるということは、予測できない理不尽性とわずらわしさあふれる人間関係の中で生きなければならないということだからです。



というかリアリティの問題をのぞけば好みの異性とコミュニケーションができるVRゲームはすでに存在しています(カスタムメイド、ハニーセレクト、サマーレッスンなど)。そして技術の発展にブレーキはありません。

そこに人間の性欲がありさえすれば、これからもさらに完成度は高くなり続けるハズです。





しかもそのころには接触感度の再現も可能になっているとしたら、今の荒い画素数の二次元イケメン・美人にすらあらがえない私たちはもはやその魅力に太刀打ちすることはできないでしょう。


人間を淘汰・絶滅に追いやったのは、人間が生み出し、その恩恵によって人口を増やし続けてきた科学文明だったわけです。


無念。





…と、言うふうにこの章では我々が結婚に感じる不安の原因は、普段の我々の生活にこそあると説明しました。

後半は愚痴っぽくなってしまいましたが、じゃあ今の日常における『超常刺激』の存在や自身の『お気持ち第一主義』が自分たちのせいなのかと言われればそれは違うと思います。

それはいわば黒船の来航や火薬の発明と同じく、個人の行動で左右できる問題というよりは時代の大きな変化、パラダイ厶の変化であり、大切なのはそれに巻き込まれて死なないことだと思っています。

私たちが今生きているのは、明治維新の動乱と同レベルの大変動の時代なのです。
そこでは価値観も変わるし、生活スタイルも変わるし、関係性も変わるし、ヘタすれば変化に巻き込まれて死んでしまうかもしれない。




それを踏まえ、ここからは、大変動の時代とはどういうことなのか?そしてそれではどうすればよいのかという具体的な対策について深堀りしていきたいと思います。

まずは「ではそもそも『結婚』ってなんだっけ?」という言葉の定義からスタートし、そのメリットとデメリット、そしてそれをいかに今の我々の生活や感情に落とし込めば我々は幸福に生きられるかを説明していきます。





以下、未整理↓

【3】結婚ってそもそもなんだっけ?





それでは、そもそも結婚とはなんなのでしょうか?


大恋愛の先にあるゴール?幸せな家庭生活?社会人の義務?一人前の証?


色々と思い浮かぶモノはありますが、私は結婚とは『コミュニティ維持のためのシステム』だと思っています。


コミュニティとはつまり、我々が生活をする上で協力し合う仲間たちのことを言います。




私たちは学校では友達とおしゃべりをして、会社では同僚と仕事をして、家に帰れば家族とご飯を食べます。

それはつまり、楽しく学校生活を送るための『友達』というコミュニティ、お金を稼ぐために協力しあう『仕事仲間』というコミュニティ、そして共に助け合って暮らす『家族』というコミュニティを私たちはもっているということです。



これだけではありません。
趣味を共有して遊ぶ『遊び仲間』、恋愛をする『恋人』、ネット上で見たアニメの感想を言い合う『匿名掲示板の住民』なんてモノまであるでしょう。

他にもまだまだあるでしょうが、そのどれもが我々が生きる上で必要な『コミュニティ』なのです。



そして、実は私たちはもう一つコミュニティに所属しています。

それは『国家』です。




自分が『日本』というコミュニティの一員であると意識するのは海外に旅行に行くときか、オリンピックのときぐらいかもしれません。

普段生活する上で自分がどこの国のメンバーかなんて気にすることは少ないでしょうが、それは現代が平和だからです。

実は、この平和で豊かな現代の暮らしを人類が築きあげるまでは、『国家』というコミュニティは他のどのコミュニティよりも大切なものでした。

そしてそれゆえに『結婚』というシステムが生まれたのです。





ではまず、『国家』について語る前に、コミュニティの成り立ちと人類の歴史について説明したいと思います。



始めに、原始の時代からコミュニティは私たちが生きる上で必要不可欠なものでした。

牙も爪もなく、寒さをしのぐ毛皮すらない貧弱な動物である私たち人間にとって、同族とチームを組むことは絶対条件だったのです。

木の実などの食糧を集めたり、おこした火が消えないように見張り番を決めたり、時にはマンモスを落とし穴に追い込んで狩りをする。

一対一では絶対に勝てないような野生生物たちが相手でも、群れを組めば倒して肉を食べることが可能なのです。
なんて素晴らしいことなのでしょうか!




このように、私たち人間にとって『コミュニティの人数が増えること』とはそのまま『できることが増えること』を意味しました。

人が増えればこれまで狩れなかった獣が狩れるようになる。
集められる木の実が増える。
夜、獣に襲われないための見張り番が増えて安心して眠ることができる。
まさに可能性のカタマリです。





しかし、だからと言って狩猟時代の私たちのご先祖様は、自分たちのコミュニティのメンバーの数を何百、何千と増やそうとはしませんでした。


なぜなら、自分たちが暮らす森から手に入る食糧の限界数が決まっていたからです。

つまり、ひとつの森で養えることができるメンバー数が厳密に決まっているから、それ以上メンバー数を増やすことができなかったのです。





ユヴァル・ノア・ハラリさんの【サピエンス全史】によれば、現代においても狩猟採集生活をおくるインドネシアのアチェ族では、青年男性が死亡すると少女を一人殺して一緒に埋めていたそうです。

それはなぜかというと、青年男性という『食いぶちの稼ぎ手』が一人いなくなるということは集落全体における手に入る食糧数が一人分減るということだからです。
だから帳尻を合わせるために集落のなかで足でまといになる者を一人殺す。





日本でも乳母捨て山という昔話がありましたが、このようにコミュニティのメンバーは無制限に増やすことはできないのです。
そこには必ず、働き手が何人か、それで何人を養えるか、狩りの邪魔になる足手まといは誰なのか、そいつをいつ殺すかといった冷徹で現実的な思考が付き添っていました。




では、なぜ現代では私たちの暮らす『国家』という超大人数のコミュニティが成立しているのでしょうか?



それは『農業』の到来が影響しています。

今までは食というモノは危険な森へ行って木の実を集めるか、ときには手痛い反撃をくらって命をおとすかもしれない狩りという男たちによる一大イベントによって手に入れるものでした。

そしてもし食糧が足りないときは足手まといの者を殺す。

それが人間の暮らしであり、当たり前のことだったのです。





ところが農業はその常識をまるっきり変えてしまいました。

まず、種をまけば次の年には何倍にもなって返ってくるという魔法を人類は手に入れました。
そして食糧がとれるかどうか不確かな『狩り』ではありえない、「来年にどれくらいの食糧が手に入るか」の予測がたつようになったのです。

これによって私たち人間はいつ種をまくか、いつ収穫するかという『一年のタイムスケジュール』、つまり『時間』という価値観を手に入れることになりました。(その結果、私たちは未だ訪れていないはずの「将来の自分がどうなるのか」という不安と悩みを抱え込むことになったのですが、それは置いといて)






また、個人の才能においても農業の登場によって変化がおきました。

今まで集落のなかで尊敬されてきた狩りの達人が必要なくなってしまったのです。




農業において必要とされるのは『個人の卓越した身体能力』ではありません。周りと同じ作業を、そして毎日同じ作業をずっと続けられるかどうかです。

つまり『毎日続く退屈で地味な作業に耐えられるかどうか』ということですね。





キョロキョロと回りを見回して、いち早く獣を発見するという才能が今ではADHDという発達障害に成り下がってしまったように、狩りの達人は集団作業の単純労働の前では価値を失ってしまったのです。




しかし良いことも当然たくさんありました。

まず、安定してご飯が食べられるようになったのです。
そしてそれは、狩猟採集社会では足手まといとして殺されていた生まれつきの身体弱者やお年寄りなどを養う余裕が生まれたということなのです。
能力がなくとも、集落のメンバーと同じ作業をすることができれば頭数として必要としてもらえる。





『農業』という発明は、今までの、生まれつきの身体能力における才能の格差をなくしてくれたのです。



このような価値観と生活の変化を『農業革命』と言います。
後の人類史においておこる『産業革命』においても同レベルの大変化が人類にまきおこるのですが、それはとりあえず置いておきます。




この『農業革命』は、戦争を産み出すことなったのです。

先ほど、「普段生活する上で自分がどこの国のメンバーかなんて気にすることは少ないでしょうが、それは現代が平和だからです。」と書きましたが、






備蓄

今までの狩猟採集社会では戦争をするメリットはありませんでした。

狩猟採集生活では人口は少ないほうがいい。

少数精鋭で互いに知った者同士で


また、他のコミュニティと殺し合いをしても得られるものはほとんどありません。
狩猟採集社会は木器・石器時代でしたから大半の道具は自分たちでつくれるし、食糧は腐るから財産として保管できるものが限られていたからです。
それに相手の集落の人たちを捕まえて奴隷にしたところで、働かせる仕事がない。
奴隷制は奴隷を働かせられる単純作業があってこそなのです。
ゆえに農業というシステムが





その結果、コミュニティは拡大
その促進したのは農業革命の到来です。

古来、コミュニティと戦争はきってもきれない関係でした。

すぐ近くに自分たちとは違う集落がある

コミュニティの拡大


戸籍による管理、他国との戦争のための人手
そしてそれは国民国家の成立によって加速した。
戦争というコミュニティの危機により、メンバーは団結

古来、人口は力でした。

ランチェスターの法則によれば、武器の性能が同じであれば兵力によって勝敗が決まると

つまり兵器
核兵器というチートが生まれるまでは人手こそが戦争の鍵を握っていた。
そして

だから、「いい年だから結婚しろ!」という同調圧力が発生した。

しかし戦争と農業離れとお気持ち第一主義によって、

そもそも恋愛と結婚は違うということを忘れてしまった。

ゆえに「結婚ができない!」という状況がおきてしまっている。

弱いオス、魅力のないメスはむり。


それが動物。淘汰。


しかし人間はコミュニティで生きる。


そこではみな平等でなければならない。


そうでなければ反乱とリンチがおきる。


つまり、農作業や戦争などのコミュニティで一致団結しなければならないホモ・サピエンス的なイベントのために男は結婚


つまり、矛盾している。


それをどうにかするために自分は神だとか、神から支配の権利をたまわったとか、階級をつくったりとか大変そうやってホモ・サピエンスの幻想を利用でもしないとそうでもしなければメス資源の独占は許されない

ゆえに一人一個まで!というルールが生まれた。

つまり結婚は、国というコミュニティの維持のためであり、そのための戦争と農業をする男を増やすためであった。

政治家=国家政治を担当する国民

自衛隊=国家防衛のための戦争を担当する国民


○そもそも恋愛はだれにでもできるもものではない。

恋愛と結婚は違うとよく聞くが、
ではどう違うのか
それは結婚はシステムだということ
受験や就職、車の免許取得

そのなかで半分以上が無理ならそれはシステムとして成立してない





これはつまり、不快さに耐えられない現代人の変化によって

自らの命を守るためにコミュニティの中でうまくやっていくテクニックなどを私たちは忘れてしまったのです。

経済的に日本ではお隣に醤油を借りに行く

そのためには普段からあいさつをしたり、世間話をしたり、相手の助けになるようなことをしたりと

そんなわずらわしい人間関係

よりもお金を稼いでそれで一人暮らししたり、

自分で醤油買うわい!

そんな現代人が『結婚』という生きるために協力し合う同盟関係に対してノリ気になれないのも当然です。


つまり、結婚するのがこわいのは自分の生活が変化してしまう不安と固定化された人間関係に対するわずらわしさによるものなのです。


就職と婚活は同じ


要は私たちが会社に求めているモノは「私を大切にしてよね!」でしょう。

「今の会社は俺を大事にしてくれない!」

「ウチの旦那は私に関心をもってくれない!」

我々はお金を稼ぐためだけに働くのという関係性に不満が出始めている。


つまり、お気持ち第一主義によってビジネスライクな契約関係を時間がもったいないと思いだしている。


結果、結婚も、恋愛という関係を踏まえたあとに、また結婚中も恋愛関係のように振る舞ってほしいと思っている。

ゆえに、契約的な話、つまり「あなたは私のためになにができるんですか?」と聞かれたくない。

理想の結婚生活を求めていても、相手にとっての理想には興味がない。

家事は女の仕事じゃない!とか金がなくたって結婚したい!とか恋愛と同様に見ている。

「【愛】があれば大丈夫」と。

しかし、冷静に考えてほしいのだか、

ではそれが恋人ではなく友人との同居ならどうだろうか

友人をないがしろにはできないと

ところが異性に対してだとなぜかその感覚がなくなってしまう。

結婚という契約で縛りつければ逃げれないだろうと


恋愛を経て、結婚にいたる

それが正しいかはとりあえず置いといて



遺伝子的にすぐれたαオス・αメスならまだしも、その逆のβオス・βメスにとって異性とのコミュニケーションははっきり言って無理ゲーです。

だってβオス・βメスの人自身が、自分と同じランクであるβの異性を選ばないのですから。

みんながみんなランクトップである少数のαオス・αメスへ目を向けている。

就職活動でも、大企業に何万人も応募しているのだから中小を狙え!と言われても、

(「えー、そんなこと言われてもさぁ‥」)と思うように。

「『すごい素敵な男性』、『すごくかわいくて若い女性』は競争率が高すぎるから、それは諦めて『見ていて嫌悪感が沸く男性』『チンコが勃たない女性』を狙え!」と言われても、「えー‥」

(ちなみこれは中小企業批判ではありません。対比の構図的にこうなってしまいました)

さらに言えば人類は


何度も何度も断られて、嫌な思いをする

結婚なんて


では、非モテのβオス・βメスはともかく、モテモテで求められまくりのαオス・αメスはどうなのか

βが遺伝子的な理由で恋愛・結婚ができないのならば、引く手あまたのαならすぐに結婚しているハズ

いや、それも

αオスの利点は複数のメスから常に誘惑を受けることにあります

そして

しかし結婚という契約を結んでしまえば


ヤリチン戦略の限界


今はコンドームがあるので、昔ながらの手当たりしだいが機能していない。単にセックスしまくりではなんの意味もない。妊娠させ、遺伝子を拡散しなければ

また、ネットによって追跡される

いやむしろイケメン

その状態を楽しむために独身で居続けるでしょう。

むしろ、ついに年貢の納め時かとまわりから

ということは結婚はαオスにとって

一人としか子供を作れないのならばなるべく厳選しようとする

また、どんな美人や性格がいい子であっても結婚後、変化しないとは限らない。


社会人という言葉

わざとハードルをあげている。

対価とお願いのはずなのに、これぐらいして当然とか


これは結婚でも同じ

○○してほしいと言えばいいのに、夫だからして当たり前とか

妻だから当然とか


まだ生まれていない子供に愛着がわかないのは当たり前。

結果、今の快楽を優先して、出産を先延ばしにする


できるだけ得な結婚がしたい。

得な相手が欲しい。

この結果、一人一個までという結婚システムが出産率の足をひっぱっている。



恋愛苦手なのは情報戦をしているから
自分の欲望を知られると不利になる



ではαメスはどうでしょうか?


なぜ子供を産まないか?

それは自分の財産が減るから

財産とはつまり、お金・時間

「ああ、契約ってめんどくさい!」

結婚にもクリーニングオフがあれば

こんなめんどくささから、今では恋愛は恋愛オタク、女オタクしかやらなくなってしまった。

選挙と似ている。政治オタクしか興味がわかない。

それなら二次元相手に恋愛ごっこ・結婚ごっこ・生殖ごっこをしてる方がマシ!


結婚こわい→はずれを引いたときのリスクがでかい。新築買ったときお隣さんがやばいやつレベル


それはつまり、

欲しいものはある。ただ、嫌な思いをしてまで








○恋愛と結婚の違いは?

結婚


モテはもてるから結婚したくない

非モテはモテナイから結婚できない


モテもそろそろ‥と

しなくちゃなと


関係性の固定化がこわい




私は【ビジネスオワコン論】というnoteで、我々はビジネスライクな関係に耐えられなくなっていくだろうと書きました。

ということは、結婚という契約関係もまた、私たちは耐えられなくなっていくはずです。





【】男のセックス+女の恋愛=結婚


メスにとっての結婚と、オスにとっての就活ってほとんど同じだと思う。

もっと私を見てくれ!



男は目的でつながり、女は感情でつながる。


それぞれが求めるモノと与えられている機能が違う。


男=求めるもの

一人の時間、セックス


女=求めるもの

他人との時間、生活費


男=できること

アドバイス、解決


女=できること

共感

ミスマッチ


男にとって一緒にいたいのは目的を達成するための仲間であり、阿吽の呼吸ができる仲。


②司令よりの注目型もしくは注目よりの司令型の女とは結婚しない、





女の生殖戦略はいかに自分の言うことを聞いてくれる男を見つけるかゆえにワガママや不機嫌で選別する

しかし、今は二次元 



子供を抱えながら、買い物をして
ワンオペ
協力せいよ

あまりに非効率
ではなぜこうなったのか
それは高度成長期が原因

一人ひとりが別れて暮らすことが幸せだと思わされた

5歳位までは子育ては動物の世話と同じ。説得が通じない以上、一人ではムリ。
6歳位になるとコミュニティのリーダーに「ほめられたい」「叱られたくない」欲求が生まれる。

ではどうすればよいか(ここ重要。これがないと意味ない)

結婚論

【】評価経済社会の結婚生活

くわしくは【ビジネスオワコン論】で書いたが、

一人が稼いで養うというカタチは不可能になると思います。

コミュニティ単位での


結婚はシステム、契約。であるならば、いつ、どんなときに契約を終了するか事前に決めておくべき。



教育(子育て)とは

自分が死んでも生きていけるようにすること



○家庭は子育て(教育)のため。

子育てとは、親が死んでも生きていける力をつけさせること。


◯共同体で子育てをするということは乱交と托卵を認めるということ


互いにメリットがないと協力しない

→ならライオン型のハーレムにして男を一人にすれば?

コミュニティ内での政治的な圧力のなかで生きていく


マイルドヤンキー


◯女は悩んでいる

モテと結婚して捨てられ生存戦略不利になるか、非モテと結婚して子供に生殖戦略不利を背負わせるか


◯イタリア人的口説き方の合理性

口説けない=生存戦略

生殖戦略的には全力で口説くべき

中途半端が一番損。


口説かない=コミュニティ内で好意を気づかせない

口説く=相手に気づかせる。


では結局、子育てに必要なものは?金は?

子供をどうしたいの?どういう状態にしたいの?


◯欲しいのは共同生活者


ここからはホモ・サピエンスとして書きます(チンパンジーてきなイラスト、イビルネコみたいなダークサイド。かなり直球なはなし。若い女とか)

お気持ちヤクザ、弱者ポジション、被害者きどりはノーセンキュー

結婚2



結婚にはお金が必要ほど子育てにお金が必要と言うがではアフリカはどうなのかアフリカではたくさん子供を作る

結婚

男が求めるのはチームワーク

女が求めるのはコミュニケーション


本来子どもはコミュニティで育てるもの

それがもっとも効率時

コミュニティ内で無償で協力し合う

しかし今は金で他人を外注してる。

→学校、ベビーシッター、保育園、幼稚園など

つまり金を稼ぐ手間が増えている


◯結婚はゴールじゃない

セックスをふくめたコミュニケーションと子育てと外貨獲得などのチームワーク

耐用年数


◯男は大人扱いしてほしい

女は子ども扱いしてほしい


◯そもそも男と女は生存戦略と生殖戦略もちがうんだから同盟にはなれても味方になるわけないじゃんバカか

◯遺伝子からの淘汰の恐怖は40、50くらいで強くなる。10、20ですでにこづくりしてるはずだから。すると年取ると、「え?なんでお前、次の機体用意してないの!?」と遺伝子がビビる(この表現は擬人的で正しくはないが)


◯リスク回避のため子供は5人くらい生むべし


◯違うものは一緒にいてはいけない

ズートピアで多様化社会の素晴らしさと目指すべきというのを表現していたが、あれはうそ。

違うものは分けるからこそ調和できる

◯生物の本質は生殖と子育てやぞ

第二章:ではどうするのか?(かかる生活費とか)



目的

自分の子供を育て、そいつらに子供をつくらせること

○一緒(近く)に住むのは助け合う必要があるから→育児、介護など

遠くの親戚より近くの他人

病人、赤子、老人を助けるために近く住み合う。それなら一緒に住んだ方が楽。だから結婚がある。逆に言えば、育児が終われば解散すれば良い。

システムとしてはαオス一人と複数のメスによるハーレム育児同盟。
もしくはαオスによってやり逃げされ出産したシングルマザーと、その保護を引き受け、代わりに子供を産んでもらう契約関係になるのでは?
それが最大多数の最大幸福の落とし所では?
女が求めるものは出産のための人手と経験をもつ人
男が求めるものはセックスつきの家政婦

子供になんらかの障害が合ったとしても育てなければならないのではないか
ダウン症など

重度の発達障害により他人とのコミュニケーションがとれないなど
多産多死による選別ができない時代

科学の発展とお気持ち第一主義の行き着く先は、能力の良し悪しではなく、人柄のみで判断される世界。つまりいい人のみが生き残る社会。

今、その人が生きているということは、その両親はなにかしらの遺伝子的利点があったということ。異性に選ばれるだけの。
もしお見合いならそれはないが、
平和な世の中では母親は息子に他人とうまくやっていけと念入りに教える。
それは、そうすればいずれ近所の人に嫁を紹介してもらえ、お見合い結婚ができるから。

自由恋愛競争社会は大多数の敗者を生み出す。
それをやめるにはお見合い文化を復活させる必要があるが、そうするとそのコミュニティ(国とか)の遺伝子の平均レベルがどんどん下がっていく。
医療技術の発達によって本来淘汰されるからはずだった人たちが生き残っているように

タイプによる相性


自分は理想形なので、もしパートナーとなにか問題があれば、法則型になる
そのときに感情的に訴えかけられたり、気を引くような振る舞いをされたり、泣いたりされたら一気に興味がなくなる
ここから自分がβだと思う人だけ見てください

セックスつきの家政婦としてしっかり振る舞えるなら多少歳が高くてもいいが、それでもやはり一人だけならと望みが高くなる。

一人一個までの廃止と結婚の契約期間を短くするしかない

逆に言えばそれらが嫌なオス・メスは淘汰されるしかない
自由恋愛競争社会の中で弱者でいることをしっかりと意識すべき
自由経済競争社会は政府という親がセーフティを設けてくれているが、生殖にはそんなものない

贅沢言ってる場合じゃないんだよ!アナタが生まれたのは国際競争の中、コミュニティを強くするために一人一個までというルールが長らくあったから先祖が生殖にありつけていただけであって、先祖が遺伝子的に優れていたわけじゃない!
画面の中のイケメン・美人はいつまでもチヤホヤしてくれるけど、そんなデジタル・キャバクラに居続けられるわけじゃないんだ!
年齢による寿命による退店があるんだぞ!
いい男がいないとか言ってる場合じゃない!

そんなこと言ってる時点で、もう性格が悪いんだからセックスつきの家政婦としての就職に不利になってることに気づいて!


お互いにどうなったら離婚という契約解消をするかを話しておく。
その話し合いができない時点でメンヘラだから避ける

子供を育てる上でお金がない問題点は子供に失敗をさせる余裕がないということ失敗を経験させる余裕がないお金がないから何かが手に入らないという悲しみはあるがそれは日本人全員そうなので特に問題はなさそう


子供は親を尊敬しないインターネットの発達によって親から子供へ伝達する情報がなくなってしまった学校の登場によって親から子へ技術の伝達がなくなったように

目的があるから違うタイプの人は一緒にいられる。

注目型の女と法則型の男
子供を育てる際は役に立つ。ハートがあり、共感できる女。
脳みそがあり、対応策を考えられる男。
しかし、子育てが終わり、目的がなくなると暇になり対立が起きる。


まず、生涯恋愛社会では、結婚=ゴールインといい発想ではない。
会社に入れた(結婚できた)からよっしゃ!と思ってる女も、結婚でセックス

恋愛は誰でもできない結婚は誰でもできるなぜならシステムだから


○会社をいつでもやめられるようにするのと、いつでも離婚できるようにしておくのは同じぐらい大切。依存は精神を病む。
なぜ分かれるのが怖いのか?それは溺れる者は藁をもつかむから。

ライオン型のハーレムになる

しかしその場に男はいなくてもよい。

つまり、目的は共同育児の場であること

ボノボ型もしくはゴリラ型

恋愛が苦手なやつは犬を飼えばいい。そうするとしょせん異性なんぞ犬と同じ扱いでいいと理解できる。ほめると喜び、けなすとへこむ。猫ではダメ。ホモ・サピエンスの献身性を猫は持ってない。


余裕がある男が好き=責任をもとうとしてない男


これからはポルノを捨てられる男、生活レベルを下げられる女だけが生き残る。それ以外は繁殖できずに子供を残せない。


結婚の本質は経済的寄り合いであり、子育てという10年の長期ビジネス。その普及を考えるならハードルをとことん下げるしかない。

よい関係を維持するには?→依存をやめる。会社に置き換えれば分かりやすい。罵倒や軽んじが成立するのは他に行き場所がない相手のみ。ブラック企業ならぬブラック家庭がいやならモテ続けるしかない。


○娯楽過多の結果、恋愛の実用度が下がった。結果、恋愛に幻想を求めるように
○純愛=趣味
なぜならお金とかセックスはとかの現実性を否定しているから
○男は結婚をしぶり、女はセックスをしぶる。
互いにリスクがあるから。養育と妊娠

○若い女を好む理由
→歳を取って経験を積んだ女!と自慢されても、その経験は遺伝子に関与しないのでいらない。
必要なの出産できるか、優秀な遺伝子を持っているか
●遺伝子の青田買い?
結婚は子育てのための事業であり、結婚相手は共同経営者。




【7】子供は自分の子?それとも神の子?科学の子?


子供は宝でない。自分と関係ある子供は宝であるが、そうでないのはただのノイズ発生装置。


子育てにお金をかけられる時代は終わった


待機児童の多い地域、保育園激戦区に住んでいる場合

入園できなければ保育サービス、派遣ベビーシッターを利用しなければならない。
在宅仕事は保育園に入りにくい

子供は複数つくる
少ないと親から子への依存がおこる
子供への投資が高くなりすぎた時代
●子供を愛せない時は?
いやいや期
宗教の二世問題と似ている
自分の大切な娘、息子が自分の大切な考えを受け入れてくれなかった場合、どうするか?

●子供を使って強くてニューゲームをしたがる親
課題の分離ができていない→これは教育ではなく育児問題だなー。
●共同保育

共同狩猟

●なぜこの論を提唱するか?

現行の結婚制度では男たちの友情が無意味になってしまっている。

友情はチームワークによって獣を狩ったりか外敵を排除したりする役割があるのだが結婚して各家庭に分断された世界では男たちが友情の更新のために飲みに行ったりする行為がなんら妻や子供達に得がない。

なぜなら他人だから。

無関心な父親と教育?熱心(=コントロール欲求が強い)母親

●結婚が契約であるのならば 契約更新制度があってもいいはず

もっとも最高裁判所 裁判長の認可を自動的に継続してるようなものではあるのだが

●相手を選ぶ際、ホモ・サピエンスのメスはオスの収入を気にし、オスはメスの支出を気にする



死にたくない。 だから、これから来る信用経済で生き残る方法を探しています。